三、 蓮泉殿にて
「このままじゃ、ダメになっちゃう」
天香は一人つぶやいた。
蓮泉殿に入ってから数日が過ぎている。
その間麗瑛はあれこれと天香の世話を焼き、一時はほとんど雛鳥に餌を与える親鳥のようになっていた。
もちろん天香も麗瑛の世話をしたいのだが、なぜかその都度押しとどめられてしまうのだ
「自分が世話をする側になってみたかったんだろう。満足するまでさせておけ」
とは麗瑛の兄の、いまや天香の義兄でもあるところの国帝陛下のお言葉だったが、それだけでは納得できないのも事実だった。
と言いつつ、では何かすることがあるのかといえば、正直あまりない。
そもそも後宮の妃嬪――天香は妃嬪というわけではないが――に日々片付けなければならない仕事があるわけではない。では何をしているのかと侍女や女官長の丁夫人に尋ねれば、他の妃嬪や侍女と会話したり、あるいは国帝の渡りを待って我が身を磨いたり、あるいは庭園を散策したり、または舞踊や演劇を楽しんだりもするらしい。少数ながらわざわざ贔屓の楽団を呼ぶ妃嬪すらいるという。
「意外と出入り自由なのですね」
「あなただって結構自由に出入りしてたじゃない?」
「わ、私はほとんどは殿下と一緒でしたから……」
もちろんそういった楽団・劇団の類は事前に許可を得ている上、録明門を通るときに厳格に検査されている。また入れる区画も制限されており、そこ以外に立ち入ろうものなら即捕縛、先々帝の時代には悪質と判断され出入り禁止どころか追放になった例もあるという。それ以外に宮廷内には宮妓と呼ばれる歌舞音曲を修めた専門の女たちもいる。彼女たちも後宮でその芸を披露することはあるが、彼女たちは宮廷の他の宴などにも必要とされるので、後宮第一というわけにはいかない。それを不服に思う貴族のお嬢様出身の妃嬪もいるそうだ。
やや話がずれたが、それが先日の会話だった。とは言えやはり何もしないでいいというのは落ち着かない。だから折を見てそういう主張はしていきたい天香だった。
なので今日も。
「あの、英彩……さん」
「呼び捨てでと申し上げていますのに」
呼びかけられた英彩はこの数日ですでにお決まりのようになってしまった返事をした。
そんな事を言ったって天香には年上の人を呼び捨てで呼ぶような習慣はなかったし、数日で慣れて命令できるようになったらそれはそれでどうかとも思ってしまう。
「どうしても慣れなくて……それで、お仕事の件なんですけど」
「丁夫人にはお伝えしますけど、やっぱり難しいんじゃないでしょうか~?」
彼女は蓮泉殿付きの、ということはつまり麗瑛と天香の専属である侍女の一人だった。二十代半ばと思われる柔らかな雰囲気の美人だ。いや雰囲気だけでなく表情も体つきも柔らかい。特に後者の一部分などは自分のそこと比べて。
(……やめよう、空しくなる。それに、殿下は褒めてくださったし?)
麗瑛の評価を全ての基準に置くことには何のためらいもない天香だった。
「英彩、あまり差し出がましい口を利かないように」
「はあい、則耀ちゃん」
「ちゃんって言わないで」
「わっ、私はそんな気にしてませんから、本当に」
「けじめが必要なのです」
「お堅い事言ってるから胸もお堅いままなのよねえ」
「なんか言った!?」
最初に二人の会話を聞いたときはけんかでも始まるのかと思ったが、これが二人の日常なのだとわずか数日で理解できてしまった。これも慣れの一歩だろうか。
そんな則耀もまた侍女の一人だ。英彩とはさまざまな意味で対照的で、共通点といえば年齢がどうやら同い年なことと、後宮に勤めだしたのも同時期なこと、そしてやっぱりこちらも美人ということだ。
「と、とにかく、丁夫人には伝えてください」
「かしこまりました~、白妃様」
「えーと……できればその白妃様って言うのもやめてもらえませんか?」
「では……天香様?」
「あ、白妃様よりはまだそっちのほうが……」
***
「駄目です」
そして丁夫人のお返事。取り付く島もない却下だった。
二人の居室の前の廊下、その日の昼下がりの事である。
「で、でも」
「『公主妃』様にやらせても良いような仕事はございません。あえて言うならば――」
「あえて言うなら?」
「公主殿下のお相手をする事が仕事です」
まあそうなんでしょうね。妃ですからね、私。と内心で天香。でもだがしかし、
「それじゃ今までと変わらないって言うかっ」
「あえて変わらなくてもよろしいのではないでしょうか」
「そう……なんでしょうか?」
ひょっとして今のは励ましか慰めてくれたのだろうか? と天香は思ったが、とにかく丁夫人の顔色は読みにくい。表情が変わらないわけではないのだが、常に動じず淡々と仕事に当たっている。後宮女官の鑑のような姿勢じゃないだろうか。
「ところで、殿下はご在室でしょうか?」
丁夫人の用件はもうひとつあったようだった。
「采嬪様がご挨拶したいとのことですが」
「やっぱり一番に来たのね。予想通りだこと」
丁夫人を部屋に通して話を聞く。則耀がお茶を淹れてくれた。則耀のお茶はとても美味しい。たぶん隠し技とかあるんだと天香は考えている。そのうち聞いてみたい。
采嬪なる人物は天香も知っている。というか後宮の主だった妃嬪の名は一応覚えている。ただし直接会ったことはないので顔は知らない。采嬪こと采 祥雲は舎のひとつ、玉楼舎を与えられている嬪で、当年二十二歳。高級官吏の家の出身だ。
付け加えると嬪とは妃よりも一段格下の女人に与えられる称号だ。本来は他にたくさんの格付があるが、現在の国帝青元の後宮には妃と嬪しかいない。妃は(もちろん公主妃の天香を除いて)二人、嬪は主だったものだけなら両手の指で間に合うくらい……だった、天香が覚えたときはそうだった。歴代の国帝と比べても少ないが、青元自身が即位してからまだ間もないことを理由に、あまり大々的には後宮を整備していないという事情もある。
そんな状況の中で現在後宮にいる妃嬪は、つまりいずれもそれなりの背後関係があるのだ、というのが天香の理解だった。大きく間違ってはいない。現状第一妃と目されているのが左大臣の娘である李妃。もう一人の妃は国軍の副将軍の娘である洪妃。二人とも父親が青元の即位に功があったため、それに報いる意味もあって後宮に入っている。更に、名前が上がった采嬪の実家は大臣派ということで。
「陣取り合戦でもやってるんですか?」
「似たようなものよ」
公主殿下はわりと容赦がない。そんなところも素敵だと天香は思った。口には出さないけど。
それはともかく後宮内での妃同士の対立。背景には実家同士の権力争い――。ありがちといえばありがちな話。今のところ目立った衝突はしていないというのはむしろ意外なくらいだ。帝は若く、さらに今なら競争相手も少ない。今のうちに決定的な戦果を――つまりこの場合は帝の第一王子を産んでしまえば、次代の繁栄は大きく近づく。
しかし当の帝本人は
「焦ることはあるまい。私もまだ若いし妃たちはさらに若い。いずれ子を授かることもあるだろう。はっはっは――なんて言って煙にまいてるわ」
「最後の笑い声は作りましたね?」
「あら、バレたかしら?」
あきらかに不自然すぎた。
まあ、逆に言えばそれ以外は本当なのだろう。
「何かお考えがあるのでしょうか」
「さあ?我が兄ながらよくわからないわね」
麗瑛はそう笑うが、できるだけ平穏に過ごしたい天香としてはわりと重要な問題だ。後宮内に、というかもっと限定して殿下と自分の周囲に余計な波風を立たせない範囲でならどっちが勝ってもいいし、国帝が何人の女を孕ませようと知ったこっちゃない。どちらにも軍配が倒れずに対立が激化して空気が悪くなる一方というのが一番困る。何かの間違いでこっちに飛び火でもしたらどう責任とってくれるんだ、くらいのことまで考えている。
「お断りになりますか」
麗瑛の気分を察したのか、丁夫人がそう言う。
「そうしたいけど、避けてばかりもいられないでしょ。会います。あ、天香はここにいなさい」
「えっ」
「挨拶と言ってはいるけど、実際は天香を見物しに来たのよ」
「そんな珍しい生き物を見るみたいな……」
「同じよ。お兄様がもっと後宮の人数を増やしてくれていれば良かったのだけど」
「たとえ後宮の人数が今の十倍でも見物にしに来たと思いますけどね~」
「同感ですね」
英彩の言葉にまた一言小言を言うかと思えば則耀もそれに同意する。二人の言葉にとげのようなものを感じるのは天香の気のせいだろうか……? あ、丁夫人が頭を押さえてため息を漏らした。
きょろきょろと周りの人々の反応を見回す天香の首に手が回される。
「あなたを見世物にするなんて耐えられないもの」
顔を向ければ予想よりも近いところに麗瑛の顔があった。長いまつ毛が震えている。
「わかりました……」
「行ってくるわ」
言葉とともに唇に軽く唇が触れた。それから頭に優しい感触。ふわりと残り香を漂わせて、麗瑛が則耀を連れて部屋を出て行く。
……頭をなでるのはちょっとなあと思う。子供みたいじゃないか。
しばらくして、則耀のお茶を一気に飲み干すと天香は席を立った。
五殿の中ではあまり大きくない蓮泉殿とはいえ、それでも二人では使いきれない部屋がある。そんな部屋のひとつを来客に応対する場所としてある。
その中で麗瑛は采嬪と向かい合っていた。お互いに長椅子に腰掛け、後ろにはそれぞれの侍女が控えている。
「ご機嫌麗しゅう、公主殿下」
「そちらもね、采嬪様」
麗瑛も礼儀として相手に敬称をつけているが、その声に敬意は薄い。
「残念ですわ。新しい妃嬪の御方にご挨拶をと思いましたのに」
「あいにく、少々体調を崩して寝ているので」
「それはそれは。このあとお見舞いしても?」
「お断りさせていただくわ」
にべもなく却下する。その反応をどう捉えたのか、軽く頭を下げて采嬪は言葉を続ける。
「では、お大事にとお伝えください」
「ええ。それで?それだけの為にお出でになったの? わたしに任された妃嬪を見るためだけに?」
「いけませんか?」
「あまり愉快ではありません」
隣の部屋から通じている、応対部屋の扉に張り付いた天香はその声色に驚く。
子供の頃も、再会した後も、こんなに冷えた声を聞いたことはなかったから。
盗み聞きするためにここまで来たわけではなかった。殿下自身も言っていたじゃないか、「避けてはいられない」と。だから自分も挨拶程度はしなくてはと思ってここまで来たのだ。
なのに、こんな声を聞いては能天気に中に入るような真似はできない。そもそもよく考えたら、と言うかよく考えなくてもそれってそうとう不躾だったのではあるまいか。ふと頭を冷やせばそういう考えに行き当たる。
まあ、頭を冷やす材料が殿下の冷たい声なんて、駄洒落にもならないけども。
しかし中の二人は特に何事でもないように平然と会話している。これが平常とでも言うかのように。いや、平常なのかもしれない。天香がそれを知らなかっただけ。
なんとなく居づらさを感じた天香は、そのままそっと扉を離れた。
気づけば天香は蓮泉殿の入り口近くに立っていた。ふらふらと歩いてここまで来ていたらしい。
そんな天香を見咎めたのか、声をかけたのは英彩だった。
「白、じゃない……天香様? どちらへ~?」
「あ、散歩に行ってきます」
「ではお付きを誰か――」
「いいです! 大丈夫。一回りしてくるだけですから!」
「はあ」
蓮泉殿を出た天香は、さてどうしようと考え込む。
なんといっても後宮に入ってからこちら蓮泉殿の外に出ていない。中庭には下りたのだが。
一応後宮の地理が全くわからないわけではない、が。
(あそこに居たくなくて出てきちゃっただけだしなあ……)
「あれ? あなた、どこの舎の子?」
行くあてもないが立ち止まっていても英彩や他の侍女たちに奇異に思われてしまうのではないか。と、なんとなく歩いていると、急に声をかけられた。そちらに向き直ると、そこには同じような年頃の女官が立っていた。
昨日上げる予定が1日ずれました。
説明が長くなってあまりいちゃいちゃさせられなかった……。
容赦のない軽口は大丈夫でも、上滑りするような会話には免疫がない主人公です。