五十六、 幽霊一件 その一
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その話が切り出されたのは、ある昼下がりだった。
「幽霊……?」
「そう、幽霊ですよお姉さま」
「そんな、またどうせ噂話でしょう。まったく噂しか楽しみはな……いや、ないのか」
いい加減な噂話で振り回されるのはけっこううんざりしてきているところだ。
とはいえ自分だってそんなに声高に非難できるわけじゃないけれど。
「それが噂話じゃないんですよお!」
「え、そっち!?」
「天香?」
「いえ、なんでもありません」
光絢が話を振ってきたものだからそっちから続報がくるものだと思っていたら、出所は英彩だったようだ。
思わず声をあげた天香は、麗瑛に怪訝な顔をされて少し恥ずかしい。
気を取り直して英彩に訊ねる。
「噂話じゃないってどういう意味ですか?」
「実際に見た人がいるんですって」
「そりゃ見た人もいないのに幽霊の話なんて流れないでしょうけど」
「ですから、その見た人から直接聞いたんです、私が!」
どうだ、と言いたげに胸を張ってみせる。
まあそう意味では噂、ではないわけだ。
はっきりとした目撃談だもの。
「どう思いますか、瑛さま?」
「幽霊? 幽霊とか怪談とか城には付き物よ。いっさい聞いたことがない、なんて言わないでしょう?」
「ええ、まあ……」
しれっという麗瑛の言葉にあいまいに相づちを返す。
城というものはある程度人の血を吸っている、という。だからどんな城にも怪談話の種はいくつも転がっている。この鷲京の帝城だってそうで、有名どころ(?)のいくつかは聞きたくなくても耳に入ってくる。
後宮で暮らすようになる前から出入りしていた手前、それは天香も知っている。知ってはいるが。
すると、麗瑛がさらに続ける。
「幽霊騒ぎなら去年もあったでしょう、ねえ」
「そうですね。今年はむしろ少し遅いですか」
「ね、天香さまおわかりでしょう? 則耀ちゃんはこんな感じで落ち着きすぎて面白くないんです」
「毎年毎年この時期には大騒ぎしてるあなたと一緒にしないで」
「去年? 去年ってなんですかお姉さま?」
一度に喋られても困るしあと同意を求められても困る。
聞いていれば、夏になると毎年のように新しい幽霊の話題が口の端に上るらしい、のだけれど。
「去年のはなんだったかしらね」
「たしか、風に飛ばされた洗濯物がどこだかに引っかかってたとか」
「そうそう、しかも二回もあったのよね。あんまりおかしくて笑っちゃったわ……あれ、もしかしてこの話天香にはしてなかったかしら?」
「していただいてないですね」
「そうそう、天香が苦手だから言わなかったんだった」
確かに幽鬼怪談の類はあまり好きではない。そこで気づかってくれる優しさは嬉しいけれど、しかしどうせなら、その優しさを一年越しで無にしないでほしかった。苦手とはいえ怪談は夏の風物詩でもあって、黙っていても話のほうから近づいてくるものだし。
というかそれ以前に。
「でもそれ、怪談っていうより笑い話じゃないですか……」
そこで天香は思い出す。そういえば麗瑛以外から去年聞いた話があって。確か、
「あ、血まみれの女が練り歩くって言うのは……?」
「ああ、慣れない新人が茜根の煎じ汁を頭から被ったとか」
「しまらない!」
染物にも薬にも使う茜根を煮出すと確かにその汁は血にも少し似た赤に染まるけれど、それを本当の血と見間違えてしかも幽霊呼ばわりとかいったいどういう過程を経てそうなったのか。
「まあ、幽霊の正体なんてそんなものよ。今回もそんなのだわ、きっと……で今回はどんな噂?」
「だから噂じゃないんですってば――!」
――夜更け。
と言ってもまだ後宮が眠りにつくには早い時間帯。
どこかの殿舎から漏れる管弦の音を小さく聞きながら、ひとりの侍女が道を歩いていた。
その視界の端に光が横切ったような気がして、とはいえ他の侍女か女官の持つ灯りだろう、と思ってふとそちらに目を向ける。しかしその方向には木々が繁るばかり。
――そんなところで何を?
怪訝に思った彼女はその繁みに歩み寄る。もし――そんなことは考えたくはないが――曲者や賊であったら、それを見過ごしたと責めを受けてしまうからだ。帝を騙る不届き者の件からこっち、そういうお達しが女官長からも出ていた。
「誰か?」
声をかけたそのとき、一陣の風が吹いて、手提げ灯籠の灯りが掻き消えた。
――なんでよ、もう!
手提げ灯籠の火が風で消えることはあまりない。声には出さずに悪態をついた彼女の視界の端に、ふわふわと漂うようにまた光が横切る。しかしそこで彼女は気づく。その光が蝋燭の橙色ではなく、もっと青白いことに。
夏の宵に青白く飛び交う怪火――人魂。
それは死んだ人間の魂がさまよう姿と言われている。
侍女の全身が総毛立った。消えた灯りに飛ぶ人魂とくれば、次は。
そして彼女は予想通りのものを木々の中に見つけてしまう。すっ、すっ、と木々の間を縫って歩くような、白い人影のようなもの。しかしその輪郭は全体に薄ぼんやりとしていた。
そしてそれが――ふわりと舞い上がった。まるで宙を歩くように。
それを見て、侍女の喉から絹を引き裂くような悲鳴が上がり。
――というのが英彩の語っただいたいの流れである。
「それだけ?」
話を聞き終わって、拍子抜けしたように麗瑛が言った。
「殿下はそう仰いますけど、実際見た彼女はもう怖がっちゃって怖がっちゃって。夜に出歩くときはひとりにならないように誰かに一緒に来てもらっているそうです」
「天香、わたしは大事なことに気づいちゃったわ」
「なんです?」
「怪談話を昼の明るい中で聞いても何も怖くないのね」
「……そうですね」
さも一大事みたいに話しかけてくるものだから何かと思えば。天香は脱力する。
英彩が付け加えるように言う。
「他にも、幽鬼の声が聞こえたとかいう人もいるんです」
「風の音を聞き間違えたのでは? オォォ~みたいな」
「ちゃんとはっきり言葉で聞こえたって言うんです、『ここから立ち去れ』みたいな」
「立ち去れ、ねえ……」
天香がせっかく幽鬼っぽい低い声を真似してみたのに、それは素知らぬ顔をされた。
代わって光絢が怪訝そうな顔で言う。
「え、幽霊って喋るんですか……?」
「「え?」」
婦妻の声が被った。
「喋る幽霊もいるでしょ?」
「えっ?」
天香の答えに意外そうな顔をしたのは、光絢だけでなくなぜか燕圭もだった。
二人は少しだけ顔を見合わせると、口々に。
「いや、尤州ではあんまりそういうのは聞いたことがないっていうか」
「幽霊って、黙ってじーっと立ちつくしてる印象ですけど……」
「お国柄、というやつなのかしら? 燕圭は眉州よね?」
麗瑛がそう引き取った。尤州は国の南東、眉州は南西側にある土地だ。
南の幽霊は喋らないのだろうか。なんて天香は思う。
都生まれ都育ちの天香にとっては喋る幽霊の話は別に珍しくない。言うまでもなく麗瑛も同じだ。付け加えるが、珍しくないのと苦手なのはまた別の話。
「とにかく、特に実害も出てないなら何もすることはないわね。そのうち出なくなるんじゃない?」
「実害がないわけでもないんです。さっきも言いましたけどその人怖がっちゃって、その周りの侍女女官たちもその辺を避けて通るようになったらしくて」
遠回りを余儀なくされて、日々の仕事にも影響が出ている、ということらしい。
「それ、どの辺りなの?」
「ああ、雨華舎から先に進んだあっちのほうの――」
詳細な場所までわかっているという。それを聞く麗瑛は口元に手を当てて何事か考えていたが、やがて顔を上げてこんなことを言い出した。
「ふうん……。少し調べてみましょうか」
「またそうやって……丁夫人に渋い顔されても知りませんよ」
「後宮の仕事に支障が出てるなら、わたしが調査したって構わないでしょう? これも差配の一環よ」
面白そうだから気紛れに首を突っ込むことを差配の一環と言ってしまっていいんだろうか。
とはいえ、いちおう丁夫人にお伺いを立てて、駄目と言われればさすがにそれ以上はできないだろう。
丁夫人が一刀の下に断ってくれますように。
いや、丁夫人ならそれだけではなく幽霊とかそういうあやふやなものに嬉々として関わろうとすることを戒めてもくれるかもしれない。そうに違いない。きっとそうだ。
気乗りのしない天香は、そんな都合のいいことを願った。




