六十、 湘王参内 その一
「ああ、そういえばな」
朝餉の最中、いきなり青元が口を開いた。
もちろん一国の帝が口の中にものがあるうちに話すわけがない。天香から見て出しぬけにという意味で。
「湘王が来るぞ」
「まあ、本当ですか?」
「……はあ」
少し弾んだ声を上げる麗瑛とは裏腹に、その名前を聞いても天香は意味を掴みかねる。
湘王の名前くらいなら天香も知っている。王と名がつくのは宗室――皇族か、あるいは他国の王。湘王は前者である。といっても、何代も前の帝から分かれた傍系で、青元や麗瑛とはかなりの遠戚になる。
「確か、昔、戦の最前線で手柄を立てたとか、そこから武侯と呼ばれてるとかいう……?」
皇族に必要とされるのは軍を操ることであって個人の武技ではない。一応たしなみとして武技を磨くことは奨励されているし、天香はよくわからないが青元自身もなかなかの遣い手と聞いたことはある。しかしそれでも修練や試合で勝利を収めることと戦場で手柄を立てられるかどうかは別の話だろう。その段階に至っているだけで皇族としては少し、いやかなり規格から外れている。
武人という存在とはそれほど縁近くない天香にとっては、ありていにいえば、少し怖い。
燕圭を筆頭に近衛や侍衛の皆さんも武人といえばそうなのだが、なんというか、もっと荒々しい人を想像として持ってしまう。
「天香は知らなかったか。それは前の湘王のことだろう」
「お亡くなりになられていたのですか」
「そうだ。だから来るのはその息子のほうだな」
「息子?」
「知らなかったの? あ、でも前にいらしたのはまだ天香が来るよりだいぶん前だったかしら」
亡くなった先の湘王の息子、今の湘王の名を柳宗という、と天香は教えてもらった。
「その方もやはり、武芸がお得意なんですか?」
「あら、そんなに怖がることはないわよ天香。湘の兄上はお父上とは違うから」
「うむ。先代はそれこそ絵に描いたような偉丈夫というのか、まさに武人という出で立ちだったがな、柳のやつは名前の通り蒲柳というのか、どうにも体が弱くてな。先代も名付けを誤ったかとかこぼしていたよ」
父親が天香でさえ知っているほどの武名を轟かすほどなのだから息子もそうなのか。などと思って天香が尋ねれば、国帝兄妹は相次いでそう説明してくれた。
その一方、二人のその口ぶりが砕けた、親しげなものであることに天香は気付く。一般庶民的な言い方で言えば親戚親族にあたる宗室、皇族に対して二人がそんなに砕けた口調で話すことは少ない。それにも理由はあるのだろうが、その理由を考えるよりも前に、湘王柳宗はそんな中にあっては少数派の打ち解けられている相手なのだ、とそちらをまず頭に刻んでおく。
「名付けで人の進む道が決まるわけではないと思いますけど……」
「あら、天香はとてもいい香りだと思うわよ?」
「だってそれは、いつも香を選ぶのは瑛さまじゃないですか」
「香をつけていないときだっていい香りだと思うわ。今もよ」
「はあ」
そんなことを言いながら、麗瑛はすり付けるように肩口に軽く頭を乗せて微笑んでみせる。
きゅっと心のどこかが縮んだような感覚を覚えて、落ちつかなげに天香はそれとは逆側の腕を自分の鼻に寄せる。くんくんとかいでみるがわからない。わかるわけがない。変な臭いはしていないと思う。自覚できないだけでしていたらどうしよう。そこまでは言われていないから大丈夫か。たぶん。
名付け云々はさすがに先の湘王の冗談にしても、とそこまで考えて天香は思いつく。
「あっ、お体が悪いのでしたら、薬湯とかを用意しておかなくてはいけませんか」
「……ああ、いや、今では倒れたり寝込んだりもほとんどないはずだ。自分でも薬は持ち歩いているらしいしな」
確認しようと義兄を見れば、なぜか少しだけ苦そうな顔の青元がそう答える。特別に何かを準備しておいたほうがいいのかと思ったのだが、それなら大丈夫かと天香は思い直した。
それにしても朝餉に何か苦い食材があっただろうか。薬湯の話題から苦さを連想したのかもしれない。
「苦くない薬湯もありますよ」
「お前は何の話をしているんだ」
薬湯よりも甘いものに中てられたのだなどと、もちろん天香が気付くわけもなく。
「それで、湘王さまはいついらっしゃるのですか?」
「――今日の夕前には」
もったいぶって間を置いてから、にやり、と笑って青元は天香の問いに答えた。
「というわけで、湘の兄上をお迎えする準備をします」
朝餉のあと、侍女たちを前にして麗瑛が切り出す。その言葉に侍女たちがいつになくざわつく。
蓮泉殿の侍女たちは普段から精鋭というに値する、沈着という言葉がぴったり当てはまる。その彼女たちをして思わず浮き足立たせかける名であるらしい。と、天香は不思議な気持ちになる。
例外といえばさすがに筆頭格という感じの則耀と、こちらも天香同様よくわかっていなさそうな様子の光絢くらいのものだ。
そんな侍女たちに、麗瑛はてきぱきと指示を出していく。
「まったく、お兄さまももっと早くに言ってくれればいいものを。あれは絶対わたしたちを驚かせようとして狙っていたんだわ」
「たしかにそんな顔してましたけど」
呆れまじりの麗瑛の言葉に天香は同意して頷く。
いきなりの通告に、蓮泉殿はもちろんおそらく尚宮も別の意味で浮き足立っているだろう。もしかするとあの内官長のほうもそうかもしれない。
いや、その落ち着かなさはその周囲だけの騒ぎではなかった。
それを天香が知るのは、そのすこし後の話である。
「天咲! よかった、いた!」
「えっと、どうしたのよ福玉。そんなに慌てて」
「どうもこうも、湘王さまが参内されるってもう後宮中の噂よ! 本当なのよね?」
常にないような剣幕で茶飲み仲間に詰め寄られたのは、麗瑛から言い渡された用事のために蓮泉殿を出て、廊を歩いていたときだった。
隣の光絢と顔を見合わせて、天香は答える。
「ええ、そうみたいだけど――なんで?」
「むしろあなたこそなんでそんなに……って、そうか、あなたはこの春から来たからわからないのか」
「私もよくわかりません」
「そうかー二人ともかー」
脱力した福玉に、天香は逆に問いかける。
「なんで明梅舎のあなたがそんなに慌ててるの? 私たちは急に準備を申し付けられたからわかるけど……」
明梅舎に限らず妃嬪の殿舎が賓客の応対に使われることはありえない。ゆえに、その殿舎勤めの福玉やそのほかの侍女女官が慌てる必要はない、と思うのだが。
「だから、湘王さまがいらっしゃって滞在されるんでしょう!」
「それが?」
「ああ、もう、鈍いというか察しが悪いというか――しかたないわ。教えてあげる」
素早くあたりを見回すと、彼女は少しだけ柱の影に身を寄せて手招く。
招かれて天香とその後ろから光絢も顔を寄せたところで、声を抑えて彼女は言った。
「湘王さまはね――。一言で言えば、眉目秀麗で典雅な美青年でいらっしゃるのよ」
「はあ」
「そうですか」
「えっ、それだけ!?」
二人の気のない返事に、福玉は驚きと落胆の混じった声を上げる。
しかし光絢にしても天香にしても、まだ困惑の度合いのほうが大きい。
「美男子といわれましてもねえ、お姉さま」
「直接見てもいないものをどうこうとは言えないっていうか……」
そもそも余り興味もないというか。
いや、美形といわれる人間に興味がないわけではない。ここまで名を聞くだけで騒ぎになりかける、いや事実もう既になっているほどだから結構なものなのだろう。それくらいの予測はつくし、だから興味といってもそんなに言われるなら見てみたいな、くらいのものでしかない。
天香の場合、美形が見たければ毎夜毎朝至近距離で見ているというのもある。そうそう、美人は三日で慣れるというのは嘘だ。三日どころかその何百倍知っている顔でも慣れも飽きも一向にする気配がないのだから。とまあそれは話がずれているのだけれど。
「お顔や振る舞いだけじゃないのよ。侍女や女官にもよくお気遣いいただくんですって。主上と変わらない御年で――その上独身」
「ああ」
ようやく天香にも話の筋が見えてきた。
顔もよく血筋もよく人柄もいい、と。
つまりあわただしさのうちのいくらかは玉の輿を、あるいはつかの間の恋を夢見ているのが原因というわけだ。
福玉の話によれば、王位という身にありながらその地位を笠に着たりするところもなく常に穏やかで丁寧な物腰であり、あるいは話術も巧みで言葉を交わした女官たちを飽きさせることもなく、その上先ほどから話に上がる美貌とくる。聞いているだけならつけ入る隙などない。世の中の男性諸氏のほとんどは勝ち目などなさそうだ。
「もちろんみんな本心からそんな大それたこと考えてるわけじゃないのよ。ただもう、お顔が拝めるだけでも眼福っていうか」
「そんなに美男子でいらっしゃるの?」
天香は話を合わせる。
妃嬪は帝がいないところで直接男と話してはいけないという掟があるが、侍女や女官に関してはそのとおりではないことはつい先日思い知ったばかりでもある。加えて聞いた限りでは好青年。
どうにかしてその目に触れられないかという駆け引きが繰り広げられているのだろうか。
だからと言っていざ湘王が来たら各殿舎の外廊に侍女女官が鈴なり、なんて光景は勘弁してほしい。というかそれはたぶん、いくら人品優れているらしい湘王といえどもさすがに引くんじゃないかと天香は思う。
「私も前回いらっしゃったとき遠目に一回しか見たことないんだけれど、あれはなんていうのかしらね。目が話せないというか、気品というか纏っている空気というか……」
要するに、どうにか垣間見られるだけでもいい、会話を交わせれば更にいい、そんなものらしい。
役者を贔屓にするような感覚にも近いのかもしれない。
なんというか、それは少し。
「なんだか腹立たしいんですけど」
天香が思ったのとまったく同じことを光絢が言う。
心を読まれたのかと思うほどあまりにもぴったりの瞬間で。
「そりゃあ、浮き足立ってるのを咎める人も多いけど、でもさあ少しくらいはこう仕事には潤いっていうか望みみたいなものが欲しいっていうかさあ……っと、ごめんっ、喋りすぎた! そっちも仕事の途中でしょ? ほんとごめんね!」
ごめんごめん、と繰り返し謝りながら福玉は去っていく。そんなに謝られてもなんだか悪い気がしてしまい、その姿を見送って天香はため息をひとつついて。
「なんだか騒がしいことになりそうな気がするんだけれど」
「奇遇ですねお姉さま、私もなんです」
さっきと同じように顔を見合わせて、今度は互いに苦笑いを浮かべたのだった。