三十二、 告白
「あの殿下? 何か勘違いなさっていらっしゃ――」
「ところであなた、郡守の娘と言ったわね? それがなぜ下女勤めを? 郡主の娘なら女官にもなれるでしょう」
勘違いを正そうと割って入ろうとした天香をさらに遮って、麗瑛が光絢に問いかけた。
天香が一時身を置いていた尚宮やそのときに関わった尚寝、また服飾の一切を手がける尚服といった、主に後宮殿舎の中で働く殿上女官――単に女官と呼ぶ場合はこちらを指す――に対し、殿舎の外側、といっても壁や屋根を担当すると言う意味ではなく、殿の外に独立した舎を仕事場として持つのが殿下女官だ。これが通称で下女と呼ばれる。下という字こそつくが世間(後宮の外と言う意味の)での用法とは違い、絶対的な身分の上下と言う意味ではなく単に後宮の中での区分だ。下女は庭園を管理する司花、洗衣を管轄する司洗、小物の製作や殿舎の小修繕を行う司工、そして調理配膳や食材管理の司厨の四部門に分かれる。
女官はその出身の身分を問わない、ということになっている。とはいえ例えば貴族の娘が体を動かす仕事の多い下女になることはない。また日々の仕事の関係上文字を読めなければ就けない部署、例えば尚宮がそうで、当然そこにはそういう娘は配されない。身分の上下を意味する言葉ではないが、そういう意味で区分けはされてしまう。
一方、琳国に十三ある州のひとつひとつをさらに細分したのが郡であり、その下にいくつもの県や郷里を束ねるのが郡守――郡の行政府の長だ。貴族でこそないが試験や経験を重ねて就くそれなりの地位である。その娘である光絢が女官になるならば下女でなくてもいい。
説明が長くなったが、今の下問はそういう意味の疑問だ。
正直に言えば天香も同じ気持ちだった。
ただそれよりも今は麗瑛の誤解を解きたい。そっちのほうを最優先に解決したい。とはいえその質問に答えるよりも前に割って入るのは礼を失しているからそれはできない。答えを待つしかない。
「はじめは、公主院に入るつもりで鷲京に参りました。けれど、その――」
そこで光絢は言い淀んで、ちらちらと天香に視線を送る。天香は首を傾げる。
言いにくい事情があるのなら無理して言わなくてもいいのでは、そう言おうかと思ったとき、光絢が決心したように口を開いた。
「お姉さまがいらっしゃらないと知ったので、公主院に行くのはやめました」
「わ、私?」
「ええ。お姉さまのいない公主院にわざわざ入ったってつまらないですもの」
「そういう場所では、ないと思うのだけど……」
言い淀んだのはなんだったのかと思うほどしれっと言い放つ光絢。
公主院とは自立した人間かつ女人として必要な知識を学び技術を習得する場であって、誰かを――たとえそれが自分であっても――追いかけて入るような場ではない。そう天香は思う。自分自身はといえばそうやって学び覚えることは純粋に楽しかった。現状はそれとは少し異なったこんな状況になっているけれど、その経験が無駄になっているとは思わない。思えない。
天香はそこで思い当たる。
「まさか、私が後宮にいると聞いて自分も後宮に……?」
「はい、そうです!」
犬だったら尻尾をぶんぶん振りそうな勢いで目を輝かせる。
「って、誰に聞いたの、私が後宮にいるなんて」
「? お姉さまのお父さまですけど。鷲京に着いて、ご挨拶に伺ったときに教えていただきました」
「あの阿呆父……」
父を責めても始まらない。それでもつい恨み言が口に出る。
単に『後宮に行った』と聞けば女官勤めかと思うのは皆同じものらしい。まさに友人たち、尚蓮や玉晶に勘違いされたように。後宮妃嬪として入ったのだと思われないのはさて、安心するべきなのか少しは怒って見せるべきなのか、天香にはなかなか判断がつかない。
「それで、後宮勤めをしたいと尤州の父に言ったのです。そうしたら、その――」
「お父上はなんと?」
「ええ、その『お前のような我儘娘は下女になって叩き直してもらえ』、と手紙が、紹介状付きで……」
少し恥ずかしげに光絢が言ったその答えを聞いて、麗瑛はこらえきれなくなったように澄んだ笑い声を上げた。
「良いお父さまね。そう思わない、天香?」
「あ、ええ、そうです……ね」
そう返してはみたものの、天香の頭の中はなるほどそういう事情で下女勤めをしていたのかという納得と、知らずとはいえその発端に自分がなっていた事に対する戸惑いと、それほどに懐かれていたことへのほのかな嬉しさと、麗瑛の思い違いを正す材料になるかなという思索でない交ぜになって一杯になってしまっている。
結果、麗瑛にその次の言葉を先んじられてしまった。
笑いを納めた麗瑛は、それまでより少し固く低い声音で切り出した。
「――そう、そこまでして天香に会いたかったわけ。貴女、本当に天香のことを想っているのね」
「はい、お姉さまのことはお慕い申しあげています」
「ふうん。そのお慕いというのはそうね――例えば、くちづけを交したい、とか?」
「殿下だから光絢の言ってるのはそういうのではなくてですね」
「……いずれは」
「ほら光絢だってこう言って……えええ!?」
ガタリ、と長椅子がずれるような勢いで立ち上がってしまって。
目を何度も瞬かせる。何か言わなければと思う。言葉が出てこない。
その様子を見た麗瑛が、言葉だけは楽しげに、その実は半眼になって天香を視線で突き刺しながら言う。
「――ですってよ天香? 困ったわね」
「いやっ、だって、あの、あなたそんな、今まで一度も」
「お姉さまを困らせてはいけないと思って言わずに来ました。けれど今日偶然にもお会いできたのは、これも何かのさだめです。絶対に」
一度言葉を切って身を向き直らせて、まっすぐに天香の眼を射抜くように見上げ見据えて、まるでこの空間に他に誰もいないように。端然と座す麗瑛もその後ろに控える英彩も茶卓の脇に立つ則耀も見えていないかのように。
光絢は言う。
「お慕いしていますお姉さま。念押ししておきますけど、くちづけをしたいくらいに、です」
「あっ、あの、ええと、あう……」
突然の告白に、頭が真っ白になるというのはこういうことだろうか。懐いてくれているだけだと思っていた光絢がまさかそんなという衝撃に。いやもちろんこの場で麗瑛の目の前で断らなくてはいけないのはわかっている。わかっているのだけれど、強く突き放すような言葉は使いたくない。使えない。目の前の少女が溢れ出させた自分への想いを、そういう言葉で消し去って折り砕いてしまえるほど鈍磨ではない。そんな思考が絡まって舌を縛り付けたように動かせない。
「天香、こちらに来なさい」
「え? いや、でも」
「いいから」
凍りついてしまった思考のまま、自分にかけられた麗瑛の言葉に応じて、天香はふらふらと彼女の元に歩み寄る。
天香のその歩みが止まるか止まらないかのところで麗瑛は滑らかに立ち上がると、左腕で天香の腰を抱えるように引き寄せて、その身をすっと伸ばして天香の頭に右手を回して。
一瞬前にようやく理解が追いついて、天香が発しようとしたその言葉ごと、その口は麗瑛によって塞がれた。
三人の見ている前で。
「殿っ――」
 




