四十四、 ふたりの反省会
「申し訳ございませんでした」
片づけを侍女たちに任せる形で涼亭の広間から蓮泉殿に戻ってきて、居室に入るなり天香は頭を下げた。
その頭の上から麗瑛が尋ねる。
「どうして天香が謝るの?」
「どうして、って……」
自分の提案が揉め事の種になって、それがきっかけで茶会で騒ぎが起きた。麗瑛の評判にも響くのではないか。
そう言い募る天香の言葉を、麗瑛は途中で遮る。
「ばかねえ天香は」
ばか、というその言葉には叱りも呆れもなく。
ただやわらかくやさしい響きがすっと耳から心に入り込む。
「あんなもの、騒ぎのうちに入らないわ。それにあの二人なら、ああいう場がなくてもいつかは洪妃が爆発したでしょうし」
洪妃との会話で天香が思ったのと同じことを、麗瑛は口にする。
その場が茶会であっただけで、そうでなかった可能性もある。と。
「それに、あなたの提案を認可したのはわたし。あなたが謝っても意味はない。……なーんて、そんなことくらい天香なら全部考えてるわよね。その上で頭を下げずにはいられなかったから下げたのでしょう?」
「なんっ、そっ……」
「なんでそれがわかるか? わかるわよ。天香のことですもの。洪妃のところからなかなか帰ってこなかったのも、話を聞き込んでいたからでしょう? わたしに報告するためとか言って。何か違っている?」
全てその通りだった。
その通りであり、謝らなくてはいけない理由もその必要もないこともわかっていて。
それでもその言葉を口にしなければ自分の気持ちが収まらなかったから頭を下げた。
完全に見抜かれている。見通されている。洪妃に言った言葉すら。
まるで書物を読み上げるように心そのものを丹念に読み取られている、そんなふうな麗瑛の言動が、けれど天香にとってはむしろ喜びに近い感情のうねりを起こさせる。もし全然知らない人に同じことをされたらただ気味が悪く思うか、あるいは表面上驚いては見せながら少なくともいい気持ちにはならないだろう。しかし互いに良く知り心を通じ合わせた相手だったなら、それはむしろ理解されているという嬉しさに通じるのだ。この世で一番理解されていたいひとに紛れもなく理解されている。そのことが天香の心を打ち震えさせていた。
「なら、その報告を聞くところから始めましょう。ああ、その前に言っておくけれど、もしあれしきのことで悪評を立てる人間なんてものがいたとして、そんなのは度外視してもかまわないわ。そんなさもしい人間、正妃どころか妃にも相応しくないもの」
「それは……そうかもしれませんけど、でも」
「塗られた泥は二人で拭いあいましょう、でしょ?」
「そう、ですね」
かけられた言葉に唇をすこしほころばせると、麗瑛は満足げに微笑んだ。
「やっと笑ったわね」
「え?」
「だってあなた、李妃たちを送った後くらいからずっと怖い顔してたのよ。もしかして、自分で気づいてなかったの?」
さらりと言う麗瑛の言葉に天香は驚く。
自覚など少しもなかった。
けれど麗瑛がわざわざ言うほどだったのだから、それは相当だったのだろう。
反省点はそこにあった。茶会の最中や前準備のことではなく、それよりも全てが終わった後で一番心配させてしまったことを天香は反省する。
「全然、気づきませんでした。……考え事をしていて」
「それも含めて聞かせてもらえるのよね?」
「……はい」
「――で、なんでこの姿勢なんですか」
榻と呼ばれる寝椅子の上、柔らかな背もたれに背を預ける格好で、天香は同じように身体を預けている麗瑛を咎めた。
ただし麗瑛が天香と違っているのは、榻に直接寝ているわけではないというところだ。榻はこの部屋にひとつしかない。
麗瑛がいるのは天香の上だった。
つまり、榻の上に二人で寝そべっていた。
さすがは後宮で使う家具だというべきか、一人で使うのが前提のはずの榻に二人で寝ていても軋み一つない。
詰め物の入った座面は適度に柔らかく二人ぶんの重みを受け止めて包み込み、たとえこのまま一日中ここにいても特に問題はないだろうと思わせる。
顔が近いことを除いては。
もちろん何度もくちづけを交わしているのだし、抱き合うこともいつもだし、夜寝るときにはこんな距離に近づく事だって何度もあるし、今さらと天香も自分では思っている。だというのに、これが不思議なほどに照れくさい。直視できない。
もたれかかってくる麗瑛の心地良い重みを感じながら、また頬の赤みが増してしまわないかと思いつつ、天香は照れ隠しの憎まれ口を叩く。
「重いんですけど」
「ひどいわ、わたしが太ったって言うのね」
「食べてるものは同じなんですから……って、そうじゃなくて、別に報告はどこでも出来るでしょう!」
「あら、まだ外も明るいのに床に行きたいの?」
「そういう意味ではなく!」
いたずらっぽく瞳を光らせる麗瑛に抗議の声を上げる。
床に入ったら報告どころではなくなるような気がするのでむしろこっちのほうがいいのかもしれない。そんな風に思ってしまう時点ですでに天香は冷静ではない。思考を見事に誘導されている。
「ああもう! だから、こんな格好でなくてもいいじゃないですかって話で――」
「だーめよ」
その声の甘さにしびれるような感覚を覚えながら、天香は胸の上、顎よりは下にある麗瑛の顔を見る。
瞳の光はそのままながら、口はどきりとするように真面目な形をとっていた。
その口から、けれど声色は楽しげに言葉が紡がれる。
「これは罰」
「罰って……」
「だって茶会の準備中はなかなか出来なかったじゃない?」
「それは別に、あいえ、したくなかったとかじゃなくて、そもそも罰とか罪とかじゃ」
「それと、茶会の間なかなか私のところに帰ってこなかったことにも」
「う……」
それは今から説明する事柄だったけれど、確かに少し悪いとは思っていたけれど、そもそも、
「どう、不満?」
「不満というか、いえそれは申し訳なかったと思うけどっ、ていうかだってこれだいたい別に罰になってな――! ……あ」
言い募る口からぽろり、と真情がこぼれたことに天香が気づいたその瞬間に。
にいっ、と公主殿下は笑みを浮かべた。獲物を見つけた猫みたいだと天香は連想する。
そんな瞬間、実際に見たことはないのだけれども。
「じゃあ、この格好でも問題はないでしょう?」
やられた。
天香は負けを認める。認めざるを得なかった。
「――その場で思い立って行動したっていうのも、天香の推測どおりじゃないかしら。行動力はいいけど、それが空回りしてはどうしようもないわね」
結局、麗瑛を身体の上に抱くような形で報告をさせられている。
今はちょうど徐嬪を追い返したところだ。
話している内容が童話や夜話の類ならほとんど寝かしつけの構図に近い。そんなことを思ったりする。髪を梳いたり背を叩いたりしたほうがいいのだろうか。
……何か違うことを考えていた。
「よく追い払ったわね、天香」
えらいえらい、と頭に手を伸ばされる。天香の胸元に頭がある状態だから、自然と少し身を起こして乗り出すような姿勢になって、その右の袖口が天香の顔をわずかに撫でた。そのくすぐったさよりもなお明確に、公主に触れられた頭に軽く熱を感じる。
ああ、これならこっちも髪を梳いておけばよかった。
「行動が空回りといえば、陸嬪もなのだけど」
ため息交じりのようなその言葉に、天香は橙の上衣を思い出す。目を引く仕立てだったが、洪妃と郭嬪に挟まれてはむしろ浮いて見えた。色が、と言うだけではなく、陸嬪自体との合わせかたでも。その陸嬪は茶会の噂が流れた当初、一番早くに茶を献上に来た。確かにそれだけを見ても行動力はある。行動力は。
逆に空回りしていなかったのは郭嬪だろう。茶を献上し、商談すらやってのけたくらいだ。
「――で、洪妃は何と言っていたのかしら?」
そんなことを言ううちに、麗瑛が話題を転じた。
「瑛さまはあの騒ぎについて、どこまでご存知ですか」
「あなたとそう変わりはないと思うわ。だってあの時はあなたを見ていたのだもの」
言われて思い出す。ちょうど戻ってきた天香に麗瑛が声をかけていたその時に、洪妃が激発したことを。
「では発端も、詳しくは……?」
「それこそ洪妃が気を失う前に叫んでたことだけ。そのあと李妃にも話を振ったのだけれど、よくわかっていないようだったわ。それ以外の妃嬪からも芳しいことは聞けなかったもの。陸嬪に聞いたけど、彼女と話していたときに急に立ち上がって、だったみたいだし」
「なら、洪妃に言われたことを順にお話しします」
そう前置きして、天香は口を開いた。




