四十二、 茶会 ~洪妃 下~
言い切って手を床に落とした、その姿勢のままで、洪妃はふっと力を抜いた。身体からも、声からも。
執子に身を沈めながら、彼女は言う。
「みっともないと思う? たかが庶民の菓子で大声を上げるなんて、仮にも妃のすることではないと言う?」
「いえ、そんなことは」
天香は答える。
その言葉の、半分以上は本心だった。
下のものを無視して遠ざけていいわけがない。洪妃が広間で叫んだその言葉には同感だったし、自分も市中では食べていた菓子をそんな理由で遠ざけられたことに憤りを覚えないわけではない。
それに――発案したのは自分とは言え、それを面白そうだと認めたのは麗瑛であり、実際に作ったのは司厨の李夫人だ。庶民の菓子とはいえそこに物言いを付けるのは、麗瑛や李夫人を軽んじたことに他ならない。
李妃の侍女や寧嬪の言動は、その意味で褒められたものではなかった。たとえ本心でどう思っていたとしてもだ。
それを咎めるべきは本来なら李妃だったはずだ。しかし彼女はそうしなかった。
声を上げたことは礼式には反しているのだろう。
けれど天香は、それを責めたいとは思わなかった。
「そりゃああたしは他の妃嬪のみなさまと違ってお嬢さま育ちってわけじゃないわ。家の者はみんなお嬢さまと呼んでくれるけど、それだってあのオヤジが分不相応に出世なんかするから――」
「お嬢さま、地が出てますよ」
「めんどくさいわね! あなたたちが黙ってればいいことでしょ!」
天香は先ほどからの洪妃のあけすけな言葉遣い――それは天香にとってはむしろ馴染みのある、とても上品とはいえない、普通の街娘のような言葉遣いに目を白黒させる。
オヤジとは洪妃の父、洪将軍とかいう人のことだろうか。今は軍の高官だがずっとその地位にあったわけではないはずだ。お嬢さま育ちじゃないという言葉はそういう意味だろう。対して李妃は生まれながらにして高位の貴族の娘だ。
あとひょっとしてその『たち』の中に私入ってますか。
決まり悪げにがしがしと髪に指を入れながら洪妃は言う。
その仕草だけ見れば、まさにふてくされた街娘のそれだ。
「――って、だから、あたしもまさか後宮に入れられるなんて思ってなかったけど、それはまあいいのよ。あのオヤジがなんか暗躍した結果みたいだし、実際来てみたらそんなに悪い場所でもなかったし、それに――青元さまはお優しかったし」
「はあ」
お優しい青元さまとか言うのが想像できない天香は冷めた返事をしてしまう。天香にとってはかつては近所の兄貴分であり麗瑛の兄であり今は自分の義兄である。確かに女性に対しては一見柔らかな態度を取るのかもしれないし、実際年少の子供たちには優しかったのは事実だ。
けれども、少なくとも、目の前のこの女性に慕わしげな顔をさせるような青元を、天香は知らない。
そもそも誰か特定の妃嬪にだけ優しく振る舞うなんてことがあるのか、それがすでに疑わしい。
そんなことを思いつつも口には出さない。
優しかったのが本当なら言うだけ失礼だし、何かの勘違いだったなら傷つけるだけだ。
「で! 後宮に来て唯一腹が立つのがあの女よ」
「李妃さまのことです」
「いちいち注釈つけなくていいから!」
芸人の掛け合いか、と言いたくなるような間合いで主従が言葉を交わす。
「あたしも妃として後宮入りするまでに教わったわ、色々とね。ほんの少しだけ先にあっちが入ったとはいえ、身分に上下はない。だから陛下の寵を得られるかどうかはお前次第だ。そうまで言われてここに来たのよ。それがなに、あの女と来たらまるっきりこっちを格下扱い。対等だってことを認めさせようとあの手この手を尽くしても『あらあら困った子ね』みたいな目で見てくるだけ! この衣裳だって、あっちが青しか着ないから対抗して仕立てたのよ? 何の反応も無かったけどね。第一妃どころか正妃になった気でいるの。絶対そう。青元さまは何も仰っていないというのに!」
そんなふうにまくし立てる洪妃。
その後ろで、侍女が困ったような笑みを浮かべている。やれやれまた始まった、とでも言いたげな顔だ。
天香にもわかったことがある。
洪妃が今回いきなり李妃に腹を立てたわけではない。
積もり積もった鬱憤が、面と向かい合うことで炸裂したのが茶会だったのだ。
「さっきも言ったけれど、寧嬪のことにしてもそうよ。いえ、寧嬪だけじゃないわ。采嬪や徐嬪もよ」
その列挙された名の一つを、天香は聞きとがめた。
「徐嬪?」
「知らないの? あの三人は李妃の取り巻きじゃない」
「申し訳ありません。後宮に入って日が浅く……」
「そう。とにかく、他の嬪を家臣のように――というか、家臣の娘をそのまま嬪にしたんだったかしら。そんな感じに従えて、派閥の長の真似事みたいなことをしてふんぞり返っている、その態度も含めて気に食わないのよ、あの女は」
「ま、派閥の長、といえばお嬢さまも似たような立場ではお有りなのですが」
しれっと侍女が混ぜ返す。関係が深いとはいえ非礼すれすれの台詞で、天香のほうがひやひやする。
李妃とその取り巻き、李妃派がそういう繋がりなのならば、洪妃もまた自分の派閥めいたものを持っている。それはどうなのだという言葉だ。天香もそれは気になるといえば気になるところである。
当の洪妃は気にも留めずに言い返す。
「あれは違うわ。蘭は親戚だからともかく、他の子たちには別にそんなことを言ったつもりなんてないわよ」
「ええ、皆さまあちらから求めてこられましたが」
「当たり前でしょう? 妃かどうかなんて関係ない。窮鳥懐に入ればというじゃない。当然のことよ」
「素晴らしきご見識です」
「あなた本心から褒めてないでしょう」
いえいえそんなそんな、と明らかに熱のない言葉に洪妃は形ばかり怒ってみせる。
天香には自分と麗瑛の未来形または過去形を見たような気分になってちょっと居心地悪い。
「っと、ごめんなさい。こんなことまで話すつもりじゃなかったのに」
「いえ、こちらも……不調法をいたしました」
我に返ったように詫びる洪妃に、そう言って天香は頭を下げた。
面白い話を聞かせていただきました、なんて、思っていても言えない。言わない。
「なんだかあなたって話しやすいわね。話したくなったらまた呼んでいいかしら」
「えっ」
「お嬢さま、こちらの方は公主殿下の侍女ですよ。殿下の側に仕えるのが仕事であって、お嬢さまの愚痴を聞くことは仕事ではありません。呼びつけたらご迷惑です」
「だって、あなたや圭寿たちは外に言いつけるでしょ」
「旦那さまに報告すべきものに関しては、そうしております。それにこの方とて、公主殿下にご報告するのでは?」
「女の機微のわからないジジイに知られるよりはマシよ」
あ、オヤジがジジイに昇格した。
「それでどう? 私の話し相手にならない?」
一人称があたしから私に戻っているのは、それだけ落ち着いてきたことの証だろう。
それでも父親の呼び方がオヤジだのジジイだのなのは、元がそうなのか。
「も、申し訳ありませんが……私は公主殿下の侍女ですから……」
「では公主殿下に直接掛け合っても――」
「おやめください! ……あ、いえ、その、申し訳ありません」
つい大声を出してしまい非礼を詫びる。
さすがに見かねたのか、侍女が間に入ってくれた。
「お嬢さまいい加減になさってください。困っているじゃないですか。それとも、困らせて楽しんでいるのですか?」
「そ、そんな性悪じゃないわよう」
おおいやだ、と冗談めかした身振りをつけて洪妃は言う。
それでもなお、じー、と音が出そうな目で凝視され、気押されたように答える。
「う……わ、わかったわ。呼びつけるのはやめる」
そう言いつつ、付け加えるように。
「でも、もしもまたこんな機会があったら、そのときはまた話を聞いてくれないかしら。あ、もちろん公主殿下にお許しをいただいてでいいから。ね?」
「そ、そのように、申し伝えます」
そう言われて、天香はなんとか言い逃れるのが精一杯だった。
「そのときは、昭華と呼んでくれてかまわないわ」
そう言って笑う洪妃の傍らで、侍女が額に手を当てて首を振っていた。
控えの間を辞そうと挨拶をして立ち上がったところで、天香は洪妃に呼び止められる。
「あ、そうだ。――気づいていて? あの女、一度も青元さまを名前で呼ばなかったわ」
「そうでしたか?」
「陛下、陛下、とだけ呼んでた。あの女がなりたいのは『青元さまの妃』ではなくて『帝の妃』なのよ」
「どう違う……のでしょう?」
「帝の妃であれば、それが青元さまでなくても良いと思ってるってことよ。私は違うわ。あの女は理解できないという顔をしていたけれど」
『青元の妃』になると、洪妃は満座の中で宣言した。
あれはこういう意味だったのだ。
もちろん、ほんとうに李妃がそういうことを思っているかどうかは判らない。
大事なのは、洪妃はそう信じていて、そして李妃に宣言したとおりに動くのだろう、ということだ。
そして今の言葉は、動くことを天香に遠回しに明かしたのかもしれない。
彼女の性格からしてそうでない確率もそれなりにある、けれど。
「疑うのならば、出来る範囲で確かめてみればいいわ。あの女が青元さまと呼ぶのかどうか、ね」
洪妃は最後にそう言った。
まさか上下編になるとは。
すでにお気づきの方も多いとは思いますが改めて明言しますと。『間章』で自室で癇癪を破裂させていたのが洪妃、教育役がこちらの侍女です。やっと出してあげられました……。