間章、 書院にて
青元は椅子に座ったままで、唐突にくしゃみをした。
「お風邪ですかな。重陽節も見えた頃合というのに」
「誰かが噂でもしているのだろうよ」
「噂もされない帝など、仕える意味がありませんな」
「うるさいな――すまん、栢里。続けてくれ」
口の減らない一の忠臣こと月勝に言い返したい気持ちを振り切って、話を元に戻す。
「えーとにかく、以上が実州屋の言い分になります」
そうか、と青元は深々とため息をついた。
栢里が実州屋――例の髪飾りを売った店の主への事情聴取を取りまとめた結果は、あまり芳しいものではなかった。
「あくまでも自分は押し付けられただけで、被害者のようなものだと言いたいわけか」
「ま、要約するとそうなります」
「どちらにしろ、この件での処罰は難しいでしょうな」
月勝が眉間にしわを寄せて言う。
先日の、と言ってもすでに月が改まり、日ごとに夏が遠ざかっているが、ともかくあの盗難事件の、これが最終的な報告となりそうな按配だった。
実州屋の供述によれば、盗んだ犯人である下女は実州屋の「恩人」の知人という話で、ゆえにその娘と持ち込まれた品物にちぐはぐさは感じたものの、買取を拒否することは出来なかったという。
盗品を盗品と知らずに売り買いすることは罪にはならない。盗品が皇室の御物であっても、それをやり取りした店主に別件で不正の疑いがあっても、それを複合させて罪とは出来ない。であるならば、実州屋の罪は問えない。同様にしてその「恩人」こと、とある貴族の夫人とわかっているが、その罪も問えない。
大罪に連座したとしてその貴族を家ごと取り潰すことも出来なくはない。しかし、盗まれたものが帝の御物とはいえ、あれはまだ試作品であり正式に帝・青元に献じられる前だった。ついでに言い添えれば、その貴族というのは別に後宮妃嬪の実家でもなければ、宮中で枢要な位置にある家というわけでもない。無理に罰したところで青元にしてみれば旨みも特にはないどころか、むしろ反発を生ませかねないわけだ。
「その後押しをしたという貴族も含めて、厳重注意とするのが関の山でしょう」
「いちおう、太守府から市令に話を回させてみますがね」
「無駄だろうな」
宰相はばさりと切って捨てた。
太守府は都を管轄する役所で、市を管理する市令もそこに属する。
その「恩人」とやらが実州屋の出店を「後押し」したことまでは調べがついているが、だからと言って今から出店許可を取り消すことは出来ない。一度許可が下りてしまった以上は、店主が明らかな罪を犯すか、店ぐるみで違法な行為に手を染めてでもいない限りはそれを没収も出来ない、と法が定められているからだった。無駄だろう、というのはその意味だ。
がたり、と椅子を動かして青元は立ち上がる。話はここで終わりだ、という宣言でもあった。
「どちらへ?」
「書院に行かせてもらう。今日の報告はそれで最後だろう?」
「何かありましたら使いを遣ります」
ああ、と頷いてみせて、青元は執務室を出た。
書院とは書庫のことである。大書院と小書院があり、大書院は公的な機関として外宮にある。内廷にある小書院はそこからさらに蔵書を絞った書庫だ。もちろん青元はそれとはまた別に個人的な書房も持っている。
その小書院のまさに寸前で、それに出くわした。
「うっ……鄭姫か」
いきなり現れた黒尽くめの物体に一歩気圧されたが、よく見ればそれは黒の襦をまとった鄭姫だった。
漆黒の髪もいつもどおり無造作に束ねて流しているだけで、その様子は典型の結い上げ髪など無用といわんばかり。麗瑛の言によれば結い上げ髪にも細かく形があり流行があるらしいが、青元はそこまで気を払ってはいない。
「う、とは?」
「なんでもない。気にするな」
「おやおや、よもやもしかしてややもすると、このわたくしめを何か物怪の類と見間違えられましたか?」
「嫌味か……いや、悪かった」
「とんでもない。それどころかちょうどいいところに来て下さったと感謝さえしています」
大仰に身振りを取りながら、しゃあしゃあと言ってのける。
その言葉に青元は首を傾げた。
「いいところ? 何か用向きでもあったのか」
「ええ。こちらから探す手間が省けました。誠にありがとうございます」
「やっぱり嫌味だな?」
「まさか」
ちろりと舌を出す仕草が小憎らしい。それ以前にそもそも国帝に対する態度ではない。いっそのことここで無礼討ちにしても許されるか、などと考えてしまったのは誰も責められないだろう――と青元は思う。
とはいえ、この程度のことにいちいち腹を立てるほど自分は狭量ではないつもりだった。妹たちだって似たようなことは言う。もちろん肉親と臣下では別だが、それでも年下の女子に砕けた対応をされたくらいでは。
「で、用とはなんだ。それなりの理由のあることだろうな?」
くだらないことならここで話を打ち切るぞと言外に潜ませる。
対して鄭姫――玉柚は一応拱手して頭を下げながら。
「暇なので、書院を開けてくださいませぬか」
「……暇なら実家に帰ったらどうだ」
「まあ、それはそのうち。いつかは出て行きますよ」
「当たり前だ」
ぽろりとこぼれてしまった本音に気を悪くしたようでもなく、玉柚は平然と返してくる。もちろんいつかは帰るのだろうが、同時にその言葉はまだしばらくは居座ると言っているものだ。
青元としても強権を振るって追い出すことは出来る。出来るが、しかし妹たちから聞いた彼女の境遇を思ってしまうと、なかなか出て行けとも言いづらい。
――実家に帰ったところで、押し込められて男と娶されるというのではな。
玉柚の方もそれを見切ったうえで振る舞っているようにも思えてならないのだが、そもそも素でこれの可能性もある。
どちらにしても、率直に言って青元には接し方がわからない。けして女に不慣れと言うわけではないのだが――自分ではそう思っているのだが、そもそも鄭玉柚という女人は世間一般でいう女とは違うと思わざるをえない。女ながらに貴族家の采配を取っているのだから当然ともいえるのだが、青元はそれだけではない何かを感じてもいた。
なんともいえない気持ちで黙していると、彼女はややじれたように目線を上げて。
「何か?」
「いや。何でもない。それより、書院と申したな。一応言っておくが、小説だの草子だのは書院にはないぞ」
書院に収められているのはいわば専門書であって、暇つぶしに読むような軽い読み物を収めておくところではない。軽く眉を上げるようなしぐさで玉柚が応じた。
「もちろん、存じております。でなければわざわざ頼みはしません」
「書を――読むのか?」
「それが何か?」
その反応に、しまった、と青元は思った。あまりにも軽すぎる、仮にも当主だという人間に言う言葉ではなかった。侮ったと思われても致し方のない言葉だ。世間一般の女人とはかけ離れていると、つい数瞬前に思ったばかりだというのに。
ただ玉柚の機嫌を損ねた――少なくとも自分がそうと感じたそれ自体を、なぜ失態と思ったのかは青元自身でさえよくわからなかった。
「す、すまない」
「何がです?」
「いやその……侮ったように聞こえたとしたら、謝る」
ふう、と玉柚は短く息をついてみせた。
「まあ、いいですよ。そういう反応も慣れたものです。久々でしたけど」
「悪かった」
「もういいですと申し上げてますが」
「……で、何が読みたいのだ?」
「そうですね。あまり見かけない書籍でも、国帝陛下の書院にならあるかなって。暇なうちに出来れば読んで置きたいので」
反応からは、本当に機嫌を損ねたかどうかはうかがえない。
それどころかしゃあしゃあと自分の今の境遇を暇と言ってのける玉柚に、青元は若干の頭痛を覚えながら訊ねる。
「例えば?」
「『農林全鑑』、『結目本草』、あと『土工通書』も欲しいな」
「……何をする気だ」
書名を聞いて、思わずそう反応していた。
順に農学の書、薬の書、土木の書だ。確かに大々的に出回るような書ではないが、鄭家ならば買えないものではないはずだ。
「量がねえ」
彼女は問いにそう答えて肩をすくめて、青元は自分の失言をふたたび認めざるを得なかった。
先ほど彼女が挙げたものは、どれも複数の巻からなる典籍だ。半分以上は自分から引き籠もっていたようなものとは聞くものの、幽閉に近い扱いを受けていたという彼女が部屋に軽々と持ち込めるものではない。
「それに何をする気って言ったって、書名まで聞いたのですからだいたいお分かりになるのでは?」
農書に土木、それに医書とくれば、それは青元ならずとも何を考えているかなどわかる。領主として領地の殖産を考えるというのは当然で、青元は玉柚のことを少し見直しもした。
だが一方で、帝としては大貴族が殖産に力を入れることを手放しでは歓迎できないのもまた確かだった。貴族の領地が富めばそこから上がる税も増える。しかしそれは、同時に貴族の懐にも入るのだ。
国帝たるもの天下万民を富ませねばならないというのに、貴族の領民にはそれを認めがたい――などというのは皮肉を通り越して悪い冗談のような現実で、それに忸怩たる思いはもちろんある。
しかしそれをもって足元をすくわれた例など史上にいくらでもあるし、青元にとって玉柚はそういう意味でも警戒を持ってあたるべき相手だった。
「警戒する気持ちもわかるけれど――」
黙ったままの青元に、呆れたような声がかかる。玉柚のその顔は先ほどから一転して、面白いものを見るような瞳に変わっていた。
「陛下の臣下として諫言させていただくけれど、それよりも先にあなたにはやることがあるのでは?」
「その諫言とやら、書院の中で聞いてやる。……ついて来い」
やや乱暴な言い方になってしまったかと少しだけ省みる。しかし、庭に向かって開けた、誰かが通るかもしれない廊下で諫言を受けたいなどとは思えなかった。――そもそも、諫言を受けるつもりになっていることが自分でも意外だったのだが。
玉柚はおとなしく従った。
「いいのですかー? 二人きりになってもー?」
「大声を出せば扉の前の番兵に聞こえる。それ以前に司書もいるがな」
「なんだ、つまらない」
書院に入るなりそんな会話を交わす。
企んでいた悪戯がばれた子供のような口調で玉柚は口を尖らせる。冗談で言っているのだろうとはわかるが、嬉しくない冗談でもある。
「まあいいや。こうして連れてきていただいたことですし、先ほど私を見て呻いたことは水に流して差し上げましょう」
「その格好を見て一瞬でも引かない人間がいたらむしろその勇を讃えたいぞ、俺は」
「んー。いつも通りの格好なんですけれどね?」
黒尽くめの人間がいきなり廊下に表れたら驚くはずだ。それほど誰もが豪胆ではない。
農書の棚はそこだ、と示してやると、玉柚はおやという顔になった。
あえてそれを無視して、青元はどかりと椅子に座る。司書が運んできた茶杯を受け取ると、指に快い冷たさが当たった。
「さっきの話の続きだがな」
「そんな無用な警戒をするよりもやることがあるんじゃないでしょうかね」
切り出した瞬間、途中をすっ飛ばした答えが返ってきた。虚飾を省いた話の早さは好ましいが、これでは苦労もするだろう、となんとなく思う。
――なぜ俺が思いやってやらねばならんのだ、こいつを。
「余が警戒していると?」
内心のほのかな苛立ちが、いくらか声に出てしまったような気もした。
「貴族が富みすぎたら国帝に従わなくなると思ってるんだろう? そのうえ反乱を起こされるんじゃないか、とかね」
「ならば――」
「国がそれに先んじればいい」
「何?」
青元は玉柚を見た。睨むように、と形容したほうがいい鋭さだったかもしれない。
しかし相手は柳に風と受け流す。あくまで自然体を崩さない。
「この書院を、あなたの書院を見られませ、陛下」
「ここを?」
「この書院こそあなたの智にして財。しかし智も財もあるだけでは意味をなさず、使ってこそ意味がある。――もちろん書物だけでは駄目で、実践も必要なんだろうけど」
息を継ぐ。気合を入れるというわけでなく、むしろゆらりと立つその四肢に余計な力は少しもかかっていない。
「どっちにしても、貴族が富むよりも早い速さで国が富むのならみんな国の方につく。国が貴族に先んじて富めば、貴族の少しの富など問題にならなくなる。そのために国の智をこうやって集めてるんじゃないのかい?」
ばっと腕を広げて書棚を示してみせる。舞台女優のようなそのしぐさが、しかし少し嫌味なほどに似合ってもいる。
そしてその言葉が正しいことも、やはり青元は認めざるをえない。たとえ帝相手に直接話を交わすような不躾であってもだ。
苦い味を、口の奥に感じる。
「数えるほどしか言葉を交わしたこともない相手、それも帝に教えを垂れる、か」
「この程度でいいならいつでもご進講を献じましょう。専門でもない小娘のこの程度の進講でいいと仰せならね。それよりもここの書物を読んだほうがよっぽどいいとは申し上げておきます。……ま、貴族相手の暗闘に興じられるよりは有意義だとは思うけど」
どこか醒めて投げるような答えに、書院の書物を読んでいると答えれば読んでいてその程度かと、読んでいないと答えれば智と財の無駄だと言われそうだ、などと先回りするように思う。
喉元にある正論の味をごまかすように、青元は茶杯をあおった。
「諫言はそれで終わりか?」
「まあ、だいたいは。重ねて申し上げさせてもらうけれど、主上がやらないならこちらが先にやるだけだよ、と。帝がどうであろうと貴族ってものは私腹を肥やすんだから。そして、貴族だって伝来の土地に胡坐をかいて座っているような奴らばかりじゃあない」
気づけば意外に近くに玉柚が立っていた。椅子に座ったまま、自分よりも小柄なはずのその体を見上げる。
黒い袖口から伸びた細い手と指が、やけに白く目に映えた。
「お前がそうであるように、か」
「否定はしないけどね。……ところでついでにお聞きしたいのですが」
「なんだ」
「艶本は?」
いきなり語調が変わったから何かと思えば、である。
書院にあるかそんなもの! という言葉を青元は辛うじて飲み込んだが――あまりの落差の酷さに、続く言葉が出てこない。
目の前の女を見直したような気もしたが、その三倍は苦手になったような気分だった。
2ヶ月以上経ってたとかそんな馬鹿なことが――あばばb。
そして間章です。主人公夫婦出てません。メインはお兄さまです
文量が思ってたより多くなったので本編のナンバリングするかどうか迷いましたが、一応間章と言うことで……。
次話から新章 第5章『重陽』編となります。ストックを作ったので数日中には出ますたぶん。
よろしくお願いします。
あと、4章の登場人物紹介は後日挟む予定です……一応は……。