三十三、 強引
突然くちびるを奪われて、天香は目を見開いた。
驚きに体が硬直する。けれど唇を重ねているうちに、その驚きが他のものに押しのけられていくのを感じた。
振りほどこうと思えば振りほどけないことはなかった。
天香のほうがやや上背があるし、それでなくても単純な力比べなら麗瑛に負けるとは思わない。
けれどそうしなかった。
しようとは思わなかった。
どこかで安堵する部分があったから。
光絢の告白に、自分は何か答えを返さなくてはいけなかった。
もちろん首を縦に振ることはない。天香はもう麗瑛と契りを交わしている。他の誰かをそこに据えるなんて考えられない。
でもどう言えばいいのか、どう伝えればいいのか、そこで天香は凍り付いてしまった。
麗瑛のくちづけが来たのはそのときだ。
安堵する以上に望んでいたのかもしれない。もちろん強引に唇を奪われることをではなくて、麗瑛が何かしら助けてくれることを。
自分で言わなければいけなかった。形にするべきだった。
けれどもそうすることができないまま、実質的に麗瑛の行為に甘えてしまったことに、チクリと天香の胸のどこかが痛んだ。
後頭部に巻きついていた麗瑛の右手が、そこから離れて移動するのを感じる。首筋から頬、顎を撫でるように辿り、さらに下に向かい。
その白魚のような指が天香の襦裙の胸元をかき分けるように動いて。――ってちょっと待って前言撤回、殿下人前で何をなさろうと。さすがの天香もそう異議を唱え、
「殿下、あのっむぐ」
――ようとした。
失敗した。
天香が離そうとしたその口を、更に追いかけて吸い付くように唇を合わせる。その口付けというより口吸いは、いつもよりも熱い息で満たされているような、そんな気がした。
必死に押し留めようと試みる天香の堤は、しかしさほどもたずに決壊してしまって、そこからはしばらく押し流されるままに流された。留めようとする歯のおもてをちろりと這い、襦の胸元から押し入った麗瑛の指が内衣の上からその周辺を荒らしまわる。しだいに頭の中に霧がかかったように考えがまとまらなくなる。かくりと力が抜けそうになる膝をなんとか叱咤する。
「っ、く――ッ、うぇ、ふう、む――う、ぷぁ」
暴風雨のように荒れ狂ったのち、公主殿下は満足したように唇を離した。唐突に解放されて、天香は荒く二、三度息を吐く。
唇は離したが身は離すことなく、対面の椅子で一連の様子を見ていた光絢に、その顔だけを向けて言った。
「実はもう、わたしのものなの。お兄さまもご承知のことよ」
その言葉を言った側と言われた側、双方の表情を天香は見られない。位置的にだけでなく、気持ちの面でも。
腰に回された麗瑛の左腕がわずかに緩んだところで膝がすとんと落ちて、天香は麗瑛の下半身、その絹の裙の裾にしなだれかかるように体を崩した。
顔が火照っているのを感じる。息はまだ少し荒い。暴虐の余波で帯がわずかに緩んでいる。身をよじったせいで背子も半ばまでずり落ちている。内衣を留めている紐を解かれたらそれこそあられもない姿になっているところだった。さすがにそこまではしないだけの理性が残っていた、のだと信じたい。
襦裙の前をかき合わせて麗瑛のほうを睨んだ。そのつもりだったが、目に力が入らない。目を吊り上げる気力にならない。呆けている、と言うほうが近いかもしれない。
もうお嫁にいけない。いやもう嫁だった。天香は混乱している。
衆人環視(といっても三人だけど)の中で妻に蹂躙された嫁としてどういう反応をすればいいのか。必死に思い出そうとしてもそんな前例は知る限りにはない。
立ち上がって寝室に駆け込んでしまいたい。いや光絢の反応も気になるからここにいたい。
相反する欲求を抱えたまま手をついた床は、頭の余熱を取ってくれるようにひんやりとしていた。
そう長くは呆けていなくてもよかった。というより、天香にとっては長かったように感じただけで、実際には天香が崩れてから光絢が言葉を発するまでにはそんなに時間は経っていないのかもしれなかった。
「――です」
「え?」
ややあってから光絢が開いたその口から出た言葉を聞き取れずに、天香は聞き返した。
「殿下はひどいです! お姉さま、泣いているじゃありませんか!」
言われて初めて、天香は自分の目の端に涙が浮かんでいるのを自覚する。
泣いたと言うよりびっくりしたのと苦しくなって涙が出ただけで、こぼれるほど大泣きしたわけではない。だから麗瑛に泣かされたなんて思っていもいない。
「ひどい? わたしが?」
面白いことを聞いた、というように麗瑛は口元に手をやって聞き返した。
「天香のこの姿を見たって色っぽいだけじゃないの」
「どこがですか!」
その意見には賛成したい。この一連で初めて胸中で光絢に声援を送ってしまう。
「ああそうだ、こう言えばいいんだったわ。――わからないなら、五年経って出直して来なさい、小娘」
「わたしはもうすぐ十五です! 大人です!」
「大人だって言うのなら、あなたも口付けてみればどう? したいのでしょう?」
反駁する光絢に麗瑛が言い放ったその一言に、たまらず天香は声を上げる。
「殿下、何を!?」
「そっ、それとこれとは話が違います!」
「何が違うの?さっきあなたが言っていたことでしょう。それともあれは嘘?」
「嘘じゃなくってっ! わ、私は、こんな人前ではっ」
「――あ、そう。ならいいわ」
一転、顔を赤らめてしどろもどろになる光絢を突き放すように麗瑛は言い。
ぐっ、と言葉に詰まって光絢は、しかし顔を伏せることなく麗瑛を見返した。
「でもねえ? 知られてしまったからにはこのまま帰すわけには行かないわよねえ」
お芝居の悪役のような言葉をお芝居の悪役のような大仰な振りをつけて麗瑛はまた続ける。いつそんなものを覚えたんだろう、なんて天香は調子の外れたことを思いながらも、その真意がわからなくて、思わず口を挟んだ。
「殿下、光絢に何かをなさるおつもりですか? というか、そもそも知られたからにはって、今ご自分からばらしに行きましたよね!?」
「天香少し黙ってなさいな。回復してきたのはわかりましたから」
「殿下ぁ」
「悪いようにはしないわ」
そうけろりと言われても、ついさっき弄ばれたばかりなのだけど。
天香のそんな思いをよそに麗瑛は言葉を続ける。
「それで、光絢? 今も言ったけれど、わたしと天香のことはまだしばらくはおおっぴらにはしないつもりなの。このまま帰すわけにはいかないといったのはそういう意味」
「……わたしに、何かさせようと仰るのでしょうか」
赤みは幾分引いている。光絢はその顔のまま目をそらさない。
「話が早くて助かるわね。――あなた、天香の下について働きなさい」
「「――はい?」」
天香と光絢の言葉が重なった。




