四十八、 蓮の庭
「殿下? 殿下ー?」
天香は麗瑛を探していた。
部屋にも寝室にもいない。小部屋もいくつか覗いてみたがいない。目通りの間にもいない。
公主という立場である以上、麗瑛が誰かと話をするためにどこかに行くことはあるのだが、今日はそんな予定は入っていなかったはずだ。自分が外に出ていた間に急にそんな予定が入った、という可能性もあるけれど。
首を傾げながら裏手側の高欄から庭を見下ろすと、そこには英彩と燕圭がいた。その姿に天香は少しだけ違和感を覚えた気がするが、それが何かわからないうちに相手に天香の姿を知覚される。
「あ、天香さま。失礼を致しました」
天香の姿を見るや、やや上気した頬の燕圭は持っていた棒を傍らに置き、片膝を突いて天香の名を呼んだ。額に浮いた汗を軽く腕で拭うのは、棒術の練習のでもしていた成果か。その姿勢で呼吸も整えているようだ。
あまり畏まった姿勢を取られるのも、天香はまだなんとなく居心地が悪い。気にしすぎるのもよくないと麗瑛には言われるがなかなか慣れない。
燕圭の挨拶ではじめて天香に気づいたらしい英彩も、膝は突かないが頭を下げて、いつもどおりのゆるく伸ばし気味の語尾で訊ねる。
「天香さま、どうかされました?」
「えっと、殿下がどこにいらっしゃるかご存知ですか?」
「ああ、殿下なら、お庭にいらっしゃると思いますよ」
「お庭?」
言われて見回してみるが、麗瑛らしき姿は見えない。まさか茂みの中に入っているわけは無い……と、その様子を見ていた英彩が一言。
「こっちじゃなくて中庭ですよう」
「あっ、なるほど」
逆方向だ。そういえばそちらには注意を向けていなかったなと天香は思う。見えにくいところにいたのかもしれない。
英彩たちに礼を言ってその場を離れようとして、そこで天香は違和感の理由に気づいた。
「あ、そっか」
「どうしました?」
「いえ、則耀さんと一緒じゃないんですね、って」
英彩の相方といえば則耀。天香の中ではそうだ。たぶん蓮泉殿の誰もがそう思うだろう。
だから燕圭と一緒にいることが少しだけ違和感だった、のだと思う。
天香の言葉を聞いた英彩は、それに軽く笑い声を上げて、笑み混じりに言葉を返した。
「天香さまってばー。わたしだって一日中則耀ちゃんとだけ一緒にいるわけじゃないですよお」
「そ、そうですよね」
「殿下と天香さまくらい一緒にいてもいいと思うんですけどね」
「いや、私たちもそんなに一緒なわけじゃないんです、けど……」
……どういう風に思われているのか、詳しく聞いたほうがいいのだろうか、もしかして。
天香は思う。
そんな会話をしたあと、天香は中庭に向かった。
蓮泉殿の中庭には、その名前の通り蓮を浮かべた池がある。
回廊から中庭を見下ろせば、水面に浮かぶ緑色の蓮の葉の中に、点々と白やわずかに桃色の花が開いている。満開というにはまだ足りないが、汗ばむ陽気が続けばさらに盛りになるはずだった。
そして池の一隅で涼やかな日陰を差し伸べる柳の木陰、石畳の上に、たしかに榻がひとつ置いてあった。気づいてみればなぜさっきは気づかなかったと不思議になる。
階を下りてその中をそっと覗き込むようにして見れば、肘を肘掛に、上体を背もたれに、それぞれ持たせかけて頬杖をついた姿勢の麗瑛を見つけた。その目は軽く閉じられて、桃色の唇からは吐息が寄せては返す小波のような間隔でかすかに漏れている。
寝ているのか目を閉じて考え事をしているのか。
少しためらいがちに声をかけようとして、天香はしかし少しだけそれを止めた。風がふわりと吹いて中庭の空気をかき混ぜる。麗瑛の直ぐの髪が揺れて薄い色の服地の上で遊ぶ。
天香はその毛筋の流れをなんとなしに目で追う。
何度となく、という言葉では二桁ほども少ない回数見ているし触れてもいるその黒い流れのうちの一つが、頬を回りこんで白い首筋に落ちかけている。昼を過ぎた日差しは柳の枝葉に遮られているというのに、その対比だけは輝いて目を焼いた。
知らず知らず手をその首もとに伸ばしかけていたことに気づいて天香はハッとする。思わず視線を左右に振って他人の気配を探ってから、視線を麗瑛の顔に落とす。
滑らかな白さと相反してその肌には適度な柔らかさと弾力があることを、もちろん天香はよく知っている。そこに触れたときの吸い付くような感覚とその温もりの程度を。だがしかしここは中庭とは言っても外で日の下なのだ何を考えていたんだ、と、顔に血を昇らせる。
「何やってんのよ……」
小さく呟いて――もし麗瑛が起きているのなら、天香の今のひとり芝居に何の反応も示さないはずがない。つまり寝ている――天香はそう判断して、麗瑛の肩に軽く手を添えて柔らかく揺る。短い袖から出ている生身の腕に触れなかったのは最後の理性、あるいは押しの弱さだ。
すうっと音もなく目が開いて、そのどこかとろみを帯びた視線がさまよった果てに天香の顔を捉えた。
その唇が小さく綻んで。
「ぁ……ら、天香?」
「他の誰に見えますか?」
「……天女かと思ったわ」
「何言ってるんですか……寝言ですか?」
「正気なのに。少しうとうととしていただけだもの」
麗瑛は口元を押さえながら小さくあくびをする。
元が元だけに、そんな可憐な仕草はより幼さを惹きたてる。
「だいたい、天女は私なんかよりもっと美人ですよ」
「いいのよ。わたしにはどんな天女よりもあなたのほうが美人だから」
「やっぱり寝言ですね」
「そんなことを言うのは――」
だらりと脱力していた、頬杖をしていなかった側の手がすばやく伸びて、天香の口元をつまんだ。
「この口かしら」
つままれた天香は不満の声を上げたいが、もちろん言葉には出来ない。むーとかもーとか濁ってくぐもった音が出るだけだ。仕方がないので視線を麗瑛の瞳に合わせて眉根を寄せて不満を表す。
すると麗瑛が吹き出した。なにが面白いのか。口に手を当てて小刻みに笑っているが、それでも片手は天香の口をもてあそんでいる。隙を突いてその手から逃れて、天香は今度こそ声を上げる。
「何するんですか!」
「だって天香、視線だけで必死に訴えてくるんですもの」
「当然じゃないですか。息も苦しいし!」
「じゃあ、あなたも手を使ってわたしの手をどければよかったじゃないの」
「あ」
言われて気づくのもなかなかに迂闊すぎる。間が抜けている。くた、と力が抜けて榻の肘掛に手を付く。
はあああ……と息が口から漏れてしまうくらいに。
「それで?」
「はい?」
「何か用事があったのでしょう? わざわざわたしを起こしたのだから」
「あっ、そ、そうでした。実は――」
天香がようやく本題を切り出そうとしたそのとき。
ぱたぱたぱたと、軽やかでいて同時にしっかりと床を鳴らす音が近づいてきた。
「お姉さま、大変です、お姉さま! ……と殿下!」
お姉さまなどと使う人間は蓮泉殿にはひとりしかいない。廊を駆けてきた予想通りの人間――光絢は、階の上から天香とそれから麗瑛の姿を認めてそう声をかけてきた。
「「なによ。騒々しい」わね」
まったく同じ言葉がまったく同じ瞬刻に重なった。
ちなみに余計な語尾がついたほうが天香だ。
重なった言葉が少しだけ嬉しく思ったりする。なぜだろう。不思議だ。
「ちゃんとわたしを視界に入れたことは褒めてあげるけれど」
「そんなに音を立てて廊を走っては駄目でしょう、光絢」
先に口を開いた麗瑛の言葉を引き取るように天香は光絢をたしなめる。侍女・女官たるもの軽々しい振る舞いはしてはならない。差し迫った危険でもあれば別だけど、そうでなければ主人の格が問われてしまう。そう教えられていた。
光絢は階を下りて木陰に小走りで寄ってくると、頭を下げて言う。
「もっ、申し訳ありません。それよりも……っ!」
「待ちなさい光絢。あなたの言ってる大変なことというのは、もしかしてたった今、天香がわたしに言おうとしていたことと同じかしら?」
「えっ? ……と、どう、なんでしょう?」
そこで自分を見つめられても困る。
そんなもの、言ってみなければわからないでしょうに。と天香は小さくため息をつく。
「とりあえず二人とも、一斉に言ってみる?」
「いえっそんな、お、お姉さまからどうぞ」
「あの、手をそんなふうに両方揃えて差し出されても困るんだけど」
「どちらでもいいから。話が進まないわ」
呆れたような麗瑛の口調を受けて、では、と天香はそれを切り出した。
「私が聞いたのは噂に過ぎないのですが、下女がひとり妊娠した、と」
「まあ、そう。手放しで褒めも責めも出来ないけれど――でも、それは丁夫人の管轄ではないの。わたしに話す必要があるの?」
天香が光絢に視線を送ると、光絢はひとつ頷きを返してきた。
どうやら、『大変なこと』は一致していたらしい。
それならこのあとは言わせようと天香は光絢を促す。ためらってかやや間を置いて、彼女はその続きを口に出した。
「そ、その下女は、胎の子の父親を……その、恐れながら、国帝陛下であると言っているそう、です」
その言葉を聞いた麗瑛は。
どんな顔をすればいいのかわからないとでも言うような風情で、首を傾げる。
「はい?」
まさかの大晦日投稿。
月内開始予定は何とか守られました。よいお年をお迎えください。




