五十九、 幽霊一件 その四
普段怒らないような人間ほど一度怒ったら怖いというけど、燕圭でこれならいつも柔らかな英彩などはどうなるのか、なんて考えが天香の頭をよぎる。怒り狂う英彩……うん、想像できない。
そんな想像に使われているなど考えもしていないだろう英彩が、そこでやんわりと口を挟んだ。
「青っぽい火の玉を出すやつでしょう? 城下の瓦舎で見たことありますよ。怪談話の人魂に使っててー、ああ、そういえばそっくりでしたねえ」
「気づいてたなら言ってくれれば……」
「いえ、本当の人魂もこんな色なんだー、とは思ったんですけど」
英彩の話に空気がちょうど良くほぐれたところで、麗瑛が丹慧に話しかける。
「それで……丹慧さん? あなたが三人の前に火の玉を出したのはなぜ?」
「……これまでは雨華舎の子たちにだけ見せていたのですが、蓮泉殿の侍女の方まで実際に見たということになればますます話が広がって、そうすればもっと人が寄り付かなくなると――」
ふてくされる、というほどではないがやや不満げに丹慧は言った。
それに応じるように、けれど丹慧に向けた言葉ではなく麗瑛が言う。天香にだけ見えるように自慢げに唇を持ち上げて。
「そう考えると思って、この三人に見張りに立つように言ったのよ。言ったとおりになったでしょう、燕圭?」
「はい。人魂を薙ぎ払ったところ、鉄線と火のついた布玉が」
最後にものを言ったのは武技だったようです。
「それで逃げ切れずにあなたたちは見つかったわけだけれど。……さて、どうしようかしら」
麗瑛の言葉に、二人の恋人たちは階の上からでもわかるほどに身を硬くした。
どんな罰がその身に降りかかるのか、それを待ち構えるように。耐えるようにうつむいて。
そんな様子を見て、麗瑛が大きく聞こえよがしなため息をついた。
「そんなに固まられても困るわ。わたくしがいつ罰を与えるなんて言いました?」
「し、しかし、私たちは――」
言いかけた丹慧を制して、麗瑛は言う。
「もちろん無罪放免というわけではなくて、条件をつけさせてもらいますけどね? 身勝手な動機で結果として宮中を騒がせたとはいえ……悪戯のようなものだったし、被害らしい被害は実際にニセ幽霊に脅かされたのも雨華舎の侍女とそこの三人だけ。その全員にちゃんと謝って、納得してもらえたならそれについては不問としましょう」
ぽかん、としたのは天香たちだけでなく、当の二人も同じだった。
気を取り直して一番最初に反応を返したのは燕圭だった。
「甘いです!」
「甘いかしら」
「少なくともこれにとっては!」
どれだけ信用ないのか。
もはやこれとかあれとかだけで呼ばれている彼は「勘弁してくれよお」と声をあげ、「うるさい喋るな」と手にした棒でつつかれている。強めに。
「じゃあまあそれに足してきつめの修練でもしたらいいわ。そっちは加減がよくわからないから燕圭に任せるわね」
「お任せください! 今まで泣かせた女の分まで絞りきってやります」
いやそれはどうなんだろう。話が違うんじゃないかな。と天香は思う。麗瑛も同じように思ったか、
「一応聞いておくけど、私怨じゃないのよね?」
「自分とこれが!? ありえません!」
ものすごい心外そうな顔で即答した。本当にただ女癖のほうに怒っているだけのようだ。……少しでも疑った天香は申し訳なく思う。
「あ――ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
さておき、渦中の二人はといえば揃って中庭の砂利に頭がつきそうなほど深く叩頭する。
そんな二人に向けて、麗瑛は言葉を重ねる。
「ああ、早とちりしないでね。まだ条件は途中だから。幽霊を見たと嘘をついて噂を流した件は……なんて言ったところで、噂話をしたからといってそれをひとつひとつ罰することなんてできないわ。そんなことしたら大変よ」
「たしかに、後宮の侍女女官は全員罰せられてしまいますね」
天香はつい口を挟んだ。噂話に興じるのは後宮の人間にとって一番手軽な娯楽だ。
だからこそ今回のような目撃談から無責任なものまでさまざまに乱れ飛ぶ。
とはいえ自分も例外ではないし、妃嬪さえ噂話は大好物なわけで。
「そういうこと。人の命に関わるようなものというわけでもないのだし。ああ、脅かした相手に謝れとは言ったけれど、噂のほうはそのまま捨て置きなさい」
「それは、なぜ……?」
「どこまで広がってるかわからないのに、全部いちいち訂正するなんてできるとでも?」
疑問の声を上げた丹慧に、麗瑛は逆に問い返す。
一度流れた噂を訂正しようとしてもそんなことはなかなかできるものではない。むしろそれ以上のほかの噂話にかき消されるのを待ったほうが早いし楽だろう。怪談なんて騒動が下火になれば霧散する類の話でもある。それこそ幽霊のように。
もしかすると噂の根源でもある彼女が嘘の噂を流したと、被害者たちや別の女官あたりから話が流れるかもしれないが、しかしそれこそ身から出たなんとやら、麗瑛や丁夫人や天香たちが関知するところではない。
それがわかったのか、丹慧はもう一度執子の上で伏して礼を述べた。
「最後に、侍女と武官が想いを通じさせるのはあることだし、そこに目くじらを立てても仕方ないわ。そもそもそこはわたしの管轄じゃなく、海嬪の権限でしょう。あなたは海嬪の侍女なのですから。だからその件に関しては海嬪と談じてくださいな。――以上の条件を遵守すればこれ以上の責は問わない。けれど、もしそうでない時は」
これ以上は言わずともわかるだろうと、麗瑛はそこで言葉を終わらせる。
二人が再び何度目かの平伏をして承諾の言葉を発したのを見て、麗瑛は二人に下がってよいと許可を出す。それから二人をそれぞれの持ち場に送り届けるように侍女へと命じる。
男は顔見知りの燕圭に、そして丹慧を雨華舎へ送るようにと言われたのは、なぜか天香だった。
「私?……ですか」
「いいでしょ。今回、あなただけが動いてないんですから」
「そ、則耀さんだって」
口をとがらせてみせれば。
「則耀は今からお茶を淹れるの」
「『俊善』がございますが」
「青茶の気分なのよね」
「では『清山』で」
「そうね。では、よろしくね」
そんな会話を背に、天香は中庭に下りて丹慧を促してその場を離れた。
なんとなく納得はいかない。釈然とはしないがしかし致し方ない。貴人相手に天香がお茶を淹れるわけにはいかないので。
「これでよかったかしら?」
解散した面々を見送ると、麗瑛は蓮泉殿の中庭に沿うひとつの房の中に向き直り、そこにいる人間に問いかける。
その人を指して天香は貴人と呼んだ。
それは雨華舎の主、海嬪。
彼女は、一部始終をそこから見ていたのだった。
「朝からお呼び立てしてご足労をかけたけれど、あのようになりました。あとは海嬪さまにお任せします」
「驚きましたけれど――彼女にご配慮いただいた件は誠にありがたく」
言って、つつましげに頭を下げる海嬪。それは自分の侍女に対する情に満ちた礼だった。
しかし、麗瑛はそんな彼女に言う。
「彼女のためだけで放免としたわけではありません。そこは履き違えないでくださいね?」
「――と言われますと?」
「そうね、お説教だけでもって放免、というのはあなたにも利のあることでしょう、海嬪さま? 丁夫人にも知らせず、この蓮泉殿の中に収めておけるのですからね」
落ち着いた声で、麗瑛はそう微笑んでみせる。
そう、処罰ともいえないような軽い罰で放免としたのは、二人に対する温情のためだけではなかった。
彼女がどちらかといえば釘を刺そうとしていたのはその主のほう。海嬪に対するものだった。
女官の管理責任はそれぞれの上役、最終的には丁夫人に帰する。それと同様に、侍女のそれはその主である妃嬪に帰せられる。すなわち、侍女に対して正式な罰則をつければその旨が記録され、その責は妃嬪に及ぶ。そうすれば妃嬪自身の評価に繋がり――。
つまり、と麗瑛は考える。
これは天香から聞いたものをそのまま変形させて当てはめただけだ。彼女は陳嬪の評価を盾にその侍女に非を認めさせて両成敗に持ち込んだという。こちらは海嬪の評価を盾にして、彼女自身の行動を縛る――平たく言えば、恩を売ったのだ。もう少し意地悪く言うなら脅迫という言葉に近くなるかもしれない。さすがにそこまで反感を買うようなことはしないつもり、だけれど。
雨華舎の様子から兄・青元がおそらくあまり海嬪の元へ渡っていないだろうことは見て取れた。後宮をあまり重く見ていない帝の、ただでさえ少ない渡御の順が更に下がっていたかもしれない所、それを麗瑛が「配慮」したと言う形。それは恩を売るのにはちょうどいい機会で。
うまく操る、とまで言うつもりはない。けれどなるべくならこの後宮を円滑に差配したい。天香とは違う意味だけれど、麗瑛もまた理想を思っていた。
当たり前だが、もちろんそこまで全てを海嬪に面と向かって説明なんてしない。だが、ほのめかすだけでも効果はある。
――天香には見習ってほしくないのだけれど。
「――殿下の深慮、誠にありがたくお受けいたします」
いくらか間が空いて、わずかに目を見開いた海嬪がそう言って頭を下げる。
なんとか意が伝わってくれたらしいと麗瑛はほっとする。少し驚いた風だったのが気にかかるけれど。
そういえば海嬪と近しく言葉を交わすのはこの一件が最初のようなものだから、仕方ないのかもしれない。そう麗瑛は思いなおす。
懸命に仕事をしているだけと言うのに、驚かれるなんて不本意だ。
「ところで殿下、その……」
「どうしました?」
「せっかくの機会ですし、蓮泉殿の御方さまにも、お目通りが叶えば……と思ったのですが」
一転して麗瑛はわずかに背を緊張させる。
思ってもみなかったからではなく、むしろそれは予測の範囲内だった。
予測の範囲内だったから――嘘いつわりのない言葉と微笑で返せる。
「残念ですけど、今日はお会いにはなれません。今は席を外されていますから」
席を外している御方こと天香はといえば、麗瑛に言われたとおり雨華舎まで丹慧を送ってきて、そして雨華舎に着くやいなやその同僚たちに取り囲まれたところだった。
「聞いたわよ、あなたが幽霊を見せてたんですって?」
「見せてたのはこの子の『いい人』でしょ」
「私本当に怖かったんだからね! もう!」
燕圭たちが捕まえた段階でこちらにも話を通していたという。最初から秘密にするなんてできなかったのだ。
笑いさざめいたり怒ってみせたりしながら、そんな中でもあくまで大声で騒ぎたてるわけではないところに普段の雰囲気が垣間見える。そういうところにも、それぞれの殿舎ごとの違いが現れるものだと天香は感心する。
そんな口々に言う侍女女官たちの中でひとりが言った言葉に、さざめきが止まる。
「ああ、あの声は怖かったもんね、地を這うような女の声。あれどうやってたの?」
ぴたりと止まった無音の中で、丹慧は落ち着き払って返した。
「は、声? 幽霊が喋るわけないじゃない」
「え?」
「え、って?」
重なった疑問の声に、怪訝そうに丹慧は言う。
幽霊が喋るの喋らないの、これはつい最近どこかで聞いた。あれは。
ふと天香は思いついて、丹慧に問いかける。
「つかぬ事をお伺いしますが、お生まれはどちらに?」
「眉州だけど、それが何?」
「いえ、その……声を聞いたって言う人がいるのは?」
「私がやったのは人魂と布を着せた人形だけよ? そもそも私が雨華舎の子たち相手に声真似したって限度があるでしょ、わかっちゃうもの」
「……じゃあ、あの声はなんだったの? 確かに聞いたのよ、『立ち去れ』って……」
その場に沈黙が落ちて。
やがて誰かが、ぽつりと言う。
「それ、もしかして本物の――」
――これだから、幽霊話は苦手なのに。
天香は泣きたくなるほどそう思った。




