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公主殿下の寵姫さま  作者: 有内トナミ
五章 重陽 編
108/113

百三、 重陽節 一日目 宴の一



 だいぶ傾いた日が窓から差し込んでいる。

 その光を受けながら、天香は腕を伸ばすようにしつつ身をひねった。


 重陽とは、健康長寿を願い祝う祭りだ。

 祭りは三日間続く。

 朝から晩まで宮中でも街中でも、酒を酌み交わす声やかき鳴らされる音楽、それに乗って歌われる唄や踊り、そんな喧騒が絶えることはない。

 そして宮中では一日目の宴から最後に控える宮中祭祀まで三日間――正確には一日目の夕方からだから、二日と半分というところ――行事が絶え間なく続く。といってもそのほとんどは宴に次ぐ宴である。国で一番の重要人物である青元など、ほとんど寝る暇もないだろう。

 しかし、天香に関わりのあるものはそのうちのさらに一部だけだった。


 その宴のうち、個人的には一番重要なひとつを、天香は目前に迎えていた。


「どうでしょう、どこかおかしいところありませんか?」


 天香は上衣の袖を引っ張るようにしながら、今度は逆側に体をひねる。

 その飴色の上衣には鞠菊の縫い取りがある。

 襦裙きものもそれ以外もとくにおかしいところはないつもりだが、確認に確認を重ねて悪いということもないはずだ。

 しかし、麗瑛からの答えがない。

 様子をうかがうと、麗瑛は何事か小首をかしげている。


「……瑛さま? 何か気になることでも?」

「ずいぶんすっきりした顔じゃない?」

「私がですか?」

「いつものあなたなら、この期に及んでもなんだかんだと言うんじゃないかって思ったのだけど」


 そう言われてしまうと、確かに思い当たることがないわけではない。というか割とある。

 けれど、文句を言っていても始まらない。何を言ったところで、重陽の宴は今日から始まってしまうのだ。


「――それに、身構えすぎるのもはん太后たいごうさまに失礼じゃないですか」


 太皇太后范氏、范太后。麗瑛と青元の祖母である。

 そう、二人が臨む重陽節で一番初めの宴は彼女が主賓として出席するのだ。

 宗室そうしつ――帝とその一族の繁栄と長寿を祝うということで、存命かつ参加できる皇族の中で最も高齢の人間を主賓とする宴である。宴の主な参加者は国帝青元のほか宗室の面々。あらためて言うと面映いことだが、もちろん天香もその中に数えられる。そして後宮の妃嬪たちもまた同じ。とはいえ、規模としてはそう大きいものではない。

 その主賓、范太后のお相手が、今日の天香のいちばん大きな仕事である。

 天香からしてみればこれまで会ったことのない義理の祖母で、皇族の最長老だ。そしてそんな相手の接遇を命じられている。

 どれだけ些細なものでも、非礼を働くようなことはしたくない。


「あら、つまんない」

「瑛さま?」


 少しだけ胡乱な目つきを向けると、麗瑛は大げさに肩をすくめる。


「冗談よ。気にしないで」

「わかってますよ。これも冗談です」

「ま。可愛くない返しだわ。いつそんなこと覚えたのかしら」

「可愛いだけの人間はお好みじゃないでしょう?」

「まあそうね」


 うなずいて見せた麗瑛が、するり、と天香の手に自分の手を絡めた。うまく返せたと気を抜いた瞬間のことでとっさに反応できない。

 そして、麗瑛はにやりと笑う。


「こんなに手に汗かいてるのにねえ」


 上目遣いのいたずらっぽい笑みを受けて、返す言葉に困る。

 なんだかんだと言ってはみたものの――それは自分に言い聞かせるようにしていただけで、結局のところ天香は緊張していた。なんだって見透かされてしまう麗瑛を相手に、上手くごまかしきれるとは思わなかったけれども……そういう手でくるなんて。


「そりゃ……緊張はしますよ。初対面のかたですし」

「おばあさまはそんなに怖くなんかないわよ」

「じゃあ、どういう方なんです?」

「天香にどうこう仰ることはないと思うわ。面白いことがお好きでいらっしゃるから」


 どういう意味だ。麗瑛の言葉を信じないではないが、自分自身を面白い人間だなどとは思えない天香である。

 天香の沈黙に、笑いを深めて麗瑛はその首にすがりついた。上衣の布地が首の後ろにするすると触れる。


「例えば、天香とわたしを別れさせたりとか――」


 そのことばに、天香は小さく息を詰める。

 天香の緊張は、ただ初対面だからというだけではなかった。

 本当のところ、『妃として落第』なんて言葉をかけられないか、それが一番の心配事なのだ。相手はこの後宮で長く最高の地位にいたひとなのだ。妃や女人の振る舞いかたには一言いちごんあるだろう。まして、そのことで自分だけでなく麗瑛まで何か責められるようなことがあれば、と思うと。


「……お見通し、でしたか」

「ええ。あなたって本当にわかりやすいもの」

「そっ、んな、ことは」


 否定したいが実際見抜かれているわけで、反論も弱くなる。


「大丈夫よ。おばあさまはそんな理不尽なことをなさる方じゃないから。それに、天香がどれだけわたしにとって大切か、お手紙でもう何度も言っているもの」

「それ、逆に嫌っていうか……」


 麗瑛がどう書いたかなど知らないが、褒めちぎられているであろう文中の自分を想像する。現実の自分との溝がどう思われるか。

 そもそも自分から手紙の一つも出していないのは減点要素ではないか、とさえ思えてしまう。

 それでなくとも、相手が誰だろうと初対面の相手にはどうしても緊張してしまうのが天香である。それを知らないはずもない麗瑛は、しかし笑い飛ばすように言った。


「考えすぎ」


 びしり、と麗瑛の白魚のような指が天香の鼻先すぐの所に突きつけられた。その向こうに見える麗瑛の瞳の中に、気弱に眉根を下げる自分の姿が浮かんでいる。


「あなたはじゅうぶん可愛いんだから、自信を持ちなさい」

「瑛さま、いつもそう言いますけど」

「本当のことを言ってるだけよ」

「可愛いだけの人は……お好みじゃないんでしょう?」

「可愛いだけの人間じゃない、んでしょ?」


 数寸の距離に顔を寄せて、麗瑛はにこりと笑む。自分などよりも、その笑顔のほうが天香にとってはかけがえのないもので――しかしそれを口に出すのは気恥ずかしくて、どちらかといえば唇を合わせに行くほうがまだ容易いぐらいだ。

 などと、照れている場合ではもちろんなかった。


「失礼いたします。そろそろお着きになられる頃合かと」


 則耀が現れて、いつも通りの冷静な口調でそう告げた。

 それを聞いた麗瑛はぱっと表情を切り替えて。


「それでは、行くわよ――わたしの妃殿下」

「はい――私の殿下」



◇   ◇   ◇



 范太后は、普段は鷲京郊外の離宮で暮らしている。

 その離宮から彼女を乗せてきた馬車は、居並ぶ女官達の前でゆっくりとその足を止めた。

 細やかな装飾が施されたその馬車から降り立った范太后は、ゆるりとしてしかし律動的な足取りで、出迎えの女官達の列の中を進む。たしか七十に近いか越えているかのはずだが、その歩みは年齢を感じさせないもので、特に足腰などを悪くしている様子もない。かえって後からついて来ている女人連のほうが苦しげにすら見える。

 隙なく結い上げた髪に正装用の冠を載せ、ゆったりとした紫の上衣には丸く円を描く菊の模様が織り込まれている。深い緋と黒を主体にした落ち着いた色と模様の襦裙は威厳を感じさせて、ひと言にすれば迫力がある――と思ってしまうのは、天香がまだ少しばかり気後れ、しているからかもしれない。


 太皇太后范氏、名は景嘉けいかという。

 若い頃からとくに美姫と謳われたわけではなかったというが、しかしそもそも後宮に入る時点でもちろん醜女しこめなどではありえない。年を経た今でもその顔立ちはしわも少なく、しみなども目立たない。髪もまだ黒いものが残っており、実年齢よりもよほど若々しいほどだ。

 しかし女官長の丁夫人といい、宮中で長く過ごした人は老いないものなのだろうか。なんて、そんな馬鹿なことを思ってしまう――自分たちにとってはまだまだ遠い先の話だけれども。


 目前まで歩んできた范太后に、麗瑛が拱手して頭を下げる。

 天香、そして居並ぶ女官達もいっせいに頭を下げた。


「お久しゅうございます、おばあさま」

「ええ、お久しぶりですね、蓮泉公主」


 麗瑛の挨拶に応じるその声は、高くも低くもないが深みのあるものだった。

 さらに答えて、麗瑛が小さく苦笑して言う。それくらいの気配は顔を伏せたままでもわかる。


「どうか前の通り、麗瑛とお呼びください。――天香」


 麗瑛に鈴のような声で名を呼ばれ、天香は麗瑛と並ぶ位置に進み出る。

 足が地に着いているか不安になる。一歩先で滑らせないか、慎重に、一歩また一歩。


「は、白天香と申します。太皇太后さまには、初めてお目にかかります。本日の太后さまのお世話を仰せつかりました」


 頭を下げたまま、范太后の反応を待つ。

 その時間が、やたらと長く感じられて、顔を伏せたまま天香はぎゅっと目をつぶった。


「……そうですか、あなたが」


 口から心の臓が出てきてしまうのではないかと天香が思ったその後で、ようやく太后はそれだけを口にした。

 当然そのあとに続くだろう言葉を待ち構えて、天香は一瞬身を強張らせる。しかし実際に出た彼女の言葉は。


「いえ、ここでは落ちついて話も出来ませんね。後にしましょう」

「はいっ」


 手を解くと、重ね合わせていたところに汗をかいていた。

 麗瑛が先に言ったとおり、考えすぎと言われればそうなのだろう。けれども、一度浮かんでしまった言葉は天香の身体に、特に足元にまとわりつく。それは霞のように不確かで、それでいて少し払ったくらいでは振り払えないほどに粘着質だった。

 この場での会話はこれで終わり、という范太后の合図に、女官が列を先導して宴の場へと向かい始める。

 ともにその列の先に加わって范皇太后の背中を追いながら、横に並んで歩く麗瑛くらいにしかわからないように、天香は小さくしかし深く、ふううと息をついた。

 横でくすり、と麗瑛が笑みを漏らしたのがわかった。

 声を抑えてひと言でも口に出そうか――そう思ったとき、袖口をかすかに引かれる。視線だけをそちらに向ければ、麗瑛の白い指が袖口に絡んでいる。

 それを見て、天香は思わず麗瑛の袖口を自分の指先でわずかに挟んだ。もともと布同士がこすれるほどの距離だったから、そこまで目立つほどの動きではない。ないはず。たぶん。少なくとも、手をつなぎ指を絡ませるよりは、だけれども。


 そして、宴が始まる。



あけましておめでとうございます(大汗)。

予想以上に間が開いてしまいました。

感想・評価・ブックマーク大変励みになっております。宜しければお付き合い願えればと思います。

本年もよろしくお願いします。

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