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公主殿下の寵姫さま  作者: 有内トナミ
三章 後宮 編
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五十四、 一計 下



 どうしようと思っているのか。そう問われて、彼女は言葉に詰まった。

 しかしいつまでも黙ってはいられない。意を決したように、彼女は口を開く。


「お、恐れながら……すぐに後宮から下がって郷に帰るつもりでした。そ、そして、それから――」

「堕胎、するつもりだった、と?」

「……はい」

「その気持ちは、今も変わらないのね?」


 ざわり、と控える女たちが今度はもっと大きくざわめいた。

 公主の口から堕胎なんていう直接的な言葉が出たからか。いや、そもそも帝の子をそうするという発想が後宮にはないからか。


「御子が宿ったと知ったとき、心の底から怖くなりました。私は何も考えてなどいなかったのです。やがて生まれてくるこの子をこの後宮で育て上げられるなどとも思えません。陛下のお情けに縋ってこのようなことになってしまいましたが、私は、私は――」


 これだけはここで言ってしまわなければいけない。そのためにこの詮議の場まで上がったのだ。

 そんな思いつめたような、張り詰めて震える口調で。

 出来るだけの勇気を振り絞った言上なのだろうと思わせる強さで。

 搾り出すように、言葉を続ける。


 しかし、そこに投げかけられた麗瑛の言葉は、それを許すでも拒絶するでも、疑うでも信じるでもなく。

 単純に命じる言葉だった。


「そう。なら――外しなさい・・・・・



「きゃっ!」

 誰かが小さく叫ぶ声が聞こえたのと、それはどちらが早かったか。 

 ガタガタ、ザッザッと断続的に響く音。それがなんなのか理解するよりも先に、部屋の中が急に明るくなった。雲が切れて日差しが急に差し込んだ、どころの話ではなく。その明るさに天香は目を細める。ふわりと舞った風が部屋の中に溜まった空気を押し流す。他の人も手で目を押さえ、袖を目にかざす。

 動転している下女を含めて、何人が事態をすぐ把握しきれただろうか。

 目が慣れてくるにつれて何が起こったのか、部屋の中にいる人間にもわかってくる。


 いきなり明るくなった室内で、彼女はぽかんと外を――蓮泉殿の、その内庭を眺めている。

 部屋の中庭に面していた側を塞いでいた板戸や御簾が取り払われて、直接中庭が見通せるようになった。

 日よけや衝立、御簾。

 ひとつひとつは特に珍しいものではない。特にこの季節の強い光を適度に調節するには必需品だ。

 そして板戸。

 庭に面する大きく開いた場所にはめ込む板戸は、通常冬はずっと閉じられ、春秋は昼だけ開けられ、夏は常に外されている。薄暗かったのは、夏だというのにそれがはめ込まれていたからだった。もちろんそれだけでは完全に光を遮ってしまし風も遮って暑いため、必要な分だけは御簾や衝立で光の量を調節してあった。

 それらが麗瑛の合図によって、一気に外されたのだ。


 その庭には殿の名の通りに蓮の花が咲く泉があるが、それはもうちょっと外に寄らなければ見えない。

 その代わりに、天香の位置からでも見えているものがあった。

 人の顔だ。

 それも一人や二人ではない。両手両足の指を使って数えてなお余る数の人間が、蓮泉殿の庭にひしめいている。いつもの穏やかな庭とは根本的に密度が違う。埋め尽くすというほどではないが、ちょっと迫力はある。

 そして――そのほとんど全員が、男だった。

 ほとんどというのは、一応何かがあった時のために侍衛が混じっているから。彼女たちは胸板も腕も背も大きなお姉さまたちだ。正直迫力と言う意味でならこちらのほうがもっとある。男なのか女なのか本気でわからないような人もいる。いやまあそれはそれとして。


 後宮五殿のうちひとつの中庭に、こんなに大々的に男が入ることが許されたことがあったか。と天香は思う。

 それを発案したのはもちろん自分なのだけれど、実際に実行に移してみると思った以上に、なんというか衝撃的な光景だった。

 ちなみに麗瑛の座所とそれより奥は外からでは直接は見えない。何度も実際に(青元や月勝が)見て、御簾を上げる角度を調節して、光の加減を見て確かめてある。やりすぎた気がしなくもないが仕方ない。重要なのはこの先なのだから。

 そして、頃合を見計らって麗瑛が切り出す。


「そなた、先ほどからわたくしの質問に答えていましたね。陛下には何度も会っていると」

「は、はい……」

「なら、この男たちの中から、わたくしのお兄さまを、つまり国帝陛下を見つけることも簡単なはず。見つけ出して、ここに連れておいでなさい。そうすれば、郷に帰りたいというそなたの望みを叶えてあげましょう。あるいは望むなら、医官をつけてもよい。……どうです?」


 天香の案じた一計の、これが一番の核。

 その言葉は朗々と響く。

 麗瑛の提案が部屋の隅々まで行き渡って跳ね返り、ざわめきとなって返ってくる。

 その場に集まった女たちがささやきあう声が周囲を満たす。

 女たち――彼女たちは蓮泉殿の侍女ではない。尚宮職の女官でもない。

 各殿舎の侍女や女官、そのほかの職掌の女官も数名いる。

 福玉ふくぎょくがいる。豊寿ほうじゅがいる。津清しんしんはさすがにいなかったがあの頃顔見知りになった尚寝の女官がいる。

 この部屋に入りきらない分は中庭を囲む別の部屋に入れてある。

 彼女たちが、この場の証人だった。

 いつもの茶会で、『噂が公主殿下のお耳にも達し、くだんの下女本人を呼んで詮議を行うと仰せです。どうなるか見たくはないですか』などと話を向けたところ、二つ返事で飛びついてきたのだ。お耳にも達し、なんて言ってる自分が達した本人なのが面はゆいところだが、そこには誰も食いつかなかったのは幸いだった。

 他の侍女たちにも似たような話を回し、二、三名の嬪など自分自身で見に行きたいとまで言いだした、らしい。男の目に触れかねないのでそれはあれこれ理由をつけて阻止した。

 要するに結局、誰も彼もが噂の真偽に興味津々だったのだ。


「さあ、行きなさい」


 麗瑛の柔らかい言葉に押されて、下女は廊へと出ると高欄をつかむようにして立つ。そのまま庭を見回して、一人ひとりの顔を見ていき。

 その顔が、少しずつ焦りに歪む。何度となく庭を見回す速度が少しずつ速さを増す。

 そのさまを見て、柔らかく麗瑛が尋ねる。


「どうしたの? 何か不都合があったというなら、遠慮なく言いなさい。わたしに言えないなら侍女でもいいわ。ねえ則耀」


 部屋の中で一番中庭の側にいた則耀が「は」と短く応じて彼女に近寄り耳を寄せ。

「この中に陛下はいない、と言われております」


 その言葉に、小さく言い交わす声がざわめいた。

 さらに則耀に促され、庭から部屋に向き直った彼女は麗瑛に平伏し、今度は自分の言葉で言う。


「お、お許しください。ここに陛下がいらっしゃらないのに、その中から陛下を探せなどと、その――」


 無理を言う、か、お戯れを、か。繋げようとした言葉はどちらだろう。と天香は思う。

 今度こそ、大きくざわざわと声が立つ。

 特に侍女たちが隣り合ったあたりから。

 そのざわめきを尻目に、ひときわ高く澄んで通る声で、麗瑛が呼びかけた。


「あらそう。らしいですわ、お兄さま」

「――そうか。お前の策は見事に実ったのだな、麗瑛」


 やや間を置いて、どこかのんびりとした声色で返事が返る。

 その声と同じくして、ザ、と砂利を踏みしめる音と共に、男たちが片膝をついて頭を垂れた。

 数人こういうことに慣れていない工人か庭師の動きが遅れたので、一糸乱れぬなんて風にはいかなかったけれども。

 それもまあこの義兄らしいのかもしれない。

 公主がお兄さまと呼び、そして公主を麗瑛と名のみで呼べる人間。

 そして周囲からの礼を当然のように受けている人間。

 国帝、江青元がそこに立っていた。


 中庭に並んでいた男たちは、庭師たち、工人たち、それから内官長の部下の官吏たち。

 そして、青元本人。

 帝らしい煌びやかな式服などではもちろんない。平服でもない。ご丁寧なことに官吏たちの着るような官服でさえなく、工人や庭師に近い作業着のような衣装を身につけていた。

 そこまでやれなんて天香は言ってもいない。目立たないように、としか。だからあれはあの義兄の発案だろう。そんな乗り気にならなくてもいいのに。

 男たちの中に混じって立つ青元は意外なほど溶け込んでいた。並んでいるその時は表向き取り繕ってはいたが面白いものを見るような顔をしていて、その表情は麗瑛のそういうときの顔に驚くほどよく似ていた。兄妹なのだから当然といえば当然なのだけれど、平生の顔はそこまで似ているとは思わないのが不思議だ。

 姿を現した今はその表情は消え、思わず飛び出そうとしていたあの時に見せた怒りや憤りでもなく、どちらかといえば哀れみに近い表情をその整った顔に浮かべている。


 侍女や上級女官はもちろん青元の顔を知っている。

 だから、『ここに帝はいない』と彼女が言いきったとき、すでにその姿を見ていた人のなかからざわめきが起こったのだ。

 そのざわめきは、今も引かないまま部屋を満たしている。

 

 そして、下女は。

 確かにそこにいた青元を見つけられなかったばかりか、この中にはいないとまで言いきってしまった彼女は。

 血の気の引いた顔で、愕然とした表情で、青元をただ見つめている。


「ご苦労であった。皆、世話をかけた。下がってよいぞ」


 きざはしを上がってきた青元が廊の上から男たちに声をかけると、侍衛が彼らを引き連れて中庭を出て行く。そして青元は、力なくただ自分を見上げるだけの下女に視線を移す。


「さて、余と情を交わしたという下女はそなたか」

「あ……うぅ……」

「かわいそうに、麗瑛が恐ろしすぎたか。言葉も出ないようではないか」

「お兄さま?」

「あー、その、なんだ、ちょっとした冗談をだな」

「お兄さまは冗談が下手でおられるのですから、あまりそういうことを仰らないように」

「お前な……」


 兄妹が言葉を交わしているうちに、まだ呆然とした顔を崩せずにいる下女が、ぽつりとこぼすように呟く。


「へい、か……ほんとう、に――?」

「そうだ。余が青元、この国の帝だ」

「そんな――では、あのかたは……わたしがお情けを受けた御方は、誰――?」


 混乱から未だに立ち直れないように、言葉がただ口から漏れる。

 当然だろう。帝だと信じて情を交わし、その子さえ身ごもった人間が誰とも知れないまったくの別人で、その事実を目の前にいる本物の青元みかどから突きつけられたのだ。

 力ない彼女の言葉を聞いた周囲の女たちは、事情をうすうす察したように顔を見合わせる。目元に袖をやる姿もある。離れた位置にいて事態の進行がつかめきれていないような顔をしている、そんな者には周りの誰かが教えるようにして、次第に広まっていく。

 彼女が部屋に入ってきた最初には、突き刺しそうな視線を投げていた侍女もいたのだが。


「そなたは、不埒者に騙されたのだ。いや、こともあろうに帝の後宮で帝の名を騙るなど、不埒で済む問題ではない。これは余が愚弄されたも同じこと。必ずや犯人は見つけ出してそなたに償わせると、この青元の名で約束しよう」

「わたしは……わたしは、それでは、いったい……だって、あのかたは……」


 観客、もとい聞き耳を立てる侍女・女官にも確かに聞こえるように言う青元の言葉がどこまで耳に入っていたか。彼を見上げた姿勢のまま、うわごとのように文章にならない言葉を繰り返すだけだった彼女のその体からふっと力が抜けると、糸の切れた操り人形のように、ばたり、と横向きに床に倒れ伏した。

 則耀が近寄って様子を窺い、麗瑛と青元に告げる。


「気を失われたようです」

「無理もないわね。むしろ今までよくもっていたと言うべきなのかしら」


 麗瑛がそう気遣いの言葉をかける。

 その頃には、周囲から下女に向けられる視線はもうすっかりいたわしげなものに変わっていた。


 こうして、お手つき騒動は幕を閉じた。



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