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公主殿下の寵姫さま  作者: 有内トナミ
二章 茶会 編
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四十、 茶会 ~動く~


 天香が広間に入ると、待ち構えていたような麗瑛と目が合った。

 とはいえ麗瑛に色々説明してからでは仕事が遅くなってしまう。さらに劉嬪の席は直接向かったほうが近い。心苦しいが目礼だけを送っておいて、天香は劉嬪の座席に向かった。

 劉嬪の横まで進んで声をかける。


「劉嬪さま。牛酪をご所望ということですが」

 劉嬪が天香を振り仰ぐ。そこで初めて、劉嬪の瞳が灰色がかった色であることに天香は気づいた。その瞳がなおさら異国的な魅力を放っている。

「どれほどご入用なのでしょう?」

「そんなにたくさんは要らないわ。別にここで何か作ろうというのではないのだし」


 冗談めかしてそんなことを言う劉嬪。

 もちろんそんなことをするとは思っていないが、むしろされたら困惑するが、使い道がわからない。そんな気持ちが顔に出ていたのか、補足するように言葉を接いだ。


「久々に、飲みたくなりまして」

「飲む、のですか?」


 牛酪は牛の乳から作る。固形のままでも、豚から作る猪油のように溶かして使うこともあると聞く。その油をそのまま飲むのだろうか。

 疑問を口にした天香に、微笑んで劉嬪は答えた。


「もちろん、そのまま飲むのではありませんよ。お茶に溶かして飲むの。ご存じない?」

「申し訳ありません。不勉強で。それでは、司厨に申し付けて確認させますので、しばらくお待ちいただければと」

「こちらの方にはなじみが薄いのかしらね。牛酪茶と言って、故郷では遊牧民たちがよく飲んでいたのだけど」


 北方の草原地帯には家畜を引き連れて暮らす遊牧民が多く、劉嬪の実家がある威州にもその姿は珍しくないらしい。なるほど傷みやすい牛の乳から作る牛酪も鷲京みやこよりは多く流通しているのだろう。

 都生まれ都育ち、ほとんど都から出た事のない天香にとっては遠い世界の話に聞こえる。


「まったく存じ上げませんでした。色々とあるものなのですね」

 礼式なら給仕役はここで一度下がらなければいけないのだが、ついそんな感想を言ってしまった。

「所変われば品変わる、ということね。馬の乳から造るお酒なんてものもあるのですよ」

「なるほど。――っ、失礼しました。牛酪の件はただ今……」

 相槌を打ってしまってからそれに気づき、非礼を詫びて下がろうとした天香を、劉嬪が呼び止める。


「ねえあなた。公主殿下のお付きの方よね? 殿下の側に控えていたのを見ましたよ」

「は、はあ」

 少し身構えてしまう。先ほどの徐嬪の一件から間もない。またあんな話題だろうかと思ってしまったのは仕方ないと思う。

 そんな反応をどう思ったのか、劉嬪は扇を開いて声を落として言う。

「なら、都風の名物――北の牛酪茶や馬乳酒のようにというか、そんな都の茶菓をご存知でしょう? この場にあるのなら教えてくださらないかしら」

「い、いえ、そんな私など、妃嬪さまがたにお教えできるような身分では――」

「あら、先ほどから皆さまの話を聞いていたら、この茶会の茶菓には都の庶民ふうのものも入っているらしいじゃない? 後宮入りしてからそういうものには触れていなくて、わからないのよ」


 そう言って微笑まれれば、断り続けるのも失礼だろう。天香は観念していくつかの茶菓を指し示す。

「ええと、それでは、開口笑かいこうしょうとかこちらの豆米糖とうまいとうとか、最近のだと炒り糖栗あまぐりなどが……」

「じゃあ、それを取ってもらえるかしら」


 開口笑は小麦粉と卵と蜜を練って胡麻をまぶして油で揚げたもの。豆米糖は名前どおり米や麦や豆を炒って膨らませて水飴で固める菓子で、堅果ナッツ類を混ぜたものもある。迦鈴が気に入っていたのがこれだ。炒り糖栗は最近鷲京の街中で流行り始めたものだ。

 どれも、天香と侍女たちが加えることを提案した城下流の茶菓の一例だった。

 求めに応じて劉嬪の手元にそれらを置いていく。

 一人でひと息に食べるには多すぎるような気がしたが、時間をかけて食べてはいけないというものでもない。

 ひと通り茶菓盆に並べ終わって、天香は一礼してその場を離れた。

 牛酪、牛酪と口の中で確かめつつ。




 涼亭の外で待機していた女官を呼んで司厨への伝言を頼む。それを見送ってから、天香はようやく自分の位置、麗瑛の傍に戻ることが出来た


「ずいぶん遅かったのね」

 開口一番麗瑛は口を尖らせて言う。ご機嫌がはっきりと斜めになっている。

「申し訳ありません。お叱りも説明もあとで納得いくまで――」


 天香は目線を伏してそう答え――終わる前に。

 時ならぬ大声と何かがぶつかる音が広間に響いたのは、ちょうどそのときだった。


「貴女は、またそうやって!!」


 声を上げたのが誰か。その人物にいっせいに視線が集中する。

 それまでめいめいに会話を茶を花を楽しんでいた妃嬪たちが、彼女たちをもてなしていた給仕役が、そして一番上座から麗瑛が、彼女を一斉に見る。

 声を上げた彼女は息を荒く吐いてそこに立っていた。感情のままに立ち上がったらしいその姿勢のままで、一点を見据えている。

 反射的に麗瑛の側に、怯えたわけではなく防御の姿勢のつもりで寄り添って、天香はその声の出所を確認する。

 意外の思いにとらわれながらその姿を見る。


 自分の卓から立ち上がって対面の席を――李妃を睨みつけている、洪妃の姿を。

 その足元、卓上の茶盆の中では茶杯が倒れており、さっきの音はこれを蹴倒した音だったのだろう。背の高い聞香杯、香りを楽しむための杯だから、青茶を飲んでいたのだろうと見当が付く。

 卓の向こうに見える洪妃の下半身、赤一色だと思っていた裙に、薄紅色の牡丹模様が入っていることに天香は気づいた。


「落ち着きなさいな、洪妃」


 位置関係とその視線から、一喝を向けられたのはどうやら李妃なのだろう。と天香は理解した。

 李妃、寧嬪、そして――劉嬪にも向けられているように見えた。

 李妃と寧嬪の後ろに控える侍女と、さらに給仕役さえ少し腰が引けている。

 しかし言われた当の本人は手にした茶杯から茶を口に含んですらいた。

 そしてそのままの姿勢で言う。


「皆さまが驚いていらっしゃるわ」

「――っ、その、態度がッ!」


 またしても激する洪妃にそこで初めて顔を向けて――そう、今まではそれすらしていなかったのだ――李妃は言う。

 不思議そうに。平然と。それが当然の振る舞いであるがごとく。


「あなたがなぜそんなに腹を立てていらっしゃるのかわからないけれど――公主殿下の御面前、茶会という場で大声を上げるなど、そんな礼式にもとるような振る舞いは如何かと思いますよ」

「こっの……振る舞いというなら! 貴女のまるで自分が上のような物言い振る舞いが、どれだけ癇に障っているか……っ」


 押さえようとしつつその隙間から噴き出すような洪妃の憤懣ふんまんを、李妃は柳に風と受け流す。

 少なくともそういう風に見える。


わたくしの振る舞いの、何にそんなにご立腹なのかは知らないけれど――」

「では今薦められた菓子を断ったのは何故。庶民の菓子など食べられぬと言いたいのでしょう。あんなに露骨に顔をしかめて背けておきながら!」


 本当にそんなことをしたのだろうか。天香はその場面を見ていない。ほとんどの嬪も給仕役も見ていないのだろう。糾弾されている李妃とその周囲の数人以外はただ唖然として、口も挟めないような顔でやり取りを見ている。そもそも妃同士のこんなやり取りに口を挟みたい嬪がいたらそれはそれで勇気があるのだけど。


 李妃の後ろに控えていた年かさの侍女が声を上げて抗弁する。


「姫さまはこういったものは食べ慣れておられないだけです。そもそも何を食し何を飲むかを洪妃さまに指図される謂れはありませぬ」


 姫さまという言葉から、李妃の実家から長く側に付いているのだろうとわかる。

 続いて同調して口を開いたのは、李妃の隣に座っている寧嬪だった。が。


「そうです! そのような食べつけないものを食べて、もし妃さまがお体の具合を崩されてはどうす」

「お黙り! へつらいは結構!」


 声をまともに浴びせかけられた寧嬪は顔を青ざめてさせて口を閉ざす。

 それほどの有無を言わさない一撃を与えておいて、洪妃は李妃へとその視線を据え直した。


「人の上に立とうという人間が、下のものを無視して遠ざけて良いわけがない。そう振る舞うべしと私は教えられたけれど、どうやら李妃さまはそうではあらせられないご様子」

「な、何を言って――」


 口を挟もうとしたのは李妃の侍女だが、洪妃は気に留める様子もなく続ける。

 炎のような勢いと天香が感じたのは、彼女の襦裙の色がそうだからというわけではないだろう。


「いい機会だから、改めてここで言っておきます。私はっ――」


 一度大きく息を入れて、洪妃は言う。

 決然と、宣言する。


「私は、『青元さまの妃』になります!」


 その宣言を受け止める李妃は、しかし小首を傾げて応じる。

 目の前の洪妃が何を言ったのか理解できないという、そんな表情としぐさで。

 言葉は伝わってもその意味を読み取れないというきょとんとした顔で。


「おかしなことを。ここにいる妃嬪の方々なら全員、それを目指しているに決まっているではないの。それとも、妾たちがなぜここにいるのかもわかっていないの?」

「理解できないならそのまま笑っているがいい! けれどそれでは貴女は――青元さまの妃になどなれない! 永久にね!」


 これまで以上に語勢を強めて言い切った、洪妃のその身体からふうっと力が抜けて、後ろ向きに傾いだ。

 そのまま倒れこむその身体を、洪妃の侍女と給仕役、それに隣席の陸嬪が慌てて受け止める。


 呪縛が解けたように、広間は騒然となった。

 その動きは、大きく分けて三つに分類された。

 「洪妃さま!」「昭華さま!」と、声を上げて腰を浮かせる者たち。

 眉をしかめて目配せしあい、近場の嬪やそれぞれの侍女と何事かささやきあう者たち。

 そして我関せずと茶を傾ける者たち。


 ささやきあう者たちからは「もしかして茶酔いでは?」「やはり茶など飲みつけてなかったのでは」なんていう声が漏れてくる。そんなこと言ってる場合か。いや、漏れさせているのかもしれない。自分たちではない、ささやきあわないほかの人間に対して。

 そう天香はいぶかしむ。

 腰を浮かせたのが洪妃派、ささやきあっているのが李妃派、そして注目しつつも反応を示さないのが中立派……と言う所、だろうか。

 天香はすばやく広間を見回す。

 ささやきあう者たちの中に徐嬪を、我関せずという迦鈴を、どうすればいいのかわからないような様子の陳嬪を見る。そして、困ったように扇を広げる劉嬪も。


 袖口を引く感覚に目を向ければ、麗瑛がこちらを見上げていた。その目配せに含まれた意味を、天香は漏れなく間違いなく読み取って口を開く。


「お静かに! 他の皆さまはそのままで! 洪妃さまはわれわれが別室にお連れ致します!」



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