間、 ある令嬢たちの不満
「つまんないつまんない、つまんなーーい」
寝床の上で仰向けに寝転んで、彼女はひとりごちた。
漆黒の髪が寝床のあちらこちらに散らばっている。手順を踏んで整え、まとめて、長さを揃え、丁寧に梳ればつややかな大河のように流れるだろうその髪は、あちらでほつれこちらで丸まり、市場のようなにぎやかさを振りまいている。
その髪と対を成すようになめらかで透き通るような肌には染みひとつなく、かといって血の色が透けそうな病的な色ではない。こちらも術と技を使って磨き上げればまばゆく光るだろう均整の取れた肢体を、地味な長衣に包んで彼女はただ寝転がっていた。
否、部屋の中にいることがつまらないのではない。部屋の中にいても楽しいことはたくさんある。
書を読むのも詩歌をひねるのも書画をたしなむのも、茶や音曲も禁止されていない。望めば何でも用意してもらえる環境だ。
服や装身具だって望めば望むほど与えられるだろう。ここはそういう場所だ。なぜなら彼女は貴族の一人娘で、ここは自分の屋敷なのだから。
むしろそうやって部屋にいていいと言うのなら、いつまでだってそうしていたいくらいだった。特に何もなければ日がな一日、先ほど例に挙げたような種々の楽しみをやっていたい。ついでにそばに侍女の二、三人をはべらせていたい。怠惰な生活は大好きだ。
だけれども――
「だからと言って我慢してなきゃいけないの? 私が? あんな無能どものために? この私が?」
一番やりたいことができないのなら、結局そこは牢獄なのだ。
そして彼女の一番やりたかったことは、別の誰かがやっている。
ほかでもない、彼女の名を使って。
「お嬢さま、入ってもよろしいでしょうか」
「レイ? 早く入りなさい」
部屋の外から聞こえた声に、彼女は飛び起きて応じた。
「だいじょうぶですか、お嬢さま?」
「退屈で死にそうなことを除けば元気よ。それよりも、『今日の分』でしょう? 早く早く!」
レイと呼ばれた侍女はやれやれというように息をつくと、抱えていた大き目の籠から何枚もの書状を取り出した。
「これが、本日の分になります」
「少ないわねえ」
「……いいことなのでは?」
「ばかねえレイは」
ほとんど年の変わらない侍女に、彼女はまるで子供に言い聞かせるように言う。
言葉と同時に、その白魚のような手を侍女の顔や細い首に這い回らせながら。
「私に回ってくるものが減るわけがないの。だってこの家に、この私に集まってくる書状類は、あの能無し達だけで処理しきれるようなものじゃない。だから回ってくるというより、回さなくてはいけないもの、なの。減ってるように見えてもそのうちに元に戻る。それに――」
「……それに?」
「もし元に戻らないようなことがあったなら、それはあの阿呆どもが何か隠しているってことなのよ」
目元を赤くとろんとさせた侍女をそのままに、彼女は書状に目を通していく。今のところはどの書状にも不穏な兆候は現れていない。しかしあの親族たちがいつまでも今の状態のままでいるとは思えない。『その時』が来たとき、自分はどうするべきか。
(考えておかなくてはいけませんか――ああ、めんどくさい)
片腕の中に侍女をすっぽりと収めながら、彼女はそう思った。
*****
「あの女あの女、あ、の、お、ん、なー!」
後宮内の一房で、彼女は癇癪を破裂させていた。
「あの女ときたら、勝手に自分が第一妃気取り! 陛下は何も仰っていないというのによ!?」
ぱちりとした目元、高く通った鼻筋、細い頤、そして見苦しくない程度に日を浴びた艶のある肌。控えめに見てもくっきりと整った顔立ちを紅潮させて、彼女は声を上げる。
「ほんっとにムカつく! ……ですわ!」
明らかに乱れた言葉遣いを、さすがに侍女がたしなめる。
「お嬢さま、妃嬪の位にある方はそんな言葉遣いはなさりません」
「わ、わかってるってば! ……承知しておりましてよ」
「それもわざとらしすぎます」
「じゃあどうすればいいのよ!」
「立場にふさわしい振る舞いはそれを進んで身に着けようとする者に備わるのです」
その場にいる中では一番年上の、それでもまだ十分に若いその侍女はそう答えた。
立ち居振る舞いなど一朝一夕では身につかないと思っている人間もいるが、対外的に繕う程度のことならばやる気さえあればそう難しいことではない。彼女はそう思っている。例と言われればためらいなく自分を挙げる。要は繰り返しなのだ、と。
「……えーと、つまり?」
「お勉強と御社交を重ねて身に着けなさいと言っているのです!」
「あっ、は、はい……」
察しの悪いお嬢さまに、侍女兼家庭教師はつい声を荒げる。
付き合いの浅くない彼女にそこまで言われて少しは冷静さを取り戻したのか、お嬢さまは机に向かって何事か書き散らし始めた。
(まったく。旦那さまはこのお嬢さまが妃としてやって行けると、本当にお思いなのかしら?)
もちろん口には出さないが、どこかでそう疑ってしまう。旦那さまとはもちろん後宮の主である国帝陛下のことではなく、彼女の実質的な雇い主であるところの、つまりこのお嬢さまの父親である。
妃嬪の侍女は妃嬪たち自身によって雇われているという形をとる。もちろん一般的にはその親や親族から給金が払われる。だから生家が豊かであればそれだけ多くの侍女を雇えるし、そうでなければそうでないなりの数ということになる。さらに侍女とは別に後宮勤めの宮女が数名づつ、妃嬪にそれぞれ付く。
侍女筆頭の彼女は、その雇い主から直々に娘の教育も命じられていたのだった。
後宮に入るまでの突貫工事のような練習で少しはマシになっているものの、感情が昂ぶったり気を抜いているとすぐああなってしまう。小さいころから知っている、後宮に入るなどとても考えられることもなかった『あの』お嬢さまをここまでしただけでも教師たちは良くやったと彼女は思うのだが、それでも教育役としては疑問符をつけてしまう。
何度かの国帝陛下のお渡りも今のところ無事にやり過ごせてはいるが、どうも今のところ子を成すつもりがないからではないかと彼女は見ていた。他の殿舎の侍女の話を聞く限りにおいても、どの妃にも嬪にも等しく心を開いていないように思われたからだ。
蓮泉殿に新しく妃が入ったと言う話は、そんなころに後宮を駆け巡った。しかし後宮入りから数日が経っても特に事態が急変することもなく、その妃が公に姿を見せることもなく、帝が渡りつめているという様子も見えない。そもそもそんな妃が実在するのか、なんて冗談めかして言う侍女まで出る始末だ。殿舎付きの宮女や挨拶しに行った嬪――実はこの嬪は彼女の主人とは別の派閥なのだが――の侍女にそれとなく話を向けたが、どうも環境の変化で臥せっているらしいという話は聞けた。しばらくは保留、として心に留めておく。
侍女としては、出来れば帝の難儀な御心をこじ開けるのがうちのお嬢さまであってほしいとは思う。だけれども、あの様子では――男女双方ともに――まだ先になるのかもしれない。それを憂うべきか安堵するべきか、今の彼女にはわからなかった。
この先の展開のために今まであやふやだった設定を作り直していたら歯止めが利かなくなっていつの間にか時間だけ過ぎていました。猛省します……。
ということで間章です。このご令嬢たちを本編で活躍させられるように頑張ります。
という圧を自分にかけるために書きました……。