四十一、 茶会 ~洪妃 上~
手すきの者に控えの間に執子や座布団を運ぶように指示を出す。洪妃を控えの間に移して落ち着かせるためだ。
天香は倒れた洪妃に近寄る。胸は定期的に上下している。息はある。
しかし意識は少し朦朧としているようだ。
「洪妃さま、少し失礼いたします」
そう声をかけて、洪妃を支えている彼女の侍女と、さらに洪妃に付いていた給仕役と三人がかりで洪妃の体を起き上がらせた。肩で洪妃の腋の下を支えるようにして歩き出す。洪妃の重みが肩と首にかかった。
控えの間に入って、敷かせてあった座布団の上に洪妃の身体を横たえる。洪妃はくたりとして苦しげな息を吐く。
給仕役には麗瑛への報告を頼み、天香は洪妃の侍女に話しかけた。
「お身体の調子がお悪かったのでしょうか。元から身体が弱いという話はお聞きしていませんでしたが……それともこちらで出した食べ物に何か?」
「いえ、原因は大体わかっておりますので。……失礼しますよお嬢さま」
侍女は冷静に答えて、洪妃に歩み寄った。
洪妃より数年年長、後宮で言えば劉嬪と同年代の二十代半ばだろう侍女は、そう声をかけながら洪妃の身体とその服装を確かめていく。
公主の開く茶会に同伴させてくるくらいだから、洪妃の侍女の中でも筆頭格、とくに信頼の篤い侍女なのだろう。介抱する手つきも慣れたものだ。お嬢さまと呼んだ事からも、洪妃が実家にいた頃からずっと側付きなのかもしれない。
「ああ、やっぱりこんなに帯をきつく締めて。これじゃ倒れるに決まってますよ。圭寿や瑯璃はまた断れなかったのね、まったくもう」
「圭寿たちを責めないで。私が言ったのだから」
「当然です。ですからお嬢さまを責めているのです。わたくしは前にも申し上げたはずですよ、きつく締め上げすぎてそのうち醜態を晒すことになりはしないかと心配ですと。まだお体の崩れを心配するような齢ではないでしょうと」
上衣を脱がせて帯を緩め、手巾で汗をぬぐい、その合間に言葉を交わす。
その遠慮のない言葉遣いから、天香の想像通り付き合いの長い関係なのだとわかる。
侍女というよりも姉のような世話の焼き方だ。
いや、自分と麗瑛もある意味似たようなものか。身分差と年の差が逆だけど。そんなことを天香は思う。
「だって、その凜とした姿勢がかっこいいといってくれる方たちが……」
「だからと言って自分が倒れるほど締め付ける必要などありません。そのうえ急に動いたでしょう。しかも頭に血を昇らせて怒鳴り散らして。そんなふうにするから血の巡りがついて来れなくなるんですよ。お嬢さまは武芸をやってらっしゃったのですからわかるでしょう。身体を締め付ける胴着がどこにありますか」
「だって、あいつら、あの女が――」
「そのかたがたの面前で感情を晒して――素を見せてどうするのです」
「だってえ……」
上体を起こして執子にもたれかかる楽な姿勢を侍女に取らされながら、同じ言葉しか繰り返せないように呟く。完全にその声色は親しい身内に向ける甘えの含まれたもので、当然そんな関係でない天香は居心地悪く身じろぎをせざるを得ない。というかそもそも自分の存在が認識されているかどうかも怪しい。
ともかく、洪妃も一時に比べると楽にはなったようだ。とはいえまだ立ち上がるのは辛そうで、このまま楽な姿勢にさせておいたほうがいいだろう。そう判断する。
こほん、と天香は軽く咳払いをして(この咳払いも失礼なく話しかける間を作るための必須技能だと、ウソかホントかわからないがそんな話を尚宮職や侍女たちから聞いていた。確かにそれっぽいなと自分でやってみて思う)、洪妃主従に話しかけた。
「ご気分もだいぶん良くおなりのようですので、私はこれで下がらせていただきたいと思いますが……もしよろしければ、念のために医官もお呼びしますが、いかがいたしましょう」
「……ええっと、誰?」
やっぱり認識されていなかったらしい。
自己紹介したほうがいいのだろうか。そう思っていると侍女が返答のついでに説明してくれた。
「ありがとうございます。けれどご覧の様子ですので、わざわざ医官を呼んでいただく必要はないでしょう。……お嬢さまの介抱を手伝ってくださった方です。公主殿下の侍女の方とお見受けします」
「ああ、そうなの……手間を取らせたわね」
洪妃は額に手を当ててそう答え、侍女が何事か耳打ちする。
その言葉を聞いて、洪妃は天香を視界にとらえて言った。
「公主殿下の侍女ならばお伝えしておいて。殿下の茶会で申し訳ないことをしましたと……心づくしを台無しにしてしまったと」
「でしたらその――出来ればでよろしいのですが、下がる前に何があったのかお教え願えませんでしょうか。殿下に改めて事情を説明しなければならないと思いますので……」
その前の件とも合わせて、説明しなければいけないことがどんどん増えるなと天香は思った。
もちろん天香も麗瑛も含めて、誰かが悪いわけではないのだけれども。
「あの女、あの女が――」
「お嬢さま、あの女では侍女の方にはわからないかもしれないでしょう」
「あの女、あの癪に障る李妃が、これ見よがしにお高くとまってるのが腹立たしかったからよ」
叫ぶとまでは行かないが、語勢を強めて洪妃はそう吐き捨てる。妃嬪に使う言葉ではない気がするが、そんな勢いで言葉を口にしたのだ。
その言葉の棘の強さに天香は戸惑う。
そしてその戸惑いを見た侍女が、洪妃を諭すように言った。
「それでは伝わりません。何がお高くとまっていたのか、どう腹立たしかったのかを伝えなくては」
「うるっさいわね!」
「非を鳴らして名分を立てねば、ただお嬢さまが癇癪を起こしただけと見られてしまいます。最悪、何らかの罰があるかも。そういうこともありえますよ。そうですよね、侍女の方?」
「ええーと、はあ、その、まあ……」
急に振られても困る。たぶん処罰とかそういうことにはならないとは思うし思いたいけれど、そう断言してしまうのも良くない。言質とか。そういう怖さを天香は知っている。
とりあえず今は原因というか経過というか、それを把握したかった。
「つまり、李妃さまに何か、洪妃さまがご立腹される原因があったと言うことでよいのでしょうか」
「そうよ。あの箱入り娘、薦められた菓子を断ったのよ」
それは激した洪妃の言葉の中に出ていたことだからわかる。そのときの洪妃の言葉を信じるなら酷い態度で断ったということらしかったが、それでも菓子を断っただけで洪妃が激昂するような振る舞いだったとは思いにくい。
そんな疑念を見て取ったか、自分の説明不足を悟ったか、洪妃は言葉を継いだ。
「ごめんなさい、順を追って説明するわ。まず劉嬪よ。自分の盆の菓子を寧嬪と李妃にも分けようとしたの。そこで寧嬪とあの女の――李妃の侍女がそれを断ったわ。庶民の菓子なんて食べられない、姫さまには食べさせられない、って声高に言ったのが聞こえたわ。扇まで使って払うような仕草までしてね」
心当たりはあった。
何と言っても天香はその菓子を劉嬪に取り分けた当の本人だ。一人分には多いとは思ったが、最初からおすそ分け、それと話の種にでもするつもりで多めに取らされたのかもしれない、と気づく。
天香が給仕していたという事実に洪妃は気づいているのかいないのか、話を先に進めていく。
「そんな言い種はないじゃない。劉嬪の気遣いまでまとめて台無しでしょう!? 断るにしてももう少し言いようがあるでしょう。そう思わない?」
「そう言われましても」
「だいたいあの寧嬪も李妃の家臣みたいな顔をしてるのが気に食わないけど――ともかく、そんなことを言ってるのを聞いたら、自分を上に立つ者と思っているのなら、それをたしなめるのが当然ではないの? それをあの女ときたらそうするどころか自分もそれを隠しもしない……っ!」
そう言い放って、洪妃は腹立たしげに手を床に落とす。
まだ力が戻りきっていないのか、その音は腕の勢いに比べれば軽く聞こえた。




