四十六、 そんな二人の
「喧嘩でもしたか、瑛」
妹たちの居室を訪れ、榻の上に力なく横たわっていた麗瑛を見つけた青元の、それが第一声だった。
聞かなくても、妹たちの顔色を見ればだいたいの事情はわかる、らしい。
妹馬鹿の特殊な能力である。
「色惚けが過ぎたんじゃないのか?」
そんな軽口に、麗瑛は答えを返さない。
「答えられないほど呆けるくらいなら、天香ともっと冷静に話せばよかっただろうに」
「や」
「子供か」
青元は自他ともに――麗瑛自身さえ認める妹馬鹿である。とはいえ、だからといって妹のすることなら何でも許してやる、とは思っていない。麗瑛が明らかに間違えているのなら、それを正すのも兄の務めだと思っている。
だから麗瑛も遠慮のない言葉を返せるのだ。
天香に言わせれば、それが甘えているということになるらしい。
「言わなければわかるわけがないだろうに」
「天香はわかってくれています」
「今回は伝わっていなくて怒られたのだろう?」
それを言われてしまえば言い返せない。
いつもなら何か言い返してくる妹がこれにも反応を返さないのを不思議そうに見て、青元は言葉を継ぐ。
「なあ瑛、お前は言葉が足りなすぎる。夫婦というはもっとこう、胸と胸、膝と膝を突き合わせるように――」
「胸ならいつも合わせていますけど」
直接的な麗瑛のその言葉に、青元は一瞬たじろいだように間を置く。
天香が横にいたら真っ赤になってくれるのに。なんて麗瑛は思う。天香はころころと表情が変わる。見ていて楽しいし、それがまた愛らしい。
それでいて、どんなことにぶつかってもその芯は折れない。放っておけば不必要な傷を負ってしまいそうで、だから麗瑛はそんな傷を負わせかねない全てから天香を引き離しておきたい。できるなら自分の手で守りたい。
後宮を知るために女官働きをすると言い出した天香に反対したのもそうだった。それを途中で引いたのは、丁夫人に説得されたからではない。これと決めたときの天香の折れない芯を知っていたからだ。結果として、やっぱり目の届くところに天香がいないことに落ち着かずに、強引な論理で天香を引き戻すことにはなった。そのあとしばらく丁夫人の言葉が少し刺々(とげとげ)しく感じられたのは、贔屓目を入れても気のせいではないだろう。
そうやって幾度手元に引き戻しても、気づけばまた天香は何かにぶつかっていく。そして今度は李・洪の両妃の対立の中に乗り込んでいこうとした。
それを引きとめようと思うのは、間違いだろうか。
泣かれてしまうほど、伝わっていなかったのか。
その思い違いを突きつけられてぼうっと寝転んでいたのが、さっきまでの麗瑛だ。
天香の思いを否定したいわけではない。ただ、優先順位の違いというものなのだろう。
両妃がいくら揉めようがかまわない。天香に累が及びさえしなければ。
正妃など誰がなってもいい。天香と自分の生活を波立たせない限りは。
そう、思っていた。
そもそも麗瑛に言わせれば、そこの兄の立会いの元に婚姻を交わしたというのに、天香には自覚が足りない。そう、赤縄さえ交わした仲なのに、なぜこんなにやきもきしなければいけないのか。天香自身も含めた誰がなんと言おうと、天香はすでに公主妃だ。そう、天香が内面ではどう思っていたっていい。けれど少なくとも外面では、胸を張って自分の隣にいてほしい。いや、いるべきなのだ。
怒りというほどには激しくもはっきりともしていない不定形の思いが、麗瑛の頭を巡る。
「……お前は言葉を伝えるのに肌を重ねないといけないのか? それが色惚けでなくてなんだ」
青元の声が、考えの渕に沈んでいた麗瑛を現実に戻す。
「夫婦というのは胸のうちをなんでも見せ合あえる間でなければいけないというぞ」
「お兄さま」
「なんだ」
「さっきから夫婦とは夫婦とはと連呼なさっていらっしゃいますけど――お兄さまにだけは言われたくありません。どうせ妃嬪の方々には胸のうちなど見せないのでしょう」
「……国帝の後宮はまた普通の夫婦とは話が違うからな」
「と、宰相さまあたりに諭されたのですか? 胸のうちを見せられる人間でなければ正妃にしないなどとでも無理を仰ったのでは?」
即座にそう返すことが出来たことに少しの安堵を覚える。さっきまでに比べれば頭が回っている。
対して、麗瑛に反撃をうけた青元の目が泳ぐ。鷲京を流れる荒河を一往復横断できそうな見事な泳ぎっぷりだ。
「な、なぜわかった?」
「……なんで当たるのです?」
呆れ交じりの返答。
「と、ともかくだ。自分の何が悪かったのか、よく思い返してみろ。それから二人で話し合え」
しらじらしく言う言葉が、さっきまでよりも上滑りしている。
そんなことは言われなくてもやる。
青元の妹馬鹿は、実のところ鬱陶しくはあるが嫌ではない。が、たまにこんなに幼子のように扱われるのはその範疇ではなかった。
* * *
「落ち着かれましたか、お姉さま?」
お茶の入った杯を差し出しながら、光絢が問いかけた。
「……何があったのですか?」
「何が、っていうか、その……」
天香は口ごもる。
口論の内容をそのまま言うのははばかられた。恥ずかしいというのもあるし、あまり外に持ち出したい話でもなかったからというのもある。
なので。
「ちょっと、聞いていいかしら」
「なんなりと!」
そう威勢よく返事をされてもなんだか変な感じだ。
天香は言葉を選びながら口を開く。
「市場……そう、市場で喧嘩してる人たちがいるとするでしょ? その喧嘩はええっと、普通の喧嘩じゃなくて、周りの人たちにも被害が出てるような喧嘩でね」
「はた迷惑な話ですね」
「そう、迷惑なの。だからその、周りの人たちへの被害を止めさせたいんだけど――」
「もっと広い場所に連れて行ったらいいんじゃないですか。大通りとか空き地とか」
「えっ」
想定と違う答えが来た。
「周りの人たちが迷惑するような場所で喧嘩してるなら、他の場所に連れて行って大いにやってもらいましょう」
「え、いや、喧嘩をやめさせる方法を相談したつもりだったんだけれど……」
「やめさせたいんですか?」
「だって、喧嘩したままじゃ周りの人たちも仕事が出来ないのよ?」
「だから、迷惑になる人がいなさそうなところまで連れ出して、気の済むまで喧嘩してもらえばいいのでは?」
「そうじゃなくて……」
「お姉さま」
すっ、と一歩近づいて、光絢が天香に呼びかける。
ピンと立てた人差し指を突きつけるようにしつつ、やや上目遣いに天香の目を見て。
「お姉さまが争いがお嫌いなことも、できればそれをやめさせたいというお優しいお心も、この光絢はよく存じております。けれど――それは、本当にお姉さまがしなければいけないことなのですか?」
天香は一瞬息を呑む。
光絢のそれは、麗瑛の言葉と同じだった。
だから言い返した言葉も、なかば反射的に出たものだった。
「だっ、だって、喧嘩なんてないほうがいいじゃない。私だけじゃなくて、みんなそうでしょう。違う?」
「違いません。わたしも喧嘩など嫌いです。でも、今言ったのはそういう意味じゃありません。……さっきのお話でいえば、市場の喧嘩なら巡邏の役人を呼んではいけないのですか? 市場の顔役に若い衆を何人か寄越してもらうことは出来ないのですか? なぜ、お姉さまがそこに割って入らなくてはいけないのですか?」
「市場ならそうかもしれないけれど……っ!」
「やっぱり、後宮のことなのですね」
「あ」
天香は自分の失敗を悟る。だが失言を悔やんでももう遅い。
ふう、と息を一つ入れて、光絢はなだめるように言う。
「それなら、なおさらお姉さまだけが割って入る理由はないでしょう? 殿下でも女官長でも、もしくは帝さまを引っ張り出すことだって、お姉さまなら出来るんじゃないですか? それがお嫌なら侍女を使うとか。少なくとも、お姉さまが一番に割って入るのが良い答えだとは、わたしには思えません。――たぶん、殿下も」
付け加えられた言葉に、天香は思わず立ち上がる。
「あなた、なんで――」
「わからないわけがないでしょ。お姉さまはおわかりではないみたいですけれど。――たぶん、わたしと殿下はよく似ているんです。だから、なんとなく。ですから、お姉さま? さっきの話じゃないですけれど」
いたずらっぽく笑って天香を見上げ、椅子から立ち上がりながら光絢は言う。
「まずお二人で喧嘩してください。気の済むまで」
言いながら伸ばされた光絢の手にそのままくるりと身体を回転させられ、送り出されるように房の入り口に立つ。
そこまで来て、天香は背後に立つ光絢にやっと礼を言えた。
「ありがとう、光絢」
「お礼なんて言わないでください。お姉さまがわたしを頼ってくださっただけで、わたしは嬉しいんですから。――でも、お姉さま? 少しばかり油断しすぎですよ」
「えっ」
聞き返せば、光絢はにこりとした笑みを浮かべて。
「あら、だって、こうして気落ちしてるお姉さまに、あることないこと吹き込むことだってできるんですのよ。殿下は冷たいお人ですねとか、お姉さまは全部正しいのだから譲らなくてはいけないことなんてないのです、とか。……けれど、そんなことをするわたしを、お姉さまは好きになんかならないでしょう?」
「光絢――」
「わたしもそうです。そんな風にして振り向いていただいても嬉しくなんかありません。だから」
こつん、と軽い感触があった。天香の背中に額をつけて、光絢は言う。
「今は殿下のもとに、お姉さまを返して差し上げます……なんて」
「……ありがとう」
軽く腰に添えられた光絢の手を上からふわりと包むように握って、もう一度天香は礼を言った。
天香を見送ったあとで。
光絢はのろのろと床に突っ伏すと、頭を抱えて。
「あああ良い格好なんてしなきゃよかったあああ。他になんかできたでしょおおもおおおお。なんであんな無駄に格好つけようとしたのわたしぃぃぃ」
そのうめき声は寝台の絹布に吸い込まれて消えた。
朱光絢十五歳。好きな人にかっこつけたいお年頃――。




