四十五、 お気の毒
「そう、洪妃はそんなことを」
天香は洪妃との会話を、激昂したその理由のあたりまでをかいつまんで説明する。
麗瑛は軽くため息をついて応じた。
その両手はまだ天香の首根に回されたままだ。
「まあ、理解できなくはないわ。一度気に食わないってなったらその人のやることなすこと全てが気に食わなくなってしまう、っていうのはあるもの」
「そういう度合いの話なんでしょうか……?」
「まあ、ここまで真正面からぶつかったのは初めてだったかしらね。それすら受け流されて終わったように見えたけれど」
「これまでも対等なのを認めさせようとして、あの手この手を尽くしても格下扱いだった、とも言っていました」
勝負するつもりで乗り込んできたのに、その勝負を受けるどころか相手にもされなかった。そんな洪妃の苛立ちは察して余りある。勝負に勝つことを考える前に勝負に応じさせることを考えなくてはいけない上、その勝負に応じられたことはなかったのだ。今まで一度も。
「それは、お気の毒ね」
「……それだけですか?」
「他に何と言えと?」
さらりとした麗瑛の感想に天香は拍子抜けする。
もっと親身になるというか、気にかけるような言葉を出してくれるものだと思っていた。
「だって、李妃の振る舞いはその――あまり良いものではなかったと思うんですけど」
「そうね」
「そして洪妃がそれに異を唱えたことは間違ってないこと……だと」
「そうね」
「そこに至るまでも、洪妃は李妃にすげなく扱われてたんですよ?」
「だから?」
「だから……」
「だから、わたしに洪妃を褒めろというの? その扱いについて李妃を咎めろと?」
麗瑛は天香の首根から手を離す。榻に片手をついて身を起こして、視線を天香に下げながら言う。
いつもは天香がやや視線を下に下げることが多いから、見下ろされる感覚が新鮮だった。
その新鮮さを表現するよりも前に降って来た、その言葉に天香は戸惑う。
「でも、茶会での李妃の振る舞いは……」
「ええ、良いものではなかったわ。だから彼女たちにも言ったでしょう。お兄さまに報告する、って。けれど、だからといって李妃と洪妃の仲違いを――いや仲が悪いのは最初から、みたいだけど、その仲の悪さをわたしが諌めなければならない理由はないでしょう?」
「けれど――」
「あなた、洪妃に肩入れしてるんじゃないでしょうね?」
「えっ」
思いがけない一言に、天香は胸を突かれる。
「少し近くで話したからと言って、心情まであちらに引きずり込まれてどうするの天香」
まあ、それも良いところだけれど――と続けてから、麗瑛は言う。
「肩入れするのはあなたの役目じゃないのよ」
でも、だったら。
天香は思う。
私は。私の役目は。
「じゃあ、私の仕事って何ですか」
「天香?」
「私は、後宮で、瑛さまのお側で何をすればいいんですか。毎日お側に侍って、喋って、お茶を飲んで、ご飯を食べて、寝て、起きて、その繰り返しが私の仕事ですか。それはそれで心地はいいかもしれないけど――いや、違って、そうじゃなくて、私はっ」
そう出来ればいいと思う。そうしたいと思う。
ゆるゆると風の吹く昼下がり、その風に髪を遊ばせて、こうやって榻に寝そべりながらその膝には麗瑛が頭を乗せて。
そんな穏やかな風景を。
けれど、それは目標ではあっても、今ではない。
後宮はそんなに穏やかなだけの場所ではないことも、茶会を終えた今、天香は知ったから。
ならば。
今出来ないのならば、そこに向かってすこしでも歩みを進めたい。
その思いは、けれど麗瑛には通じていなかった。
「肩入れとかなんとか知りません。私はっ……!」
そこまで言って、一度息が喉に引っかかる。
高ぶった想いが、噴き出した気持ちが、喉から鼻にツンと抜けて目頭を内から叩く。目尻から頬に二、三滴と、熱い感触が流れ落ちたのを感じる。
「これ以上、揉め事が起きてほしくないだけです……っ」
「天香……?」
一度大きく息を吐いて、うつむき加減になりながらも、なんとか言葉を押し出した。そんな天香を前にして、戸惑ったように麗瑛がその名を呼ぶ。
戸惑いもするだろう。いきなり噴き出した感情を、こうやって目の前にすれば。
ああ、だからきっとあの時、洪妃もこうだったのかもしれない。そして李妃もまた、今の麗瑛と似た表情をしていたのではなかったか。
もちろんあの二人の距離はそれぞれの茶卓とその間の茶菓盆とを挟んだ向かい側で、身を起こしたとはいえ同じ榻の上に体を乗せている今の天香と麗瑛ほどには近くはなかったけれど。
天香はひっひっと細く早い息をしつつ、弱く鼻を鳴らす。そのたびに鼻がツンとして新しく薄く涙が滲む。
いつもならここで何か言うはずの麗瑛が口を閉ざしている、それだけで、腰がむずむずと落ち着かない。目に見えない何かに下から引っ張られているような。一言で言えばいたたまれない。
その感覚に突き動かされるように、天香はふらりと腰を浮かせた。
「どこに行くの、天香?」
「……光絢のところに」
それだけをなんとか絞り出して、天香は房を出た。
その後姿を見送って、ぱたり、と榻に上体を倒してから。
「――浮気宣言?」
彼女はちいさく呟いた。
麗瑛でも混乱することがあるのか、と、天香がその様子を見ていたら思ったかもしれない。
***
光絢の房――建物の広さのわりに侍女の数が少ない今の蓮泉殿では、侍女たちは一人に一つの個室が与えられていた。下級の宮女(女官と侍女の総称)たちは数人で一つの相部屋で寝起きしている。だから贅沢といえば贅沢な使い方である。といって余っている部屋を余らせたままにするのもそれはそれでもったいない。
それくらいならいっそいくつか女官に貸してみようか、なんて話になったこともあった。殿の主人たる麗瑛が余り乗り気ではなかったのでそのままになっている。
「お、お……お姉さまが私の部屋に――!」
ともかく、光絢の房を訪れた天香を、光絢は驚きと喜びとほんの一抹の不審を混ぜた表情で出迎えた。
光絢のところに行く、というのは、特に何も考えずについ口から出た言葉だった。
何も本当に光絢のところに来ることはなかったのに、結局こうやってそこに足が向いてしまったのを、天香は少し後悔した。まあ、来ちゃったんだからもう遅いのだけれども。
「そそそれで、な、何の御用でしょうか!?」
天香を椅子に導いて、意気込んで光絢が訊ねる。
そう言われても、用件や理由があってきたわけではない。
なんと答えようか。なんと答えればいいのか。
そう天香が考えていると、光絢はハッと何かに気づいたように言葉を改めて。
「もしかして――泣いてらっしゃったのですか?」
見抜かれた。
というよりも、涙こそ拭いたものの、特に顔を洗ったりしてきたわけではない。
目も鼻もまだ赤いだろう。隠せるとは思っていなかった。
だからといって気づいてほしかったというわけではないけれど。
「殿下に何かご無体な真似をされたのですか? 落ち着くようなお茶でも淹れましょうか? あれ? あ、それともまさか、わたしにそれを忘れさせてほしいと――」
「あ、今、そういうのはいいから……」
気づかうような台詞に混じって私欲が飛んできたのを、天香は見逃さずに撃ち落とす。
さすがにそれは、ええと、いろいろとまずい。
とはいえ、全体としては気づかいの気持ちを向けてくれるところに光絢の優しさを感じる。
しかしその一方で天香は、殿下との会話が気まずくなって、そこにい辛くなって逃げてきたから匿ってくれ、なんて言えなかった。言いたくなかった。
具体的な内容も告げずにただ逃げさせてくれだなんて、体よく都合よく光絢を利用しているようで胸が痛む。
「ちょっと、できればその、放っておいて……気持ちを整理したくて。あの、ええと……ごめんなさい」
「あ……はい」
口から出る言葉が、本当に自分のものかと疑うほどにまとまりのない欠片のようで。
あっけにとられたように、光絢はそう返事した。
前回投稿後、1週間くらい間が空くかなー、と思ったら3週間も空いてしまいました……。




