三十九、 茶会 ~徐嬪~
「その者が何か粗相を致しましたでしょうか」
天香に突然声をかけられた徐嬪は、びくりと身体を震わせて振り返った。
「な、なんです、あなたは!」
「そちらの光絢の上役でございます。何か失礼があったならば――」
「いえ、別にそのような、失礼とか言うことはないのですけれど……」
そう言いながら目を泳がせて口ごもる。
が、突然何かに気づいたような顔になると、彼女は天香に向き直った。
「光絢の上役ということは、貴女も蓮泉殿の侍女なのでしょう? なら、あなたでもいい、いえ、あなたにも頼みたいことがあるのです」
「はあ?」
思わず気の抜けた言葉を返してしまう天香。
非礼と咎められても否定できない反応に、しかし徐嬪は気にした様子もなく――むしろ彼女にとってはもっと重要なことに気を取られているようで、まわりを二三度と見回す。天香のような乱入者を警戒しているようだった。
こちらに注意を払うような人の気配がないのを確かめると、彼女はわざとらしく声を落として言う。
「『蓮泉殿の御方』です。わたくしが懇意にして頂いているある方はそのことをいたく気にされておいでなのです。わたくしはその方のために、蓮泉殿の御方のことを知りた――」
「お引取りください」
最後まで言葉を聴かず、そこまで話を継がせるつもりもなく、天香は一言で切り捨てた。
自分のことだから、話せるようなことがないから、ではない。
いやもちろんそれもある。それに、嬪が自分で動くのかという困惑もある。
光絢が困るのも当然だ。
けれどそれ以上に天香は、珍しく自覚的に、この目の前の徐嬪に腹を立てていた。
伝手を頼って情報を得ようとした、それはいい。その伝手として光絢を使おうとしたのもまだ許せる。知人の情に訴えるくらいならその範囲に入れてあげる。
けれど、同じことをいまここで初めて対面したような侍女に求めたのは間違いだ。大間違いだ。
蓮泉殿の御方――つまりまぎれもなく自分自身のことだが、その正体も関係も、麗瑛の気遣いによって秘せられている。それは天香自身が胸を張って麗瑛の隣に立つため。その態勢を整えるため。
蓮泉殿に関わる、光絢も含めた侍女たちがそれに従っているのは、ひとえに麗瑛への忠誠心のなせる業だと天香はそう理解している。……いや、光絢に関しては麗瑛の脅迫(?)と天香への思慕ゆえのほうが強いのかもしれないけれど。
知らずとはいえ、そんな麗瑛の気遣いを、そしてその麗瑛に向ける自分たちの心を甘く見られた。
それが天香には腹立たしかった。
徐嬪の後ろに誰がついているのかは知らない。二妃のどちらかかと思ったが、それとも後宮の外の誰かなのかもしれない。けれどそんな『誰か』の存在を仄めかしたところで、損得を匂わせたところで、自分たちが、公主直属の侍女が、その公主の伏せた秘密を明かすと思っているのか。そちらになびくと思っているのか。
見くびらないでほしい。
「なぜ? 悪いようにはしないわ。貴女たちの名前も言い添えてあげます。そうすれば貴女たちにも良いことがあるでしょう。そしてわたくしも――」
「徐嬪さまのお立場はあいにく分かりかねますが、こちらにも公主殿下の侍女としての立場と自負がございます。どうかお引取りください」
「じっ、侍女の分際で――」
「どう仰られようと、こちらの返事は変わりません」
先ほどまでの柔らかな、少なくともそう装おうとする言葉遣いから一転して、徐嬪は目つきも険しく天香を睨んだ。天香もそれを見つめ返す。膝が震えた。けれどその目は外さない。
すげなく断られて気分を害するほど本気で、甘言で釣れば従うと思っていたのか。
言葉よりも見込みのほうが甘いのじゃないのか。
そんな腹立ちを込めないで、視線をただそのまま返す。
やがて自分から目線を外して、徐嬪は天香の脇を抜けて広間のほうへと戻っていった。
その姿が見えなくなったところで、天香はその場に膝を突くことを自分に許した。慌てたように光絢がそれに寄り添う。
「お姉さま!?」
「だ、大丈夫、大丈夫。ちょっと疲れただけだから。ちょっと休憩したら戻るから、その旨を瑛さ……殿下に――」
気が抜けて抜けすぎて、二人きりのときだけ使う呼び方が出てしまい即座に言い直した。
あの、お姉さま、と光絢が切り出す。
「助けていただいてありがとうございました」
「え? ああ、そうね……あなたなら、あの程度の甘言になんて惑わされなかったと思うけれどつい、ね」
「いえ! お助けくださって、光絢はうれしかったです」
「殿下にもこの一件は申し上げるから、あなたにもお褒めの言葉でも……」
何があったか教えろと言われているのだから正直に話すことになる。言われていなくてもそうしただろう。ただのお褒めの言葉じゃない何かのほうがいいと光絢が言うのなら麗瑛にそう伝えよう。
そう天香は思って、そこで光絢が何か言いたげな顔をしているのに気づく。
問いかけると、光絢は顔に朱を走らせて。
「どうしたの?」
「それならお姉さま――ご褒美をください」
やっぱりお言葉よりご褒美のほうがいいのか。でもわたしとか言われても困るな。殿下ならお菓子か何かで納得させてくれるかな。そんなことを天香は思って。
「じゃあそう殿下に――」
言ってから、と突き放そうと、いや先送りしようとした。
けれども。
「違います! 殿下に褒められたいんじゃなくて、わたしは、お姉さまに褒められたいんです」
「そう言われても、ええと」
ご褒美にあげられそうな物は何も持っていない。もちろん茶菓など持ち出してきてはいない。
どうすればいいのかと思いをめぐらせていると、目の前の光絢の顔がしゅんとなる。
犬か、君は。
仮にも自分を慕ってくれている相手にあんまりなことを思って、天香は自分で打ち消す。
まあでも、犬なら――。
ぽん、と頭に手を伸ばして、そこを撫でてやる。
二度、三度。
滑らかな髪の手触りが天香の手のひらをくすぐる。
「よくやったわ光絢。今は何も持ってないから、これくらいしか出来ないけど」
「十分です!」
うれしそうに表情を崩して光絢はそう言って、軽い足取りで広間に向かった。
なんだかんだあっても、言われたことは忘れていなかったらしい。
ふうと一つ息をついて、天香は足を崩した。
十分とか言っていたけれど、本当にあれでよかったのか迷う。犬じゃないんだからもっとこう、何か……と考えても答えは出ない。喜んでいたように見えたし、まあいいかとも思う。
(そう思うのも残酷、かなあ)
光絢のことだ。
自分は麗瑛と離れるつもりはない。光絢のことは好きだ。しかし麗瑛以外をそういう意味で好きになるつもりはない。
妻妾同衾だなんて麗瑛は言っていたけれど、それは天香を信頼した上で冗談めかして言っただけだとわかっている。そんな笑い話に出来るくらいには信頼があると自覚できるのが心地いい。
それならそれで、光絢にははっきりと自分の意思を伝えるべきなのだと、頭ではわかっている。
わかっているのに行動に移せない。
嫌なのだ。光絢の涙を見るのが。
その失望した顔を見るのが。
現にさっきだって、それに絆されてつい頭を撫でたりしてしまった。そしてそれを『喜んでたからまあいいか』なんて思って納得しようとしてしまう、そんな自分にもやもやとした感情を覚えている。
どうやら好かれているらしいと自覚してから、ことあるごとに考えていまだに答えが出ない。
ため息を一つして東徽苑の池を眺める。水面を渡る風がそっと肌を撫でて衣を揺らした。
天香は頭をぶんぶんと大きく振った。
今は悩んでる時間じゃない。そのために麗瑛の側を離れたわけではない。
さあて、と声を一つ出して広間へと向かう。さすがにそろそろ麗瑛も待ちくたびれているだろう。お茶もお代わりがいるだろうし。いちおう英彩さんには後を頼んできたけれど、直属の給仕役が長いこと離れているのもよくはないはずだ。
そう思いながら広間に入ろうとすると、給仕役の一人に声をかけられた。
「あ、天咲。牛酪はないかしら。乳でもいいというのだけど」
「牛酪、ですか? 何のために?」
「劉嬪さまがご所望なの。司厨にあるかしら」
「どうでしょう、あるかもしれませんけど……どれくらい入り用なのでしょう。すぐ必要なのですか?」
司厨まで往復するとなると少し時間が要る。あちらにもこちらにも事情を説明しなければいけないだろう。
「聞いてくるわ」
きびすを返そうとする彼女を天香は呼び止める。給仕役の彼女の手に茶杯と茶盆があるのを見たからだ。
「わたしが行きますから。お茶のお代わりを作ってきてください」
「……頼んでもいいの? ごめんなさい、殿下のお世話もあるのに」
「いえ、許可は頂いてますから」
正確にはちょっと違うが席を外す許可は得ているし、あとでちゃんと説明すれば大丈夫だろう。おそらく。たぶん。
とにかく、天香は劉嬪の席に向かうことにした。




