五十三、 一計 上
少女は夢うつつのような心持ちで先導する女官の後について歩いていた。
良いか悪いかはわからない。とにかく、陽気な夢ではない。
その夢の結末も、この向こうに待っているのだろう。
心だけでなくその足取りも重い。夏の盛りを目前に控えた時期の明るい、明るすぎる日差しの下を横切っている間も、彼女の心とその表情は暗いままだった。
先を進む女官は、迷いのない、それでいて柔らかな足取りでひとつの殿舎の中に入っていく。
さらにその廊を進んでいけば、やがてそのうちの一室に招き入れられる。中に入って彼女は思う。
暗い。
いや、暗いといっても真っ暗闇というほどではない。うつむいたままのこの姿勢でも、部屋の中のどこに人がいて、その人々がどんな顔をしているかまでもおそらく見える。その程度には明るさはある。ついでに言うとその人数は思っていたよりもずっと多い。ちらりと見えたのは女官服、そして明らかに意匠の違うのはたぶん、どこかの侍女の服だ。
引き出されてきた自分を見るために集まったのか。それとも、他に何かの意味があるのだろうか。
けれど、暗い。
もちろん、明るい外から入ってきて目が眩んでいるのもある。しかしそれだけではない。
光は入ってきているし、風も抜けている。
その風の中に水の匂いがかすかにあるのは、近くに池があるのだろうか。
ただ、それはひどく限られていることは確かで、今の彼女にはとても心細いものに感じる。
しかし今の彼女には、すぐにその理由に思い至るだけの余裕がなかった。
そして、その余裕を取り戻すための時間さえ与えてはもらえなかった。
用意された場所に腰を下ろしてから少しばかりの間が空いた。部屋の隅のほうに控えていた女官が、すっと背筋を伸ばした姿勢で声を上げる。
「蓮泉公主殿下、ご入来」
どこか硬質なその声と同時に、部屋に控える女たちが服地の擦れる音と同時に頭を下げた。
慌てて彼女も貴人に対する礼をとって頭を伏せる。
これから自分の前に現れるのは、本来ならば自分などが直接顔を合わせることもないはずの人間。
この国の公主なのだ。
そして――あの方の妹、であるはずだった。
いくらも待つほどもなく衣擦れの音が聞こえると、自分から見て正面、この部屋の上座に当たる位置に一段高くしつらえられた場所に、誰かが腰を下ろしたのがわかった。
「一同、面を上げよ」
入来を告げた声とは違う鈴を鳴らすような声がそう言ったのが聞こえたが、彼女は頭を上げられずにいた。
相手は皇族、対する自分は下働き。その身分の違いが彼女の全身を押しつぶしていた。
「面を上げなさい。このままでは話がしづらいわ」
澄んだ声がそう話しかける。
喉がひくつく。汗が首筋から背中に噴き出したのを感じる。
何とか絞り出した声は、自分の声ではないように裏返り、粘りつき、
「こっ、公主殿下におかれましては、本日はこのような、このような――」
「いいから、面を上げなさい。それとも、わたくしの言葉は耳に入りませんか」
言葉を途中で遮るようにさらに言われ、彼女はそろりとその顔を上げる。
今までうつむいていた顔があらわになって、囲むように座る女たちの中から――女官なのか侍女なのか、それともその他も混じっているのかは区別がつかないが――小さく声が上がる。しかしその声も目の前に座る少女の一瞥を受けて雲散霧消していく。
「やっとこちらを見たわね。初めまして。わたくしは公主麗瑛。なぜあなたがここにいるかは、もうわかっているわよね?」
想像よりも小柄な身の丈、少しばかり幼さの残る、開花したての花のような顔に見事な微笑みを浮かべて、公主殿下は言う。
「それでは改めて。これより、そなたとわが兄帝の交わりについて詮議を行う。これは長公主麗瑛の名によって開かれるものであり、全ては録に記される。そなたは聞かれたことには偽りなく答えること。そしてこの場の決には従うこと。よいですね」
公主の問いに、ここまで討議のために引き出されてきたその下女は、ただ平伏した。
***
麗瑛主催で談判会を行う。
それが天香の出した案の一段階目。
帝の姉妹を帝の娘と区別して長公主という。現在は公主といっても青元の妹しかいないので平常は特に区別はしないが、ここでわざわざ長公主と呼ぶのはもうひとつの意味があった。
それはすなわち、後宮の統率役として自分が裁くという宣言。
後宮を兄に代わって差配する長公主として、帝と情を交わし子を成した下女を詮議し、その事情を聞く。そのためのこの場でありこの会であると明らかにするための言葉だ。
この辺の口上に天香は触れていない。麗瑛や丁夫人、それに遼内官長の考えも含んでいる。
堂々と振る舞う麗瑛の姿を斜め後ろ、茶会のときと同じような控えた位置から見て天香は惚れ惚れする。二人きりのときの表情も愛らしいが、公主としての役を果たすときの表情もまた凛々しくて愛おしい。
もちろん見惚れている場合ではない。自分の案の行方が気になってしょうがない。気になりすぎて現実逃避した先が麗瑛の表情なのだから仕方ない。仕方ないということにしておこう。
いま麗瑛があれこれと質問している下女、彼女が顔を上げたときの小さなざわめきは、もちろん彼女の顔についてだった。控えめではあるが整っている、可愛らしいとは言える。控えめに言って不美人ではない。
だが、それだけだった。
少なくとも帝の寵愛を受けるほどに飛びぬけて美しいとか、何らかの特徴のある顔立ちではない。
後宮で美々しい妃嬪を見ているから感覚が麻痺した、というわけでもないと思う。
顔立ちとしては楊嬪こと迦鈴や陳嬪に近い。平凡ではない。だが何かが欠けている。
生い立ちや身辺の質問から始まった麗瑛の詮議は、いよいよ核心に、つまり彼女と『青元』の関係を最初から順を追って質していくところに入り始めていた。
「そこで陛下はあなたになんと?」
「わ、私は、いと賢きところから抜け出してきたばかりだと……」
「それから?」
その質疑を聞いて腑に落ちることが天香にはあった。
緊張のためかたどたどしく、あちらこちらに話が飛び、記憶を辿るためか話に間を空けて、それでも麗瑛の質問にひとつひとつ答えていく。それは事前に練習してきたようにも、今その場で思いついたまま言っているようにも見えない。
もしこれが演技なのならば、そうとうの役者と呼ぶべきだろう。控えめな性格もその振る舞いも平時からそうであるという。同じ部署の上役からもそう証言を得ている。彼女の視界には入っていなかったかもしれないが、部屋の下座隅にはその上役も詰めていた。
であるならば。
青元と彼女が実際顔を合わせたこともなく、そして彼女が嘘を言っていないのであれば。
天香はそっとため息をつく。
どうやら麗瑛が口にした予想が、一番悪い形で当たってしまったようだ、と。
「あなたは、心からその、陛下をお慕いしているようですね」
あらかたの質問を終えた麗瑛の声が、詮議のはじめよりもだいぶ柔らかくなって響いた。
その声に対する答えは聞き取れない。答えなかったのかもしれない。けれどそれはいいのだ。
ここからが、天香の案の次の段階だった。
「それで、あなたはこれよりどうしようと考えているのですか?」
麗瑛が問う。天香がさっと目を走らせると、逆側の隅、部屋の外に近い側にいた光絢が小さく頷くのが見えた。準備は整った。後は彼女の答えと、麗瑛の言葉を待つだけだった。