二十九、 売り込む方々 下
注意:女っ気がありません
時間は若干戻り、天香が蓮泉殿で呆然と立ち尽くしていたそのころ。
その義兄は、彼が宮廷の中でもっとも信頼を置くしかめ面と向かい合っていた。
場所は帝と臣下が日々朝議を行う朝堂の廊下である。本来ならば同じ建物の中の執務室か大朝堂の玉座に行くべきだが、この帝はそういうところに無頓着だった。
宰相・絡月勝は主君に恭しく礼をすると、いつもどおり余計な挨拶をすっ飛ばして本題に入る。
「――今朝の朝議ですが、茅州の水害についての報告、欠伸を噛み殺して聞いておられましたね」
「いっ、いや、その、つい……」
「出てしまったものは致し方ありませんが、せめて扇を使うなどしてお隠しください。陛下はすべて顔に出過ぎます。臣下のやる気に関わりますので」
「し、しかし、あー、あれは報告が長すぎるのが悪いと思うんだ!」
「それは同感ですな。あの者の報告、いささか冗長に過ぎ、また情が入り込みすぎておりました。もっと要点をまとめた報告をせよと陛下が仰せであったと――」
「おい、余の言葉まで伝えんでいい」
「冗談です」
顔色一つ変えずに月勝はそう言った。青元はため息混じりに返す。
「冗談に聞こえんぞ」
「そう申されましてもこれが性分です。国政の報告においては情を排除し、重点のみに絞って話すよう指導いたします。よろしいですか」
「任せる。……それで、まさかそれだけではないだろうな、宰相」
居眠りを見つけた教師の小言のようなことを言うためだけに、この宰相が自分を待ち構えていたはずがない。それをわかっているからこそ青元も訊ねる。
「涼亭をお造りになられるとか」
「耳が早いな。それがどうかしたか? 文句か? たまには妹のわがままくらい聞いたっていいだろう? 瑛が余を頼ってくれることなどそうはないぞ」
弁解というよりもむしろ自慢げにそう言う。そんな様子を月勝は冷めた目で見やる。
妹馬鹿ぶりは昔から変わらない。それこそ月勝が初めて青元と出会ったころからだ。
それこそ妹馬鹿が過ぎて国の頂に立ってしまうほどなのだから。
「それに、工部工人の練度維持のために工事が必要だと言ったのはお前だろう、月勝?」
「確かに臣はそう申し上げました。しかしあまり目に付くような動きは一部からの突き上げが厳しゅうなる恐れがございます故」
「言わせておけ。それに、無駄にしなければよいことだろう」
「名案がお有りで」
「一応な」
青元の言葉に月勝がさようでございますか、と応じようとしたところに声がかけられた。
「これはこれは陛下に宰相閣下。こちらにおいででしたか」
野太いその声の主を同時に視界に納めて、ふたりの主従はともにわずかに眉をひそめた。それはその場に割って入ったその男を快く思わない心の現れだった。もちろん、それを当の相手には悟らせるようなことはしない。その程度のわずかな、しかし二人で息を合わせるわけでもなく一致した表情の変化だ。
言葉を挟んだ男の名を李恒念という。左大臣である。ちなみに左大臣は文官の長に位置し、対する武官の長を右将軍という。そしてその両者をまとめて差配するのが宰相、つまり月勝の務めである。
恒念は厚い肉付きの身体に、どこか散漫とした、はっきり言えば肉をもっと落とせばそれなりに整っていると見えなくもない造作の持ち主である。しかし髪も衣も綺麗に整えてあり不潔感はなく、その衣もまたたっぷりと余裕を持たせた上質の生地をふんだんに使っている。
そのせいで、背丈は同程度ながら痩身の月勝の隣に立つとますます豊満に見えた。
「何用か、左大臣?」
「は、少し耳に挟んだことがございまして」
「それは今でなくてはならぬことですかな、恒念どの」
月勝の言葉遣いはていねいで、恒念へ最低限の礼儀を払っているように見える。地位では左大臣の上に位置する宰相だが、それ以外では年齢も出仕してきた期間も家の家格でも恒念のほうが上だ。
――というのは建前で、実のところは慇懃無礼に類されるものである。
しかしそれは相手――左大臣も同じようなものだった。
「いえいえ宰相閣下。しかし事は宰相閣下には関わりようのないことゆえ、お気遣いいただかずともようございます」
「関わりようのないとは異なことを申されますな。では私こそここから退いたほうがよろしいかな」
「そこまでは申しておりませんが、宰相閣下もご多忙の折引き止めるのも――」
「二人とも、そこまでだ。いつまで経っても終わらんだろう。――で、話はなんだ、大臣」
すこしうんざりしたように青元が話を止めさせ、宰相と左大臣はそれぞれに礼をして帝に謝した。
「は、後宮では公主殿下が茶会を開かれると聞きまして」
「ほう? 耳が早いな。李妃がそなたに教えたか?」
「は。娘がお側に仕えていると、まあその、色々と耳に入ってきますもので」
ちらり、と視線を月勝のがわに送る。月勝はそれを見事に受け流した。
娘を通じて後宮内の情報を得たというのは、要するに月勝に対する嫌味だった。単なる優越感の発露かもしれない。月勝にも娘がいたが、彼は娘を後宮に入れていない。そんなものに乗ってやるような真似もいちいちしないが。
「で、公主の茶会がどうした? 参加したいなどとは言い出すまいな」
例え父親であってもさすがにそれは許可できる範囲を超えている。もちろん冗談だ。
「お戯れを。ここからが本題にございますが――そのお役目、我が娘に任せてはいただけないものでしょうか」
「……ほう」
間を空けて青元は答える。
考えをめぐらせているように見せているが、その内心は苛立ちを押し隠している。
「我が妹の茶会で、その妹を押しのけてそなたの娘を饗応役に任ぜよ、と言うか」
「め、滅相もございませぬ。押しのけようなどとは恐れ多い。補佐、そう、補佐にございます。自慢ではありませぬが、我が娘にはそれにふさわしいだけの最高の教養と教育を与えたと自負いたしております。茶会の補佐など、公主殿下のお手を一切煩わせることなくやり遂げましょう」
隠さない叱責の色を含んだ青元の言葉に、左大臣は思わずひざまずき拱手し這いつくばるほど頭を垂れ、一息にそう言い切った。
公主主催の茶会の差配を公主に代わって任されれば、それだけ信頼を得ている証拠と周囲の妃嬪に思わせることになる。そしてそれだけ正妃の座も近づく。事実がどうであれ少なくとも周囲はそう取るだろう。
大きく出たな、と月勝は思う。
正妃にしろ、とまではさすがに言わない。その前の段階としてまず信頼を得ることだと、一歩ずつ地固めに入ろうとしている。その動きに出たこと自体、これまでの恒念よりも一歩も二歩も歩み出している。彼の言うとおり見事にやり遂げれば実際に信頼も得られるだろう。他の妃嬪に対する牽制にもなるだろう。
その李妃にしても父親の言葉通り、身びいきを差し引いても教養も礼節も身についた女性である。正妃うんぬんの話を別にすれば、補佐という名の実質的な差配役を任せるにはその面でも後宮での地位でもふさわしくないということはない。
そのはずだ。
これまでであればそうだった。
しかし今は違う。
公主の信頼(と寵愛)が篤く、少なくともあの女官長が部下に加えても良いと評価する、そんな人間が今まさに差配の準備をしていることをこの男は知らない。
「なるほど、そなたの心はわかった」
「おお、それでは」
左大臣は顔を輝かせるが、それは次の一言で一瞬で消える。
「だがな、今回の茶会の件は公主が望んだこと。余からあれをやれこれをやれと命じたわけではないし命じるつもりもない。どうしても李妃を補佐役とさせたいならその旨、我が妹に文のひとつでも出すがよい」
直接的な言葉は使わないが、それは拒絶の言葉だった。
さらに青元は付け加える。
「だがあれは気が強くてな、そなたが甘言を積んでも首を縦に振るとは思えんぞ」
左大臣をどうにか引き下がらせたあと。
「どう思う」
「どう、とは」
「左大臣のことだ」
「恐れながら、あの御方をあの地位に据えたのは陛下でございましょう」
事実である。
李恒念は青元の即位を支持した代わりに左大臣の位を得た。日和見を決め込む貴族たちのうち影響力の比較的大きかった李恒念が後ろ盾についたことで、青元の即位は大きく進んだ。そのことは事実だ。
しかし青元も月勝もこの男に必要以上の褒賞や地位を与えるつもりはなかった。むしろ青元からすれば、李恒念を左大臣につけたことで、かえって腹心中の腹心である月勝を宰相に据えられた。それだけでも釣りが来ると思っている。
彼の娘、李妃こと李香陽を後宮に迎え、更にそれとつり合いを取るために軍部の有力支持者である洪将軍の娘、洪妃こと洪昭華も後宮に迎えた。こちらは洪将軍に軍権を執らせないことの引き換えだった。
だから青元の中ではその二人など、飾らずに言ってしまえば釣り銭と同じような扱いなのだ。だから、どちらも正妃とするつもりもなければことさらに丁重に扱う気もない。情を移すなどそれ以前の話だった。麗瑛や天香にもそこまで明かすつもりはない。月勝にも明言はしていないが、彼には見透かされている節がある。
「なんなら、お前の娘も後宮に入れてあやつらとつり合いを取るか?」
「ご冗談を陛下。まともな親ならば、情念乱れ渦巻くあのような場所に愛娘を送り込みたいなどとは申しません。御免被ります」
実際には自家かあるいは自分と繋がりのある娘を後宮に入れあわよくば、というそんな親や親戚は引きも切らない。が、そういう人間は月勝にとっては『まとも』ではない。その姿勢自体は、しかし宰相という朝廷の高官である彼の立場を考えれば逆に珍しい。
「乱れてなどいないぞ」
「それはこれまでが乱れていなかっただけのこと。正妃争いがいよいよ始まったとなればこの先はわかりませぬ」
「……仮にも俺の後宮だぞ。乱れるなどと断言してくれるなよ」
冷静な態度を崩さない宰相と言葉を交わすうち、青元の一人称が俺に戻ってしまっている。
月勝もそれに気づいたがあえて触れない。今や帝となったこの青年が昔と同じように話せる人間など、すでに数えるほどしかいない。彼自身、自分がその一員であることを快く思っていないわけではない。
代わりに、彼はちくりと一言。
「それに、我が娘はまだ十四の生辰日も迎えておりません。後宮に入れるのは十七以上に限ると言ったのは陛下でございましょう」
うぐ、と青元は言葉に詰まる。
その言葉は、厳密には正しくはない。だがそれを言っても意味はない。月勝もそういう意味で言ったのではないと青元はわかっている。
後宮を構えなければならないとなったとき、廷臣に見せられた候補者の清単を見て彼は確かにそんなことを口にした。正しくはこうだ。
「瑛と同じかそれより下のような童女に手が出せるか」
あまりにも幼い、さすがに一桁はいなかったが、そんな子供と呼んでいい歳の娘でさえ清単に載せられていたことを非難するつもりで言った言葉を、廷臣たちは別の意味に解釈した。
当時の麗瑛は生辰日を前にした十六歳。つまり青元はそれよりも年上の妃嬪を望んでいる、と彼らは受け取ったのだった。
そのときから、青元の後宮に入る妃嬪の年齢の下限は十七歳、という不文律が出来てしまった。本人の意思とは全く無関係に。
本意ではなかったとはいえ、自分がその事態を招いた言葉を皮肉られ、青元は軽くため息をついた。
上手く切れる場所がなかったので長めになりました……。
青元さんの後宮に年齢制限があることのネタばらし。という名の説明回。
 




