五十、 宮中の三大人 上
尚宮職、女官長の執務室。
言うが早いか、麗瑛は天香を引きずるようにしてそこに直行した。
なお光絢は他の仕事のために仕方なく蓮泉殿に残った。わかったことがあればあとでちゃんと教えてあげる、と天香は約束を交わして。
「丁夫人はいるかしら?」
室内に足を踏み入れるなり麗瑛は声を上げた。
この場合、いきなり公主からのご下問をうけることになった女官のほうが災難だったろう。
本来なら天香が先に立つべきだったのだが、麗瑛の素早い行動に翻弄されてしまった。
「ふ、夫人なら、今は、その――」
「おりますよ」
なぜか言いにくそうに口を濁す女官と相対していると、横合いから丁夫人その人が現れた。
続きの間に繋がる戸口の側にその姿がある。その奥は応接の場になっていることを、一時期とはいえここで働いていた天香は知っている。ということは、誰か来客があって応対していたのかもしれない。
「先触れもなしに来られて、もしも私がいなかったらどうされるおつもりだったのですか、殿下」
「そのときはそのときよ。それにいたのだから良いじゃない」
天香なら反射的に頭を下げそうになるところで、公主はお小言をさらりとかわす。
とはいえ天香は女官長の言い分はもっともだとも思う。だから口を添えた。
「女官長があちらから出てこられたのなら、もしかして今はどなたか来客があったのではありませんか? 都合が悪いのでしたら、一度戻ったほうがよいのでは」
「とわたしの天香は言っているけれど、どうなのです?」
問われた丁夫人は麗瑛と天香を見つめ、少しの間考えるような素振りをする。
やがて考えがまとまったのか、丁夫人は二人を見つめて口を開いた。
「いいでしょう。御用件については察しがつきます。こちらへ」
そう言って、天香と麗瑛を続きの間に誘った。
続きの間に入った二人を迎えたのは、予想もしていなかった人物だった。
「女官長、これはどういうことかしら」
入るなり、麗瑛は椅子に座るよりも先に言う。
「なにがでございましょう」
「そらとぼけないで。あなたとこの二人で顔を突き合わせて、まさか茶飲み話でもないでしょう」
そこにいたのは二人の男だった。
ひとりは痩身の壮年。もうひとりは福福しい見かけの初老。
麗瑛の言動から察するに、彼女にとってはどちらも見知った顔であるらしい。
しかし天香にはいまひとつピンと来ない。
「久しいわね、宰相閣下。そして内官長」
え。と思わず声を発しそうになった天香――と、その前に立つ麗瑛に向けて、痩身の側が丁寧な礼をする。
「こちらこそ、両殿下にはお久しく」
「あら? 天香には会ったことはあったかしら」
「ええ」
そんな会話が聞こえたが、天香には心当たりがない。
しかし麗瑛の言葉で今前にいる人間が誰かはわかる。この宮廷に宰相といえばただひとりしかいない。それでも天香には彼に会ったというはっきりとした記憶が思い出せないでいた。
いつもしかめ面、と言われていたとおりの表情の宰相に、麗瑛が言う。
「残念ながら、覚えてもらえていなかったみたいね」
「も、申し訳ございません」
からかいの分子を大量に含んだ麗瑛の言葉をうけて、あわてて天香は頭を下げる。
不満げな顔ひとつせず、いやしかめ面はそのままなので感情は読みづらいのだが、ともかく宰相は顔色ひとつ変えずこちらも頭を下げて言う。
「いや、無理もありますまい。では、改めまして。宰相位を賜っております、絡月勝にございます。白妃殿下におかれましてはどうぞよしなに」
「は、白妃殿下はちょっと……」
「いい加減慣れなさいな。公主妃殿下」
麗瑛は笑み混じりにそう言う。
しかしそうは言っても、女官たちに言われるのならばともかく、親子――というにはすこし若いので叔父と姪、ぐらいだろうか、それくらいの年の差があって、しかも地位もある男性に頭を下げられて尊称を使われる。そんなことなんてほとんどないから仕方がないじゃないですか。なんてことを天香は心中で思う。
これも慣れなくてはいけないことなのだと心の中ではわかってはいても、だ。
「こ、公主妃……白天香です。よろしくお願いいたします」
ぎこちなく頭を下げるその様子を見た麗瑛が、文字通り満開の花のような笑顔になった。
ただしその顔は天香には見えていない。
にこやかかつ華やかな顔を、彼女は残るひとりの男に向ける。
「そして、こちらが遼大夫」
「私はまったくお初にお目にかかりまするな。殿中監を申し付かっております、遼宇と申します。白妃殿下」
「畏まった場でなければ内官長で構わないわよ。ねえ」
「はは、構いませぬ。殿中監という名前は厳めしすぎて、正直なところあまり気にいっておらんのです」
福福しい見かけの好々爺、いやそう呼ぶにはまだ若い初老の内官長は、頭に手をやってその見かけの通り鷹揚に笑った。
「よ、よろしくお願いいたします、内官長さま」
天香はこちらにも頭を下げ、内官長もまたそれに返礼した。
改めて用意された椅子に座って――もちろん天香は麗瑛の隣に並んで座り、対面に宰相と内官長、上座にこの部屋の主である女官長丁夫人が着いている。
そこで、麗瑛が改めて口を開いた。
「それで? 宮中の頂点三人が顔を突き合わせていたこと、その説明はしてもらえるのでしょうね? そこに招き入れられたことの意味は、薄々はわかるけれど」
そう。
帝その人を除けば、この部屋にいた三人こそが宮中の頂点に立つ三人だった。
誰が言ったか、宮中の三大人とも呼ばれることもある。
後宮を統率する女官長、帝を補佐し国政を担う政府六部と軍を一手に統轄する宰相、そして内官長。
内官長、正式名を殿中監は、この城と国帝個人に仕える官人を管轄する役目だ。
その権限の範囲は側廻りの侍従から厩番などの小者まで広範に及ぶ。また内官長個人の仕事としては帝の身の回りの雑事を任されたり、行動予定を管理し記録することも含まれる。
いわば国帝個人の秘書、または家令。それが内官長の仕事だった。
そんな三人がひとつの部屋に集まっていて、何もないなどということはありえない。
麗瑛はそう断じていたし、天香にもそれはうすうすわかることだった。
そして目の前に並ぶ三人を端然と見回して、麗瑛は言う。
「――国帝陛下の話なのでしょう。それも例の、下女の噂の件で」
「なるほど、蓮泉殿まで広まっておりましたか。まあ、時間の問題とは思っていましたが。いえ、予想よりは少し早かったですね」
平然と返したのは上座に座る丁夫人だった。
用件についてはたぶん予想はしていたのだろう。その上でここに招き入れたというのは、つまり。
「しかし、それを聞くなりこちらに来られるとは、両殿下は宮中の億万の噂を総覧されるおつもりですかな」
宰相、月勝は硬い声でそう言った。表情といい声色といい、麗瑛の――そして天香の――行動を快くは思っていないのがにじんでいる。
そう天香には感じられた。
麗瑛も同じように思ったのか、応じる言葉がやはり硬い。
「ことが陛下と後宮に深く関わるのであれば当然でしょう。後宮の噂ひとつひとつに一喜一憂などするほうが馬鹿馬鹿しい事。けれどこの話はそうではない。そうではないのですか、絡宰相?」
「女の口を止めることなど出来ませんよ。殊に後宮ではね」
割って入るように女官長がそう言った。
話を進めろ、と言外に告げている。
「そうね。それでは、その女官のことなのだけれど」
「まったくの出鱈目。虚実で言えば虚、そこに口をつけて言いふらせば即ち嘘。それ以外に語る言葉を持ちませぬな」
間髪いれず、断じる言葉を放ったのはまたも月勝だった。
その言い様に、天香は彼が上段に剣を振りかぶり、一刀のもとに斬り下ろす姿を幻視する。
まさにそんな感じの一刀、いや一言両断。
その威圧感を感じながら、天香は疑問を口にした。
「な、なぜ、そう言いきれるのですか?」




