九十九、 正妃の条件
采嬪が下がっていった後。
来客と会うために一度着なおした上着を解いて、ぱたりと牀の上に寝転ぶ。
「言いたいことがあるのなら、言ったら?」
だらしなく突っ伏していると、そんな言葉が投げられた。
「え?」
「天香のことだもの。わかるわよ」
「……なんであんなにあっさり認めちゃったんですか?」
「わたし達に仕えたいってことを?」
そうですよ他に何があるんですか。と開きかけた口を閉じる。
そんなことは、言わなくたってわかっているはずだ。
「断れって言うの?」
「そこまでは言わないですけど、釘を刺しておく、とか――」
「釘って?」
「……だって、いいんですか? あの人、私たちをダシにして、陛下に近づこうとしてるだけかもしれないんですよ?」
「そうでしょうね」
「って、そんなあっさり!」
上手く言葉が継げなくて攻め口を変えて、そこにさらりと返される。天香は思わず腕をついて上体を起こした。麗瑛は軽く笑って、その傍ら、牀の端に腰を下ろして言う。
「いいじゃない。あれくらいわかりやすいなら」
「わかりやすい?」
「それこそ天香が気づくくらいにはね」
「う」
思わぬ切り返しが来て、言葉に詰まる。
「お兄さまの沙汰、明日には妃嬪みんなが知ってるでしょう。しばらくは謹慎でお兄さまのお渡りも当分は無し。ただでさえ元から居づらかった李妃派にはもっと居づらくなる。だからこそ、失った点を取り返すためにわたしたちに近づいて、少しでもいい評価を得ようとする――とってもわかりやすいじゃない。それに」
「あわよくば陛下と顔を合わすこともできるかもしれない?」
天香が言葉を引き取ると、わかってるじゃない、と麗瑛は頷いた。
「で、それの何がいけないって天香は思うの?」
「だって――」
まるで踏み台のようにされるのは嫌だし、そんな彼女を後押ししているように見られるのも嫌だ。
そう思う一方で、少しだけ冷静な頭のどこかでは、公主に取り入れば帝に近づけるように思われては他の妃嬪に示しがつかないし、歯止めが利かなくなるのでは、などと考えてもいる。
それとも麗瑛は、采嬪が義兄の寵を得るにふさわしいと認めたのか。とてもそうは思えないが。
そんな言葉が天香の頭の中ではぐちゃぐちゃと回っていた。
「お兄さまの寵を得たいと思っているのなら、それくらいの手を打って巻き返しを図るのは妥当じゃない? まあ、ここまで急に話を持ってくるとは思ってなかったけど」
青元の沙汰が下りたその足で蓮泉殿を訪れたというのだから、機敏ではある。
いやもしかすると。と、脳裏に可能性が閃く。
「もしかしたら――もっと前から、隙あらば李妃を出し抜こうと身構えてたとか」
「まあ、ありえなくはないわね。わたしたちのことをあまり伝えなかったっていうのもそういうことかも」
「じゃあ、まんまと采嬪に乗せられたって事じゃないですか」
正直なことを言えば、采嬪という人がそこまで臨機応変が利くとは思っていなかった。
好奇心が旺盛なところがあって、噂に敏感なところがあって、ホイホイと外に無断外出するような粗忽なところもある。そうは思っていたけれども、そんな彼女が初めて見せた積極性というか果断といえばいいのか。天香からすれば、してやられたという思いもいくらかある。
「でも逆に言ったら わたしたちに仕えるなんて言ってしまった以上、今後はわたしたちを出し抜くなんてできないと思わない?」
「そうかもしれませんけど」
「それに、もし彼女がまんまとわたしたちを乗せたと思っていたとしても、よ? そんな簡単じゃあないわ」
麗瑛はにこり、と言うよりもにやりに近い笑みを浮かべる。だというのに、その口元に浮かんだ笑みは小憎らしいくらいに慕わしい。
「お兄さまの彼女への心証なんて、今回の一件でただでさえ相当悪くなってる。それを取り返そうって言うだけでもかなり大変でしょう?」
「確かに……」
「いくら近づく機会だけ得られたって、あの頑固な馬鹿兄を落とすのは並大抵じゃできないわよ」
青元は妙に意固地になるところがある。まつりごとに関してはよく知らないけれど。まあそれは麗瑛も似たようなところがあって、天香から言わせればその対処もわかっている。ちょっと目先を変えた視界外から少し一撃を加えればいい。
ただ最近の麗瑛はあまりそういうところがなくて、むしろ自分がやり込められるような展開ばかりで少し口惜しいところもあったりするが。
それはそれとして。
「落とすってそんな」
「それくらいの気概を見せてほしいって話。そういう意味ではむしろ好ましいくらいよ」
「好ましい!?」
天香は反射的にさらに身を起こした。ついていた腕を払って、完全に牀上で座り込む格好。さすがに胡坐をかくのははしたないから、そこまでは行かない横座りに膝を折る。
そんな反応に対して麗瑛は逆に一つ、腰を浮かしてすり寄って、結果さっきよりも近い位置で二人は向き合うことになる。
少しどきりと胸を衝かれた天香をよそに、麗瑛が切り出した。
「ねえ天香、正妃に必要なものって何かしら?」
唐突な問いに天香は戸惑う。瞬時、呆気に取られ――気を取り直して答えを探す。
「正妃、に、選ぶとしたら――」
まず思いつくのは、美貌。
これはむしろ後宮の妃嬪なら誰だって、ある程度どころではないくらいの面貌の持ち主だ。洪妃の華やかさはどこでも目を引くが、李妃だって品の良いだけではない清冽さを持つ。華やかさだけなら南方出身の郭嬪も負けてはいないし、北方育ちの劉嬪は異国の血が入った面影が目立つ。旧友である楊嬪こと迦鈴も小花のような佇まいで麗しい。要するに青元の好み次第ということでもあるし、正妃がどうという決め手ではないだろう。
では教養、あるいは立ち居振る舞い。
今いる妃嬪はもちろん、これから先新しく誰かが入ってくるとしても、妃嬪になる基準として礼儀作法は皆それなりの物を身につけている。もしも身につけていなくても、それこそ女官長かその配下の礼法に詳しい人が教えるだろう。天香自身細かいところを教わりもしたし、場合によっては天香たちにお鉢が回るかもしれない、とその時言われてもいる。
周囲の人への接し方。
うん、これは少し他のものより重要な気がする。立ち居振る舞いとも被るところもあるとはいえ、正妃となればその挙措の評価は帝の評価にも連なる。逆ではないところに思うことがないでもないけれど、それはさしあたって今は関係ない。
もしくは、実家の家格。
けれどもこれは、たぶん一番重視されない。むしろ青元ならば、家格で選ぶことを良しとはしない。それに歴史上にはそれこそ宮妓から正妃に上った人間もいるというし。
対して、麗瑛の放った言葉はとても簡潔なものだった。
「一番大事なのはね、お兄さまの信よ」
それは天香があれこれと考えていたのをひっくり返すような答えで。
がくり。と身が傾いでしまうような感じがした。
正直、と前置きして麗瑛が続ける。
「お兄様はあまり女の方が、いえ、後宮が好きではないじゃない? まあ、だからと言って男に走ってるわけでもないけれど。まずそこから切り崩していくような人がいればいいのに、ってわたしはずっと思っているの」
「それが采嬪だと?」
「やけにあの人にこだわるわね」
「だって」
「別にあの人でもそれ以外でもいいわ。寵を争うといいながら妃の後ろに隠れてばかりの人たちよりは少しはマシってだけよ」
辛辣ではあるが、天香としても頷かずにはいられない。
例えば李妃の侍女のように振る舞うだけの寧嬪。李妃に取り入って持ち上げることばかり考えていた徐嬪。あるいは洪妃の後ろをくっついて歩いているような印象しかない蘭嬪。洪妃派でいえば海嬪や陳嬪も、やはり洪妃を押しのけるような気概を見せるような人物ではないと思う。どちらの派閥でもなくひっそりと過ごしている迦鈴は――青元から直々にああいう振る舞いを認められたとか言っていたか。
両妃の背後に隠れているばかりではないといえば、李妃派では采嬪(今回の一件で抜けると宣言したけれど)、洪妃派では陸嬪がそれぞれ妃を押しのけてでも、と気合を入れている人たちか。自分は売り込みのついでなどと公言している郭嬪は、ついでとは言っているけど狙っていないとも言っていないので保留。劉嬪は……正直よくわからない。
以上現在十二名の妃嬪、その中で本当の意味で寵を争う気があるのは四人か五人しかいないことに、天香は改めて気付く。
「じゃあ、まず主上の寵を得ないと始まらないと?」
「寵愛じゃないわ。信頼よ」
きっぱりと言い切る口調にためらいはなく、それは長い時間をかけてこの事を考えていたのだろうと天香に確信させた。
当然だ。単純に言って自分よりも長く後宮で暮らしていたのだし、そして義兄が即位して以来はその後宮を差配することも決まっていた。天香よりもずっと長くそして深く、正妃の問題を考えていたのだろう。自分が泡を食ったり顔を赤らめていたり幽霊におびえていたりした間もずっと。考えてみれば当然以前に自明で、当たり前の話だった。
「天香はさっき選ぶとか言ってたけれど、お兄さまがそれを是としないなら意味がないのよ? 妹かわいさで私たちの言うことを何でも聞くとは思わないほうがいいわ。それはお兄さまにも失礼だもの」
「そのわりにはいつも色々と……」
「あら、最初からはねつけられるようなことは頼んでないわ?」
なんとなく入れてしまった余計な茶々は平然と返され。
それだけ信頼関係が強いのだ、と呼ぶのは褒めすぎのような気もする。
「どれだけ正妃にふさわしいと推戴しても、それをはねつけられたらそこまでじゃない。お兄さまはこの国の主なんですから」
「その御前で面と向かって選ぶとか言っちゃったじゃないですか。それに瑛さまだってあのとき同意したはずでしょう?」
それなら最初から言ってくださいよ、と天香は愚痴る。
自分でもわかっているとおりの八つ当たりで、しかしそれもふわりと受け止められる。その反応さえわかっていて八つ当たるのは、信頼なのか、それとも甘えなのだろうか。
「わたしは選ぶなんて言ってないわ。見極めると言ったのよ。お兄さまの信を得られそうな人かどうか」
「選ぶと何が違うんですか」
「あら、機会は与えてるつもりよ? その機会を自分から物にするくらいの人の方が好ましいわ」
「だから采嬪の件もあっさりと承諾した?」
「そういうこと。もちろん、後宮を無用に乱すようなことをするなら別だけれど。――わたしは、お母さまのような人が出るのは嫌だもの」
麗瑛の母。貴族家に生まれ後宮に入り、帝子と公主を設け、それでも後宮内の争いに負けて城下に出されたひと。
麗瑛を産んだ後も体調を崩しがちで、そのまま儚くなったひと。
もちろん、青元もそれを考えていないわけがない。だから後宮に熱を注がない。何度か触れた気もするけれど、言葉は悪いが妹達に丸投げしている。
「だから、わたしの考える差配というのはね、別にわたし達が正妃を選ぶなんて意味じゃない。あのお兄さまが正妃を選ぶ気になるように、後宮を整えておくこと。無用な乱れは出さない。だってそんな者はお兄さまの信を得られない、得られるわけがないから」
ここで一息を入れて。
「そして最後には、後宮をその正妃に任せられるようにしなくちゃいけない」
そうだ。
麗瑛と天香が差配を任せられているからと言って、それはすべてを意のままにしていいという意味ではない。
あくまで正妃が選ばれるまでは、であって、その後は正妃が後宮を差配するようになる。
そういわれても、天香の中ではやはり釈然としないものはある。だから彼女の言葉にはすべては頷けない。
少なくとも、李妃と洪妃の派閥がやり合っている現状くらいはどうにかしなければいけないのではないか。そう思えて仕方がない。
もちろん自分が揉め事とかそういうものが苦手というのもある。けれども加えて言ってしまえば、それは麗瑛の思いにも相沿うものになるのではないか。
そう考えれば――目指すものも見えてくる、そんな気がする。
「えい」
ぎゅうっと心地よく締め付けられる感覚と共に、麗瑛の体温が背中にじわりと広がる。
「なんです?」
「拗ねたかと思って」
「拗ねるなんて。考えていただけで」
締め付けの感触が強くなる。
ふわりと背後から漂う香りは、甘く蜜のように天香の体を包む。
「天香ならできるわ。わたしと天香ならできる。――ううん、できなくてもわたし達なら大丈夫」
「出来なくてもって、やる前からそんなこと言わないでくださいよ。怖いじゃないですか」
「じゃあ出来るように頑張りましょう。もちろん二人でよ?」
ぱっ、と麗瑛の体温が離れるのを、背中全部で感じ取る。隙間に入り込む夜風が恨めしい。体温など、閨で隣に寝ればいつでも感じられるのに。
「やる気は出た?」
「やる気なんかいっつも出てます」
抱きしめられてやる気を出すなんていかにも他愛も無いと思われそうで、ついでに何かの前例にもされそうで、バレバレとわかっている見栄を張った。いや前例になるのは悪くはないかもしれないけどそれでも。
そもそも抱きしめられる前にやる気は起きつつあったんだからこれは見栄でも嘘でもない、と誰に向けてのものでもない弁解を心の中に抱く。
「じゃあやる気が出ている天香にお仕事よ」
「はあ」
「重陽の宴にはおばあさまもいらっしゃるから、ご挨拶しなくてはね?」
おばあさま。オバアサマ。お婆様。お祖母さま。
麗瑛の祖母ということは、つまり青元の祖母でもあり、そして宮中の宴に呼ばれるだけの地位にある人間。
それに思い当たるのは、一人しかいない。
「おばあさまって……太皇太后さまですか!?」
思わず出てしまった素っ頓狂な声は、精緻な窓枠の向こうの宵闇に溶けて消えた。
以上で四章は完結です。この後はいつも通り?登場人物紹介を挟んで五章を始めます。
閑話を一個挟むかもしれませんが、上手く書けなかったら流します。
今月中に五章一話を投稿できればいいかなって。なんか前も似たようなこと言った気がするけど気にしない。
というか、四章だけで1年以上(ブランク含め)やってたんですね…展開と筆が遅くて申し訳なく。
そして…なんと総合1000ポイント越え!ついさっき気付きましたありがとうございます!
まさかすぎてなんか言葉とか思いつきませんがありがとうございます!(語彙力ー)
これを励みに今後も頑張りますのでよろしくお願いします!




