十六、 迦鈴
翌日、天香は再び秋薫舎に赴いた。
昨日の麗瑛との話で出た疑問――『嫌がらせを受けたと先に訴え出なかったのはなぜか』を尋ねるためだ。
その旨を侍女の一人に伝えて、昨日いた侍女長(仮)に取り次いでもらおうとしたのだが。
「謹慎?」
「ええ、非があちらにあるとはいえ揉めた事は事実、と仰ってね」
応対に出た若い侍女はそう言った。非が~の一節をこれでもかと強調して。
胸を張り気味にして、あまり友好的とはいえない眼差しを天香に向けている。
「困りました。協力していただかないと――」
「昨日説明したんだからもういいでしょ?」
取り付く島もない。それで疑問点が出てきたからこうやって再び聞きに来ているのに。
「確認願いたいだけなのですが……どうしてもだめでしょうか?」
「しつこいわね。自主謹慎させて気が済んだんじゃなくて?」
「気が済むとかそういう話じゃあ――」
謹慎するという判断は侍女長(しつこいようだが仮称だ)の独断であって、天香や尚寝の女官たちがそうさせたわけではないのだが、目の前の侍女は謹慎ということそれ自体が納得いかずに腹を立てているようだ。
そもそも女官側の人間はそれで少しは溜飲が下がるのかもしれないけれど、天香は事件そのものを調べるために動いているのであって、謹慎されてもそんなものに意味はない。むしろこうやって余計な手間がかかるぶん困る。
「では、あなたでもいいです。お時間は取らせませんから」
「わ、わたし? ――何?」
話を聞くだけなら侍女長でなくても、それこそこの若い侍女でもいいのだ。あちらのほうが冷静に話せそうだったから優先しただけで。
言われた若い侍女は意外そうに声を上げ、ぶっきらぼうにたずね返した。
「ええと……こちらの侍女の方々は、尚宮のものたちとの諍いをなぜ私ども尚宮に訴えられなかったのでしょうか?」
「はあ? 知らないわよそんな事。それがなんだって言うの?」
「いえ、そうしていただけていれば、もっと早くこちらも対応できたのですが。――なにか理由があればお聞かせ願えないでしょうか」
「わ、私がそんなこと知るわけないじゃない! それに訴えなんて出したら――」
「……? 出したら?」
そう聞き返すと、なぜか彼女は顔色をさっと変えて言いよどんだ。
「いえ、その、あんたたちが気にすることじゃないわ。……ねえ、仕事あるんだけど、もういいかしら?」
「……ええ、結構でございます」
最後まで木で鼻をくくったような対応のまま天香は追い払われてしまった。
歓迎されていないのは当然にしても、関わり合いになりたくないとすら思われているような気がする。訴えを出すというか、苦情くらい出したっていいと思うのに、それすら拒否しているようなそぶりを見せられては。
そういう折衝のためにも尚宮職がいるのだから、訴えや苦情や要望を出したっていいのだ。事実他の殿舎でもそんなのはいくらもある。
天香がそのまま廊のそばで考えにふけっていると、仕事中の女官の一人に目が留まった。
「えっと、津清、だっけ?」
「あ、どうも」
それは昨日、尚寝の部屋で最初に言葉を交わした少女女官の津清だった。昨日見たときと同じ女官服を、今日は仕事をするためだろう、紐で軽くまとめてある。
天香が声をかけると、彼女もこちらの姿に気づいて軽く頭を下げてきた。
「今日はあなたがこちらの当番?」
「は、はい、手が足りなくて、私も出るようにと……」
「手が足りない……って?」
「昨日こちらで、その、騒ぎを起こしてしまったので――」
「……まさかそっち、じゃなくて――そちらも謹慎?」
「えっ、なんでわかるんですか?」
まあなんとなくね、とかなんとかあいまいな言葉を返す。
いがみ合っているのになぜ互いに対応が同じなのか、と天香はおかしく思う。昨日の言い合いもそうで、お互いに原因を押し付けあう様子は鏡合わせのようで。
おかしいだけなら良いのだけれど、こちらも話を聞くのに余計な手間がかかってしまいそうだ。
「じゃあ、話を聞こうとしたらどこに行けばいいかしら?」
「女官部屋に行けば会えるとは……でも尚寝さまに聞いてみたほうがいいんじゃない、でしょうか……」
「そう。ならあとで魏夫人にも――」
そういいながら、魏夫人も気苦労が多くて大変そうで、天香は少し気の毒に思ってしまう。もちろん三職の長になるまでにはもっとたくさん苦労も気苦労もしてきているだろう。そんな立場でない天香が不憫がるようなことじゃないし、失礼な感想かもしれない。
あとで尚寝にも寄ると言付けて、仕事に戻る津清の姿を見送っていると、背後に誰かの気配を感じた。
間を置かずに、くいくい、と誰かに袖を引っ張られる。
そちらを向いた天香は、少しの間自分の見たものを疑った。そこには小柄な、そして見知った少女がいた。
「……迦鈴?」
「やっぱり、天香だった」
こくりと頷いたその顔は、たしかに迦鈴だった。彼女も玉晶と同じく公主院時代の友人の一人だ。
背の高さは平均か少し高いくらいの天香と比べてもはっきりと小さい。知らぬ人が見れば間違いなく年下だと思うだろう。
それはともかく、天香が目を疑ったのは彼女がここにいるという事実そのものだった。
「ええ? ……なんで後宮にいるの?」
「……だから」
「えっ?」
「嬪だから」
「……は?」
初耳もいいところだった。
麗瑛に嫁入る前に、主だった妃嬪の名は覚えたと思った。そこに迦鈴の名を見た覚えはなかったのに。
いや、主だった、から漏れた側にいたのか。
「なんか、親戚に言われて、流れで」
「迦鈴って、そういうの嫌がると思ってた」
「ん。寝てていいって言われた」
端的な、慣れていなければ真意をつかむのが難しい言葉遣いは公主院時代から変わらない。
今の言葉を天香なりに解釈すれば、どうしても後宮に自分たちの手の娘を入れたかった親戚が、後宮の中で社交などしなくてもよい、好きなだけ寝ていてもいいからなどと迦鈴を説得して送り込んだ、というところか。
どんな事情かまでは知らないし、実際に後宮行きを承知させたのはお見事だが、言い方が良くないよと天香は思う。
寝ていていいと言われたら迦鈴はずっと寝ているだろう。そういう子だということを天香は知っている。天香だけでなく玉晶や他の友達たちも知っている。帝に自分を売り込むような努力とも無縁だろうし、そもそもお手が付くことを望んで来たわけではないだろう。
ついでに言うと迦鈴は自分の感情の動きを顔に出すことは少ないし、声も大きくはない。ぽそぽそとこぼすように話す声の響きは心地いいのだけど。
いま着ているものも飾り気のない服で、傍目には侍女見習いのように見えなくもない。
というかこの場にいる誰もがどこかの侍女なのだろうと思い込んでいるようで、嬪と一介の女官が直接、かつ敬語も何もない言葉を交わしているのに誰もそれに気を払う様子がない。もし女官服を着ていれば女官見習いだと思われただろう。
お手が付くといえば、二妃――李妃と洪妃はそれぞれ帝の渡りの度に毎回趣向を凝らして寵を競っているらしい。
尚宮職で働いている間にそう聞いた。
それでもどちらも今のところ帝の心をつかむのには成功していない。
これだから、無駄な緊張をばら撒くのはやめてくれと、天香がそう思うのは二妃ではなくあの分からず屋な国帝に対してだ。
正妃を先に迎えたいならそれを公言して、妃嬪を渡り歩くのはやめてほしい。
本人は平等でよいと思っているかもしれないが、それが逆に緊張感を生んでしまっているのだ。
先日あの場で明言はしなかったが、どうも子ができないように手段を講じてはいるらしい。どんなものか想像もできないし別に知りたくもないけど。
そこまでするならいっそ種無しって噂でも立てばいいのに。
あ、でも本当に種無しだったら面倒なことになるから噂だけでいい。
「顔色、悪い」
「ご、ごめん、大丈夫、大丈夫だから」
考えたくもない、けれど安穏な生活のために考えなくてはいけないことを考えていたら、顔が暗くなってしまっていたらしい。
ついでに今まで仕事にかまけて後回しにしていたことも思い出してしまった。
あの場で天香は正妃候補を見極めるとか大口を叩いたのだった。
今にして思えば麗瑛と二人、青元をやり込めるのが楽しくてちょっと悪乗りしすぎたような気がする。
でもそれはちょっと後回しにしておく。
今は今のお仕事だ。
「嬪ってこの舎……じゃないね、ごめん」
「ん」
その問いへの答えとして目線と身振りで指し示したのは、中庭を隔てた向かい側の舎だ。向こうから天香の姿を見かけて、気になって来たということらしい。
嬪という立場なのだから侍女か誰かを使って天香を呼びにやらせればいいのではと思う。実際、尚宮の仕事をしているときにそうやって侍女に呼び止められて、用事や言付けを預かることはよくある。そう考えると、秋薫舎の侍女がなぜか頑なにそれを拒んだのはむしろ不思議だ。差をつけられたと感じていたとしても――。
なんて考えたうちの後半はさすがに話すわけにいかない。なので前半部分だけを言葉にしてみれば、迦鈴はまた端的に答えた。
「直接見たほうがはやい」
「いや、そうかもしれないけども」
「それに」
「それに?」
「天香に会えた」
そういってふわりと微笑う。例えるなら道端の小さく可憐な花がほころぶような笑顔。顔立ちは整っているのだからそうやっていつも笑えばいいと思うのに、いつも眉一つ動かさない。もったいない。
その前に言わなくてはいけないことがあったのを天香は思い出す。周りを見てみるが、やはり特にこちらに注目されている様子はない。それでも少し声を潜めて。
「あのね迦鈴」
「なに?」
こてん。と小首を傾げるそのしぐさも小動物のように見える。
形だけなら麗瑛のそれと似ている。もちろん天香にとっての価値はぜんぜん違……そうじゃなくて。
「いろいろ事情があってね、今度また話すけど。私が白天香ってことは――」
「……うん、わかった」
迦鈴は決して察しの悪い人間ではない。
話し方と表情からだけで、少し鈍いのだと心ない人間に言われていたこともあった。でもそれは活発に自分を主張しようとしないからだ。
現に今も、天香が多くを言わなくても理解した。
「その代わり」
「代わり?」
「お菓子」
「……また?」
「ほしい」
「……わかった。今度持ってくるから」
共通の友人であるところの玉晶が見たら「また餌付けか」とか笑われそうだ。なんて天香は思う。
仕事を終えたのか、尚寝の女官たちが秋薫舎から退出するのが見えた。一番小柄なのがあの津清だろう。
そう思いながら眺めていると、まさにその津清がこちらを向いて目が合った。相変わらずおどおどとした動きに、天香は迦鈴とは違う小動物っぽさを感じて、少し微笑ましい。
天香が廊の手すりから手を離して小さく手を振ってみせると、びっくりしたように頭を下げて一礼して、あわてて女官仲間の後を追っていった。
その姿をぼんやりと追っていると、横で迦鈴が口を開いた。
「天香、知り合い?」
「そうなの。尚寝職の子なんだけどね、今のお仕事の関係で――って、さっき見てたんだっけ?」
「あの子よく見る。この辺で」
「そりゃ尚寝だもの。殿舎の周りは仕事場なんだから居たっておかしくないでしょう?」
口ではそう言いつつ、何か引っかかるものを天香は感じる。何だった?
確か昨日――の?
「それにしては、女官がいないときに見かける、けど?」