十三、 尚宮職のお仕事 その三
魏夫人の声に応じ、津清が道具箱を携えてやってくる。
「こちらです」
そんなにかしこまる必要もないのにと天香は思いながら、捧げ持つように卓の上に置かれた箱を見る。
取り立てて特徴のない質素な木の箱に蓋がかぶせてある。
大きさは天香の手を縦に二つ並べてもまだ少し余裕があるくらい。
重さは、中に道具が入った状態であっても、両手でなら天香も持てるほど。
蓋を取ると、そこには掃除用具がきっちりと納まっていた。
「これが磨き布で、これが磨き剤、手箒に、こちらが手叩き――」
ひとつひとつを津清が指し示し取り出しながら教えてくれる。
限られた大きさの中に整然と納まった様子は、どこか玉晶の店に似ていた。
津清が一通り道具箱の使い方を見せると、魏夫人は再び彼女を下がらせた。
そういえば、と天香は思う。
「彼女は仕事に出なくてもいいのですか?」
「あの子はまだ見習いなので、今日は道具の手入れをさせていたのです」
手つきがどこかまだ初々しく見えたのはそのためか、と思う。
「この箱は――全ての女官が一つずつ持っているのですよね?」
「ええ」
「それは、それぞれが自分の箱を持っているのですか?」
「いいえ。箱も中身も入れ替わりますから」
同じ外観――もちろん細かく木目や模様の違いはあるけれども――の小箱が並んで置いてあり、中身の道具も手入れのあるたびに入れ替わる、らしい。もちろん磨き布や拭い布は洗わなくてはいけないから毎日出し入れしている。
「組ごとに定数があるわけですよね。無くなったら、その分の女官は仕事が出来なくなりますね」
「いえ、それぞれ組の中で融通はさせていますから。……ただ、やはり少し能率は落ちてしまいますね」
箱を持っていくことで全員が分担できるのに、それが出来る人と出来ない人に分かれることになる。
そもそも道具がその分減るのだから時間もそのぶん余計にかかるだろう。
「……私としましては、隠した、とは考えにくいのではないかと思っては――」
「では魏夫人は盗まれた、とお考えに?」
「先ほども言いましたとおり、道具箱が置いてある場所には特に鍵もありませんし……」
隠したところで仕事がなくなるわけでも。と続ける。
その口調の歯切れは悪いが、自分の部下にあたる女官たちからそんなことをする者が出てほしくはないと、それが本音のようだった。
確かに、不注意で無くしたのでなければ誰かが隠したか盗んだかしたことになる。
なにか予想もつかない非日常的な出来事が起きたのでなければそうなる。
――では、誰が?
道具箱を隠す、または盗むことに何の意味がある?
推論のようなものはいくつか思いつけるけれど、そうなる理由がわからない。
それに特定の誰がやったのかも全くわからない。
女官でないと思いたい魏夫人の気持ちはわかる。けれど、その可能性も天香には除外できない
なにかもう一つか二つ判断材料があれば――。
考えにふけっていた天香の耳に、床を鳴らす音が聞こえてきたのはそのときだった。
その足音の主は、部屋に入ってくるなりそこにいる部外者など気にもかけないで声を上げた。
「しょ、尚寝さま!」
「なんですか騒々しい。それに今は来客中ですよ。後宮女官として――」
応対モードから小言モードに入りそうな空気を察したか、それともそう考えるような余裕もないほど焦っていたのか。その女官はそれに先んじてさらに声を上げる。
「また一つ無くなりました!」
「え?」
「きゅ」
きゅ?
何の音だ? と訝しがる間もなく、がたたんという音がそれに続く。
その音の方向に――魏夫人が倒れこんだところだった。
「尚寝さま!?」
「魏夫人!」
天香はあわてて駆け寄ってその体を支える。尚寝の女官もそれを手助けしてくれた。
何度か呼びかけるが応答がない。
息を確かめる。呼吸はしっかりしている。ただ意識はないようだ。
尚寝さまこと魏夫人は、自分の執務卓の椅子から転げ落ちた状態で気を失っていた。
天香は津清たち女官と協力して魏夫人を長椅子に寝かせ、楽な姿勢を取らせる。
女官のひとりに医官を呼びに行くように頼んで様子を見る。
さっき淹れてもらったお茶はとうに冷たくなっていた。
介抱のおかげか、幸いすこしすると魏夫人の意識は戻った。
いくぶんかぼうっとしていたようだったが、意識がはっきりしてくるとすぐに立とうとする。
それを制する天香。
「駄目です。もうしばらく楽にしていてください」
「いえ、行かなくては」
「気を失われたのですから、少しは安静にしていなくては。さっき医官を呼びに行ってもらいましたから」
「しかし……尚寝を預かる者として、現状を把握しなければ――」
使命感というか仕事を果たそうとする心がけは立派だが。
倒れたばかりで無理をしてほしくない。天香だけでなく尚寝職の女官もそうこぼしていた。
だから。
「では、私が見てきますから」
「あなたが?」
「私も丁夫人からできる限り調べるように言われていますから。同じように魏夫人、あなたにもお伝えします」
「しかし――」
「あなたに何かあれば、お仕事にも差し障りましょう?」
「ですが――」
なおも言い募ろうとする魏夫人の、その上体を長椅子に押し戻しながら天香は言う。
できるだけ安心させられるように、それでいて内緒の話を打ち明けるような笑みに見えるよう。
「ご安心ください。私も丁夫人に叱られるのは嫌でございますから」
すみません丁夫人ちょっと悪役になってくださいごめんなさいと心の中で謝りながら。
***
尚寝職の女官と一緒に紛失したという――盗まれたのではないかと魏夫人が疑い、天香もそう思いはじめているが――場所に向かう途中、廊の反対側から天女、じゃなくて公主殿下が歩いてくるのに行き会った。列の中には則耀の姿も見える。
今朝も同じ床で目覚めたというのに、仕事にかかり切りになっていたからか、麗瑛の顔を見て思わず心が跳ねる。
できればずっと見ていたって飽きない自信が天香にはある。ていうかそうしたい。
その心を押さえつけて、天香は廊の脇に寄って、同行していた女官と同じように頭を下げる。
いまは――居室以外では、一介の女官と公主殿下という関係なのだから、当然臣下としての礼を尽くさなければいけない。
自分たち自身と蓮泉殿の女官たち、それに丁夫人と帝以外はいまだに二人の関係を知らない(はずだ)から、そう振舞わなければ当然処罰の対象になると思われかねない。
後宮において、礼を欠いた行為を処罰するかしないかは身分が上の側の意思次第だ。
麗瑛が天香を罰するかは――あまり考えたくない。
もちろん閨の中という意味ではなく。それならむしろ歓迎、いや何を考えているんだ仕事中だ。
天香は懸命に言い聞かせる。自分の心に。
が、処罰が無ければ無いで、なぜかと訝る人間も出てくるだろう。だから他の女官や妃嬪に不審を抱かれそうなことは慎もうと、麗瑛も天香もその点では一致していた。
……していたのだけれど、いざ面と向かってしまうとそれはなかなか難しいと天香は実感する。
なんと言っても想いあい、慕いあい、睦みあっているその相手なのだから。
それでもそっと顔の角度をずらして麗瑛の顔をうかがう。
――、目が合った。
麗瑛もまた不自然ではないほどに顔を傾けて横目でちらりと送ってきた、その麗瑛の視線と天香の視線がぶつかってからまってつながって、次の瞬間離れていく。
その一瞬でも、跳ねかけた心が落ち着きを取り戻す。
じわりと暖かさが広がるような気分になる。
やっぱり殿下は――麗瑛は、すごい。