百五、 宴の三 お叱り
「お話し中、失礼します」
「どうしたの」
「は。主上がこちらにお越しになるそうです」
一礼した則耀が、落ち着いた声で言った。
青元が個室に入ってきたのは、それから程なくしてのことだ。
姿を見せたのは青元だけでなく、その後ろに湘王・柳宗と蔡王・聞亮を引き連れている。いつもながら見目麗しい柳宗は生真面目な顔でいながらも、麗瑛と天香と目が合うとちらりと微笑んで見せた。いっぽうの聞亮はやはりいつもどおり飄々としたにやけ顔を崩さない。さすがにこの間会った時と違い、今日は女物の上衣を仕立て直したようなものではない普通の格好だった。
左右に二人の王を従えるように向き合って座った青元に対して、太皇太后が口火を切った。
「挨拶に来るというには時間がありましたね?」
「申し訳ありません。女性同士積もる話もあるかと思いまして」
「そのようなどこで覚えたかもわからない、やりなれないような気遣いはしなくてもよろしい」
頭を下げる青元にぴしゃりと言い、青元も悪びれた様子もなく返す。
「その代わり、王を二人ほどこちらに引っ張ってきました」
「甲斐性のない男どもがぞろぞろと揃いも揃って、このような婆に機嫌伺いですか?」
「甲斐性がないとは耳が痛いですなあ伯母上」
強烈な一発にあっけらかんと返した聞亮が、参った参ったとおおげさに頭を掻いてみせる。
蔡王・江聞亮は青元と麗瑛から見れば従叔父にあたる。具体的に言えば、青元の祖父の弟の子である。つまり青元の祖父の正妃皇后であった范氏は、聞亮にとっては伯母になるのだ。
「事実でしょう。蔡王、そなた年が明ければ四十でしょう。遊びもほどほどにして、そろそろ身を固めてはどうです」
「天下の名花が多すぎるのがいけないのですよ。どれかだけを選んで一輪挿しにするなどとてもとても、小心者の私には出来そうにありませんな」
聞亮の言葉に、天香の耳元で麗瑛がささやいた。
「小心者が次から次に女官を口説くわけないじゃない、ねえ」
「それより、あのひと来年で四十って本当ですか」
「さあどうだったかしら。おばあさまが言うのだから多分そうなのでしょうけど。どうして?」
「いえ、その……」
言葉を濁したが、麗瑛には意味が通じたようで、一瞬間をおいてぷっと吹き出した。
笑いをこらえる麗瑛に、話題の主が不思議そうに尋ねてくる。
「何か面白いことでもありましたか、蓮泉公主?」
「言って差し上げなさいな。おじさまは宴の席の戯言なんかで気を悪くされる人じゃないわ」
いくら麗瑛にそそのかされても、まさか今年二十六歳の主上より二十は年上だと思ったなどと言えるわけもない。
「言いにくいならわたしが言うわ。――おじさま、天香に四十よりは上だと思われてたみたいですわよ?」
引き留めようと袖を引っ張ったのもむなしく麗瑛があっさりと暴露してしまった。救いといえばさすがに天香が思い違いしていた具体的な年まではわからないはずだが、はたしてそれは救いといっていいものかどうか。
そのうえ麗瑛だけでなく、范太后まで笑い声をあげた。青元は何とも言いにくい顔――おそらく笑いをこらえている――で、柳宗はどう反応するべきか迷っている風情だ。
「ま、まあ、若い女人に年上の男の年がわからないというのも致し方のないところだからね、いや、経験ならあるのだよ経験なら……」
などと言いつつ負った傷を隠しきれていない。十歳ごとの年齢の節目にはいろいろと思うところが出てくるものだと聞くが、悠々と見えた聞亮でもそうらしい。悪いことをしたと天香は反省する。それをよそに、
「その髭を剃ったら少しは若やいで見えるのではないですか?」
笑いをこらえるようにして、太后がとどめを刺した。
やっぱりこの孫にしてこの祖母あり(あるいは逆か)だと、改めて天香は思う。
「なにか耳どころか心まで痛くなってまいりましたので、これでお暇させていただきまして――」
などと言いながら聞亮が腰を浮かしかけた。
「退がるでない。蔡王には今言いましたが、いい機会です。ほかの二人にもまとめて言っておきたいことがあります」
太后の言葉は、激しくはないが厳しさをにじませる口調で、これはもしかしてお叱りを受けるのではと天香に直感させた。
聞亮が素直に腰を下ろす。彼をこうして従わせるだけの重みがそこにある。
「そなたたち三人、いくら仲が良いといっても、ちょうどいい具合に均整が取れないのですか。何度も繰り返したくはないけれど、蔡王は遊びをやめるお積もりはなさそうですし、主上も一向に後宮を重んじるつもりがなさそうですし、それに」
つい、と彼女が視線を向けた先には柳宗がいる。その表情は穏やかではあるが、さっきの微笑みと比べれば明らかに硬質に思える。
「柳宗どの。いえ湘王殿下、妾はそなたに祖母と呼ばれるのを楽しみにしていたけれど、だからといってそれとこれとは別の話としてお聞きください」
その言葉に、この人もまた瓏音の一件に忸怩たる思いがあるとわかった。聞亮までもが神妙な顔になっている。あの事件はやはり、皇族の間でも等しく影を落としている出来事であるのだ。
「それはよもや、ご下命でしょうか。妃を娶れ、と」
硬い声を絞り出すように、柳宗が言う。太后の言葉を待たずに先に言うなど、本来は礼法に反すると言われかねない。それを、貴公子然とした面持ちを崩して柳宗がやった。
我知らず、天香はごくりとつばを飲み込んでいた。ちらりと窺うと、麗瑛もじっと眼前の様子を見つめている。
「皇族の長老としては、そう言わなければならないのでしょうね。そなたは数少ない若い皇族なのですから。……命じなどしません。たとえ体裁を整えたところでそなたの心根にあるのは瓏音でしょうし、無理強いしたところでそなたも、妃扱いされない誰かも不幸になるだけだと見えています」
一度そこで言葉を切り、范太后は茶碗を口元に運んだ。飲むというよりも、わずかに唇を湿らせる程度にそれを傾ける。
ことり、と碗を置く音が、楽の音よりも耳に響く。
「そなたが瓏音を一心に想ってくれるのはよい。そなたの心を疑うものなど居はしませんし、妾も有難く思っているのです。いつまでもただ一輪の花を世話してほかに目を向けることないというのは、はた目から見ていれば美しい――けれど、その姿はあまりにも痛々しい。忘れろなどとはとても言えませんが、そなたにはそなたのことを考えてほしいのです」
柳宗の唇が歪んだ形をとったように天香には見えた。何事か言おうとしてのものか、ほかの何かなのかまでは分からない。けれど結局彼は何も言わずに、目を閉じて頭を深々と下げた。むしろその様子を見る范太后のほうが心苦しい表情をしていたのが、天香の目には焼き付いた。
その表情をしまい込むと、今度は最後の一人――つまり青元に矛先を向ける。
「主上、いえ青元、そなたもです。そなた自分がまだ若いのだから子などいつでもできる、などと言っているようですね」
「いえ、それは」
「言い訳は無用。いくら若くともいつ不慮の死があるかもわかりませんよ。そなたの兄たちのことを忘れたわけではないでしょう」
その口調に、つい前とは一転して、苦しさなどは見えない。非を詰めていくように。
受け取り方によっては叛意ありと見なされそうなきわどい言葉だが、それを言った太后を見れば、それは心から気がかりに思って言った言葉に他ならないとわかる。それは子にも孫にも先立たれた老女の――いや顔だけを見ればそれほど老いたという形容も似合わないのだが――経験からくるものだと、その表情が語っている。
「よいですか青元。そなたの言葉もわからないではありません。けれども、帝とあろうものが身を固めなければ、周りも合わせて揺れてしまいがちなものです。宮中にどこからか乱れが生じないとも限らない。そなたはそれを未然に防ごうと思っているのでしょうが、そなたの動きが逆にそれを生むこともありましょう。よくお考えになることです」
先ほどとは裏腹に、天香はよくぞ言ってくれたという気持ちになった。結局のところ麗瑛や天香が直面している問題というのは、青元のそういう態度のせいでもあるのだから当然といえる。
「――とはいえ、子を一人しか成せなかった人間がどれほど偉ぶった言葉を言えるかと自分でも思うのですけれどね。不躾を申しました。いえ、婆からの苦言として聞き流してくださいませ」
本人は冗談めかして言った通り、范太后には一人しか子が生まれなかった。その男子が、青元と麗瑛の父である先の帝である。とはいえ彼女が正妃皇后から外れることは一度としてなく――そんな話を思い出す。
いつしか曲が終わって、ぱらぱらと拍手が鳴っていた。