四十九、 公主のお仕事
あけましておめでとうございます
しばらく時が止まったかと思うほどの沈黙が下りた。
それはそうだろう。天香自身でさえ、その話を初めて聞いたときはあまりの驚きに似たような反応を返してしまった。まして麗瑛にとっては実の兄のことだ。自他共に認める妹馬鹿であり、麗瑛自身もまた気を許している少ない人間のうちの一人である。
その青元が、下女に手を付けたという。
後宮にやってきて間もない頃、天香と麗瑛に問い詰められた青元は言った。子は正妃を決めたあとに望むと、その言葉を自分は覚えているし麗瑛も覚えているはずだった。
それが破られたのだから戸惑うのも当然だと思う。いや、もしかすると麗瑛にとっては天香がちらりと思ったよりももっと不快に思ったかもしれない。もしかして自分は早まっただろうか。もう少しそういうことも考えて切り出すべきだったのか。麗瑛の機嫌を損ねてしまったかもしれない。怒られる前に謝っておこうか。
麗瑛が口を閉じているあいだに急に不安になって、天香はオロオロと狼狽した。
「それで――二人ともその話、どこで聞いてきたのかしら?」
気を取り直したらしい麗瑛が、違う場所で同じ話を聞いてきたらしい二人に問いかけた。
「私は……いつもの、女官の」
「お茶会ね。光絢は?」
「わ、私は、前に同じところにいた子が教えてくれて」
「下女の?」
「はい、そうです。名前は――」
相手の名を告げようとした光絢を、麗瑛が制した。
「今はいいわ。それより話の中身が大事よ。もっと詳しく聞かせて」
「え、いや、あの」
「天香、なに?」
「ええと……いいのですか?」
「教えてもいいと思ったから、わたしに話を伝えにきたんじゃなかったのかしら?」
「いや、そうじゃなくて、瑛さまにはあまり心良い話題じゃなかったんじゃないかって、今になって思えてきてしまって……」
さっき思った不安を天香は口に出す。
麗瑛の顔は不安とは裏腹のものだけれど、それが逆に不思議でもある。
「もっと深刻そうな顔になって欲しかったの? それとも困ったほうがよかったかしら」
「そういうわけじゃなくて……」
「天香、わたしの身分を言ってご覧なさい」
「殿下は――公主殿下です」
「そう、それも帝の唯一の同母妹。だからこそ、わたしには義務があるのよ?」
「義務?」
「そう。お兄さまがいつか正妃、皇后をお迎えになるまでは、後宮を整えることはわたしの義務、役目なの」
国帝本人を除いて、後宮の中でもっとも位の高い、言い換えれば権力の強い女人は誰か。
帝の妃でもなければ母でもない。
それは国帝の実の姉妹である。
これは妹に甘い現国帝・青元の後宮だから、と言うわけではない。歴代の帝の後宮でもそうなのだ。
誰か決まった人間が正妃、そして后に立てられるまでは、帝の姉か妹が後宮を取り仕切り、整える。妃嬪が何人いようと、その寵愛がどの程度のものであろうと、それは変わらない。そして、正妃が決まるのと時を同じくして公主はその任を外れて降嫁あるいは隠棲する。
もちろん実務に当たるのは女官長以下の女官たちだけれども、そこには公主の意思が反映されることは言うまでもない。
正妃がいまだ定まっていない現状で――何度も繰り返すがそれは国帝たる青元の個人的意見によるものだが――その地位にあるのは、帝の直妹である麗瑛なのである、実は。
だから先の茶会には全ての妃嬪が集まったし、茶や茶菓やその他の小物を献上されたのだ。
「ぽかんとした顔をしないで。わたしの義務と言うことは、あなたの義務でもあるんだから」
「え?」
「だってあなたはわたしの妃でしょう。ゆくゆくはあなたも後宮を差配するの。それにあなた、お兄さまを前にして言ってみせたじゃない。正妃にふさわしいものを見極めます、だったかしら。あの言葉を聞いたときね、わたし、あなたはそういう役目をちゃんと理解しているんだと思って、嬉しかったのよ? ぬか喜びだったのかしら」
確かにそういうことは言った。言ったがそれはむしろ義務とかお役目とかではなくて自分の下心、じゃなくて欲望、でもなくて、いわば個人的な目的のために出た言葉だった。そしてそれに麗瑛が同調したのは、ふたりが同じ目的を共有したからだと思っていた。
冷や汗が背中に噴き出したのを天香は感じた。
そんな彼女を見ないまま、少し拗ねたように麗瑛は言葉を続ける。
「それに丁夫人も、そういうことを含めてあなたに教えてくれているものだと思っていたのに」
「それは、そこまで行きつく前にわたしが麗瑛さまのところに戻ってしまったからだと……たぶん」
「わたしが呼び戻したのが悪かったみたいじゃない。そう言いたいの?」
「ち、違います! そうじゃなくて、わたしの覚えが悪かったのがいけないんです。本当だったらそこまで丁夫人が教えてくれていたはず……じゃないかと」
弁解する声が尻すぼみになる。
天香には丁夫人の真意はわからない。言い切ることなんて出来なかった。それに、自分と麗瑛の間で思い違いというか行き違いがあったのは確かだ。
「……まあ、そういうことにしておきましょう。ということは――あなたはそれで、その、どうなのかしら」
「どう、って」
「だめ? 押し付けられるみたいで嫌? 嫌になった?」
「嫌、なんて事は――」
跳ね返るように言葉を返しそうになって、一度天香は考える。
麗瑛の顔を窺えば、不安げな視線とぶつかった。
押し付けたくないけれど、嫌とも言われたくない。その瞳を見れば、天香にはわかる。
「いえ」
そこで一度言葉を切って、天香は言った。
「義務と目的が同じなら、それはむしろ幸運なんじゃないでしょうか。私は――私は、麗瑛さまの力になりたいです。私がなれるのなら」
「なれないわけがないでしょ。あなたがいてくれるなら、わたしは――」
目と目が合う。手が麗瑛の手に包まれて指が絡む。唇に視線が。
と、こほん、と小さな音がした。見れば光絢が所在なさげに口元に手をやっている。
決して忘れてたわけじゃない。いや忘れてたけど。
「わ、忘れてたわけじゃないのよ」
「いえ、いいんですけど」
「ごめん、ごめんってば」
「いえ、いいんですけど」
「いいって言うなら続き、する?」
「続きってなんですか!」
絵に描いたような両側から板ばさみというやつだった。
両方に言葉を振り分けながら、ついでに天香はさっき自分がしそうになったことを棚に上げて赤面を隠そうとする。
ともあれ、気を取り直したように麗瑛が口を開く。続きがどうこうのあたりでもう取り直していたと天香には思われたけれども。
「だから、もしあのお兄さまが見初めた人間がいるというのであれば、その真偽を確かめるのはわたしの役目。そうでしょう?」
「それは、そうですけど……」
「ちょっとお待ちくださいお姉さま。今、殿下は真偽、と仰いましたか?」
「あら、光絢は気づいたのね。天香もそれくらい気づいてくれなきゃ困るわ」
「え? え?」
天香はきょとんとする。突然気づくの気づかないの、と言われても。
しかも光絢はそれに気づいているらしい。そして麗瑛は上目遣い、というか斜め上目遣いで天香を見ている。麗瑛は榻の上にいるままなので天香より目線は自然と下になるから、言ってしまえば常に上目遣いではあるのだけど。というか身長で言えば天香のほうが高いから普通に向かい合えばだいたい上目――と、そういう話じゃない。
手がかりは今の麗瑛と光絢の言葉の中にある。
それは。
「真偽を確かめる? って、つまり偽……嘘の可能性があるってことですか?」
そう切り出した天香に向けて、やっと気づいたの、という顔をしてみせる麗瑛。
「それを見極めるためにもっと詳しいことを聞く必要があるわね、と言ってるの。だからまずあなたたちの聞いた話をまとめようとしてるんじゃないの」
「あ、それで……」
ここで、やっと話が元に戻った。
と言われても、実は天香もそこまで詳しく聞いたわけではない。聞かなかったわけではなく、その場で話に上った限りでもその程度の話しか出なかった。なんのかんのとは言っても後宮の侍女や女官は数多い。伝聞の形では詳細までは限度がある。
重要なのは、下女が青元帝の子を孕んだ、の一点に尽きるのだ。
妊娠が発覚した下女はその父を上司に問い詰められたが吐かず、さらにその上役まで出て問い詰め、初めて渋々と子の親が国帝であると話した、らしい。天香が聞いたのはそこまでだ。
「もし陛下のお子を孕んだなら、もっと吹聴してもよさそうな気がしますけれど……」
「私が聞いた話では」
天香がもやついていると、光絢が切り出した。
「その下女は、できるだけ早くに後宮から下がって郷に帰るつもりだったと。もし後宮に留まっていれば騒ぎになる。かといって妃嬪さま方とは張り合えない。だから黙って――堕胎する気だったと」
「そんな堕胎なんて言うけど、医者の堕胎術は母体も危なくなる可能性があるし、薬なんて確実に堕胎できるとは限らない上そう謳っただけの単なる毒まであるって……」
その言葉を引き取るように麗瑛が呟いた。
「そういうところ天香はよく知ってるわよね」
「耳年増って言うんでしたっけ」
「違うから! 公主院で教わっただけです!」
二人に対して天香は少しだけ嘘をついた。公主院でなくても実際のところ、市中で暮らしていればそんな話のひとつやふたつは聞くものだ。それは多くは事実をもとにしたような伝聞であり、また数少ないが経験者が近くにいれば直接聞くこともある。
それを耳年増と言われるのは正直釈然としないものがある。
「でも瑛さま、まとめると言っても、これだけじゃあ……どこの誰か調べようにも、一人ひとり聞いて歩くことも出来ないと思うんですけど」
「そんな時間も手間もかかることなんてしなくても大丈夫よ。こうなったらもっと確実な手を使いましょう」
「確実な?」
「あら、後宮の女官のことなら、女官長に聞くのが一番でしょう?」




