五十一、 宮中の三大人 下
丁夫人は表情を動かさず、宰相はしかめ面を崩さず、内官長は眉を下げて困ったような顔をして。
そして麗瑛はどこか面白そうな表情を浮かべる。
全員の視線が集まるのが、天香自身にもわかった。
同時に、頬に血が昇るのも自覚する。
「ええと、その、だから――言い切れるだけの理由があるのですか?」
「無論。殿中監どの。繰り返しになってしまうが、説明をお願いする」
「ええ、それでは――」
宰相の言葉に頷きを返して、内官長は話し始めた。
内官長のそのゆったりとした語り口に、公主院時代のとある教師を思い出す。同級生たちには眠くなると不評だったが、天香はその口調を聞くと不思議と落ち着いたものだった。
「まず、臣たち内官は陛下の雑事を担当しております。そしてその職掌の内には、陛下の身辺諸事の記録というものがございます。陛下の日々の動静を事細かに書き記しまして、これは必ず複数の人間が同時に書いたものを持ち寄って相違ないことを確かめた上で、写しを取って保管することになっております。ここまではよろしいでしょうか?」
「は、はい。不正が出来ないように、ですか?」
常に二重三重に検査することで過失や故意による記録の改竄を阻止している。しなければいけない。
青元個人の動静とはいえ、それは国の正式な記録だから、それだけ厳重な取り扱いが定められているのだ。
ちなみに、改竄が発覚すれば下手人は最高で死罪となる。
この記録を起居注と呼ぶ。
帝の日々の細かな行動だけでなくその言行、起きた時間から寝る時間、食べたもの飲んだものに至るまでが記録されている。はるかに後――青元の死後には、その記録はまとめられて実録と呼ばれる書となり、王朝の書庫に収蔵されることになっている。
起居注は帝が崩御するまでは原則として内官が管理して外に持ち出すことはない。実録としてまとめられるまで極力誰の目にも触れさせないことが良しとされている。帝その人ですら目にすることはまずない。
「その通りにございます。常に写しを取って突き合わせることで一言一句の違いもないように――『ゴホン』」
脱線しそうになった内官長に、宰相が咳払いして軌道修正を促す。
「ああ、いえ、それを理解されているのなら、話は早くて助かります。つまり、今回その記録を調べなおしましても、該当するような女人と陛下が接触を持った記録はまったくないのです。少々念を入れましてこの半年間まで範囲を広げましたが、結論は同じでした」
念を入れてと言いつつ、整理されているとはいえ半年間の記録を全て調べなおしたと、その事実を誇るでもなく自賛するでもなく淡々と、それだけを内官長は報告したことに天香は気づく。
事情が事情だけにおおっぴらには出来たとは思えない。ということはこの遼内官長がほぼ一人でそれをやったのだろう。事態が発覚してから間もないというのに。
変わらず人の良さそうな笑みを浮かべているが、その笑みに底知れなさを感じてしまう。
続いて丁夫人が言う。
「付け加えるなら、我々もまた、陛下がどの殿舎に渡られたかの記録は取っております。しかしそちらにもおかしなところは見つかりませんでした」
「そ、それってつまり――」
「要するに、お兄さまが朝起きてから夜寝るまで全ての行動が記録されていて、何日にどの妃嬪と寝所を共にしたかもわかっていて、その中に例の下女がお兄さまと床を共にした事実も兆候もない、ということよ」
「いや、それはわかるんですけれど」
起居注の記録を担当する官吏をそのまま起居注官と呼ぶが、彼らが入れない後宮の中に限っては女官長率いる尚宮職で同じような記録がつけられている。
とはいえさすがにこちらは言行などは記録していない。後宮ではその中のどの殿舎に渡ったかという事が重要なので、それに加えてもせいぜいがそこで飲み食いしたものまでだ。
記録が正しいのなら――そして今の説明を聞く限り、その記録に何か抜け落ちがあるようには思えない。しかしそれでは、青元と下女が肌を合わせられたわけがない。
するべきことをしていないのに子ができるなど、小説や演劇の、あるいは神話の中の話でもあるまいに。
天香の頭の中いっぱいに疑問符が浮かぶ。
「じゃあ、その下女って人はどうやって陛下とお子を……?」
「ですから、嘘、出鱈目であると申し上げました。その下女の孕んだ子供が、陛下の御子である可能性はない、と」
厳しい顔のまま、宰相がそう言った。
「たまたま遭ったというほどの形跡もなければ、陛下が呼びつけた形跡もまたございません。宰相殿の判断は間違っていないかと思われまする」
昔の妃嬪の中に下女上がりの女性がいて、帝が遠目に見初めた彼女を夜に呼びつけ後宮に入ることになった、という故事があった。実録に記載されている事実である。
内官長がわざわざ言い添えたのは、今回はそれすらないということだ。
麗瑛が頬に手を当ててわざとらしく嘆息してみせる。
「さすがにあのお兄さまでも、遠目に見ただけの人間を呼びつけるほど好色じゃないと思うけれど」
「そ、その記録に書いていないところで知り合った可能性はないのですか?」
「別の女のところに行くのを黙認するような妃嬪はいないわよねえ、普通に考えれば」
全ての行動を記録される国帝でも、さすがに寝室の中までは記録されない。
逆に言えば記録されないのは寝室だけで、そしてその中には妃嬪がいる。
妃嬪に気づかれず、あるいはその黙認を受けて下女の場所にたどり着くのはまず無理だろう。
天香の脳裏にちらりと友人の顔が浮かんだ。彼女なら黙認どころか放置するかもしれない。
確かに彼女は親戚の言葉を断りきれずに後宮に入った人間だが、しかしだからといって今の後宮暮らしを気に入っていないわけではない。むしろ日々のんびりと楽しんでいる。
もし黙認が明るみに出れば彼女自身も責めを免れない。
そんな利のない、もっと言ってしまえば面倒くさいことに巻き込まれるのは全力で嫌がるだろう。
それは確信を持って言える。
考え込む天香をよそに、丁夫人が言葉を接いだ。
「そもそも各殿舎の周りには侍衛の者がおりますし、下女と情を交わすためにはその目をかいくぐらなければなりません」
「それを一度ならず何度も……ありえないか」
「もしくは一度で妊……もっとありえませんね」
「女を行きずりに使い捨てるような人非人じゃないでしょう」
麗瑛の言葉に乗るように天香もポロリと考えをこぼしてしまう。
そんな天香たちに、月勝が鼻を鳴らして吐くように応じる。
すこし鼻白んだようなのは天香たちの明け透けな会話に毒気を抜かれたからなのだが、本人たちにはわからない。
「あり得るあり得ないというのなら、そもそも下女が個人的に陛下と相見えるということがありえぬ事だ。遠目ならまだしも」
「そうかしら。同じところを同じように担当していたらその間に目をかけられていた、なんてことはないの?」
「それはございません。彼女が陛下の目に留まるところにいること自体が不可能です。彼女の職掌からして国帝陛下と直に対面するような位置に侍ることはありません。彼女は司洗所に属しておりますので」
麗瑛の問いに、丁夫人が代わって答えた。
司洗は後宮で着られた着物の洗濯を担当する部署である。材質も扱い方も違うそれぞれの着物を細心の注意で取り扱う専門職でもある。が、その仕事は帝が直接触れるようなところではない。その姿を遠目に見ることも厳しいだろう。下女の中でも最も帝から遠いとすら言えるかもしれなかった。
それを知っていたのなら、女官長もまた疑わしく思っていたのだ。たぶん、記録を調べる前から。
丁夫人の落ち着き払った態度の理由が、天香はそれで少し腑に落ちた。
逆に声を上げたのは男性陣だ。
「女官長、それは聞いておりませんぞ」
「素性まではっきりしているならもっと早くに言ってください」
「それを言おうとしたところで両殿下がいらっしゃいましたので」
揃って慮外という声を上げる。その抗議を丁夫人はしれっと返してみせる。
二人とも、どうやら青元と通じたと話したその下女の素性が明らかになっているとは知らされていなかったようだ。
宰相が体の向きをやや変えて、丁夫人に質問した。
「では、その女人についてはしかるべき処置をされているのでしょうな?」
「追って沙汰を言い渡すゆえ今は身を慎んでいるように、と命じております」
「手ぬるい。今すぐに本城の牢に入れてでも詳しいことを話させるべきではないのですか、女官長」
「宰相殿、それは乱暴に過ぎます」
「ことは陛下の御身に関わることです。厳しく当たらなければ第二第三の不届きものが現れるかもしれませぬ」
会話を続けるごとに宰相の眉間のしわが深くなっていく。
表情は険しくなっていくのに声にはそれが驚くほど出ない。
面白いが少し、いやかなり怖い。
子供のときなら泣いていたかもしれない。さすがに今は泣かないけれど。
そんなことを天香は思った。
「ここに両殿下がいることの意味をお考えください、宰相殿」
「それがどうしたと仰る?」
急に自分たちが引き合いに出されて、天香は目を瞬かせる。麗瑛の顔を窺うが似たような表情だった。
宰相も怪訝そうな顔になる。
内官長は面食らったように視線をさまよわせている。
「どれだけ正確なところが伝わっているかまではわかりません。しかし、お二人のところにまで話が伝わっているということは、この後宮のかなりの部分にまで下女の件は広まっているでしょう。こういうことはご身分が高くなるほど遅れて伝わると思っていいですから」
「そのようなもの、緘口令でも敷けば」
「それが出来れば苦労は致しませぬ。人の口に戸は立てられぬもの。まして後宮では」
誰もその詳細を知らない長さの後宮勤務歴を持つ丁夫人の言葉には、それだけでズシリとのしかかるような重みがあった。
本当のところ天香と光絢はそれぞれに前の職場の繋がりで知ったから、言うほど遅れて伝わっているとは思わなかった。
いや、夫人もそれに気づいているのかもしれない。なぜなら彼女自身がついさっきこう言ったのだ。「予想よりも早かった」と。
「噂自体がどこまで広がっているかわからない以上断言は出来ませぬが、もし彼女を捕らえたとなれば話がどう動くかわかりません。最悪の場合、陛下にいわれのない中傷が広がる恐れもございます」
「なぜ――」
「例えば」
言いかけた宰相に、丁夫人は指を突きつけるように言う。
「陛下は下女に戯れに手を付けながら、子が出来たと知ると女を牢に入れ、無かったことにしたのだ、と」
「……確かに、それではなお悪くなるでしょうな」
内官長がそう言って椅子に体を沈めた。その姿勢のまま一座に問いかける。
「では、陛下の子ではないことはそれでよしとして、今後はどうします?」
その問いに直接は答えずに宰相が言った。
「女官長、いまひとつ問うが、子ができたこと自体が嘘ということはあるまいな。思い込みで似たような症状が現れる女人がいると聞いたことがあるが」
「それはございません。医官からも正式な報告が来ております。孕んでいるのは間違いないと」
「ならばそれを陛下の御子と偽ったは、内官が記録を取っていることも知らぬ下女の浅知恵、ということになりましょうが――」
「待って、宰相」
椅子に背をもたせて、彼は先ほどまでよりもやや緩んだ表情で言う。
その宰相の言葉を止めたのは、しばらく黙って会話の成り行きを聞いていた麗瑛だった。
「可能性なら、もうひとつあるでしょう」
「もうひとつとは?」
「彼女が嘘をついていない、いえ、自分が嘘をついているとさえ思っていない可能性が、もうひとつ」
「しかし実際に子は――まさか」
反論しようとした月勝が、そこで何かに思い至って口を閉ざした
内官長も息を呑み、女官長さえ茶杯に伸ばした手を止めて麗瑛を見る。
視線が集まるのをものともせずに、むしろそれを待つように、麗瑛はいくらか声を落として言う。
「この後宮の中で、お兄さまの名を騙って、下女に手を付けた人間がいる。――そういうことになる、わよね」
座を沈黙が満たした。
ややあって、その沈黙を破るように戸を叩く音がした。
戸板の向こうで少しくぐもった声が丁夫人を呼ぶ。
「女官長さま、お話中失礼致します。大変でございます」
「なにかあったのですか?」
答えながら戸を開けると、そこには天香も顔を見知っている女官がひとり。
大変と言いつつも、丁夫人の薫陶を受けている部下である彼女は落ち着き払って室内に礼を一度して。
「ただいま先触れがありまして、その、主上がただいまよりこちらに参りたい、と」
今の今まで話題に上っていた当の本人。
その当代国帝、江青元の到来を告げた。
長くなってしまいました。
あと最近イチャイチャ書いてないなって……




