一、 赤縄 前
夕刻に差し掛かった琳国の都、鷲京の大通りを、馬車が進んでいく。豪奢華美ではないがけして粗末ではない。それなりの材と質をもって造られた馬車だ。
はぁ、と。
その馬車の中で、白天香はひとつため息をついた。
いや、別に深刻な悩みがあるわけではないのだけれども。
窓の外に目をやれば、仕事が終わったというていの人々が家路に、あるいは酒楼に、またあるいは夕市にと歩いていく。その波に逆らうように、あるいは横断するように、天香ただ一人を乗せた馬車は歩を進める。
それから視線を自分の体に落とす。細かく言えばその白天香、芳紀十七歳の体を包む衣装にだ。
白絹の重ね衣と、紅の布に金糸を使った帯という伝統的な装い。さらに白の薄紗を顔の前に垂らすのは、異国から伝わり十年ちょっと前から広まったものだ。
「似合わない」
そう思う。口に出したことでもっとそう思う。正確には、衣装に着られているようだと思う。
これから向かう先の、いや人のことを考えれば、少しでも着慣れた、正直には一番のお気に入りの服で出向きたい。昼に実家に天香を迎えに来た女官たちに最初はやんわりと、最後はわりと直接的にそう主張してはみたけれど、ついには慣習とやらに押し切られて化粧と衣装を施されてしまったのだ。
その女官たちもこの馬車にはいない。これも後宮入りする際の慣習とやらで、別の馬車に乗り込んでいる。
――公主に嫁ぐ女の前例があるのかどうか、天香は知らなかったのだけれども。
人波にたびたび馬の歩みが鈍るのか、馬車の歩みが遅い。時間が過ぎるのも同じく遅い。目的地についた後のこともいろいろと考える暇ができてしまう。後宮に入る女は皇族に挨拶し吟味されるのだとか、そこで不備があれば実家に送り返されてしまうのだとか、他愛のない噂話をいろいろと。
要するに天香、緊張していたのだ。
誰か話し相手がいれば紛らわせたかもしれない緊張も、今は一人で抱えざるをえない。
彼女の普段を知る人々なら珍しいと声をそろえただろう。子供の頃から物怖じしない子でご町内の有名人だった。公主院に通っていたときでさえ何かに緊張するそぶりは見せなかったし、半期ごとの査試でも、その優秀者を集めて行う宮考査でもそうだった。
それが自分の嫁入りとなるとこうである。
新任の官吏が初登城を前に大門の前で気を整えるなどと言うのは都の住民にとっては風物詩扱いされるような光景だし、地方より上京した地方官、あるいは一般のおのぼりさんでも同じだ。
しかし都生まれの都育ち・当年とって十と七歳、帝城の中に位置する公主院に三年と半期通った天香なのだから、別に帝城に上がることに緊張しているわけではない。後宮自体でさえ、まったく行ったことがないわけではないのだ。つまり問題は場所ではなくそこで待つ人にあり、
「ひめさまが悪い」
そう天香はひとりごちた。独り言と言うには少し声が大きかったような気がして、御者に聞こえてはいないかと少し心配する。
もちろん八つ当たりもいいところだということは自覚している。いや突き詰めれば理由の一端かもしれないが、緊張の主因はもちろん天香自身にある。
公主のことを想うだけでつい平静を逸してしまうのだった。
つまり悶々としている。
「ちがっ……私は!……いや少しもないとは……じゃなくて!」
悶える声が先ほどの独り言よりも大きいことにも気づかない天香を乗せて、馬車は大門をくぐる。
***
鷲京の中央大道の突き当たりにそびえるのが市街地と帝城とを隔てる大門である。装飾は国帝の居城の正門らしく壮麗だが、名前はなぜか素っ気なくただ大門とだけ呼ばれている。この大門より内側が帝城の敷地となるが、後宮にたどり着くにはしばらく時間を要する。『後』宮と言う名の通り、帝城の正面、つまり大門の側から見て一番奥にそれはあるからだ。
具体的にはさらに門を三度橋を二度通り、最後に後宮へとつながる唯一の門を通る。大門以外の全ての門で衛兵に止められ、その都度開門の手続きを繰り返す。
公主院時代には通ったことのない経路、したことのない手続き。正式な後宮入りなのだという実感が、先ほどまでよりもさらに増して感じられる。
最後の関門――文字通りの意味で――後宮正門である録明門をくぐれば、そこは国帝とその家族、またその妃たちの住まう内廷六殿の中である。
そのうちの一つ、蓮泉殿の前に、馬車は静かに止まった。衛士が取り付き、馬車の扉が外から開かれ、殿前に灯されたかがり火の光が馬車の中に差し込む。そして白い衣装に身を包んだ女が降り……なかった。
その光景を見て、ひとつの人影が馬車へと近づく。その口元には抑えきれない笑みが浮かんでいる。
「――で、わたしのお嫁さんはいつ出てきてくれるのかしら?」
笑いを含んだ声が、馬車の中に投げかけられた。
天香の鼓膜を震わせたその声は、鈴を転がすような、という最上級の褒め言葉である形容詞を使いたくなるほどに、可憐で、芯があり、心地よく、軽やかで……惚けたような頭の中で天香は考えたが、終わりが見えないので以下割愛。
ともかく、殿前に灯されたかがり火を背にして微笑む少女が、馬車の中の天香を見つめていた。
もちろん、天香にはそれが誰かわかっている。
琳国当代国帝の唯一の妹公主、江麗瑛殿下。
天香の嫁ぐその人だ。
目を引いたのは、彼女の着る衣。
白絹の上下に紅布に金糸を使った帯、そして白の薄紗。つまりいま天香自身が着ているのとまったく同じもの。
婚礼衣装だった。
おそらく化粧も同じように施されているのだろう。
でも、と天香は思う。
どう考えても衣装に着られているような自分と比べてなんという格差。嫁入る娘が誰でも着るような衣が、まさに麗瑛ひとりのため今この時のためだけに考案されたような特別製に思える。布の質はともかく、装束そのものの意匠は同じもののようなのに、着る人によってこうも似合うに合わないに差が出てしまうのか格差社会ってひどいもっと似合う服で隣に並びたかった慣習なんて嫌いだしんじゃえ。
などなど脳内は高速回転しているのに身体はじれったくなるほど動きの遅い天香に向かって、麗瑛は微笑みながら手を差し出した。
ひとつ年下の天香と比べてもやや背が低い。その小振りな、整った以外に表現しようのないかんばせにもどこか幼げな残り香を残している。どちらかといえば大人びて見られる天香とは逆。老け顔とか思ったやつは表に出ろ。いやここもまだ表だ。何を考えてるんだわたしは。天香は混乱している。
それでもやっと思い出した次第に従ってその手を取る。触れ合った場所から緊張に強張っていた指が手が、そして腕が胴が足がほぐれていくように感じる。殿下すごい。天香はまだ混乱している。
天香は麗瑛に手を引かれるまま車を降りる。左右に並ぶかがり火の間を、建物の入り口へと歩いていく。ふたり、手を握り合って。
殿舎の入り口で、公主殿下―麗瑛が言った。
「わたしの、いいえ、わたしたちの蓮泉殿にようこそ。それと」
耳元にくちびるが近づく。紡がれる言葉が鼓膜を、吐き出される息が皮膚をくすぐる。
「衣装、よく似合っているわ。わたしの天香」
刹那。その言葉に、すとん、と心が落ち着いた。天香自身が驚くくらいに。かがり火に炙られた頬が熱い。
「……あっ、あり、ありがとうございます。殿下」
「天香?」
「はっ、はい?」
困ったような声色、軽く寄せられた形のよい眉に、今の一言でなにか粗相をしただろうかと天香は惑う。
「そんなかわいい真っ赤な顔で照れないで?」
その言葉に、握っていない側の手を自分の唇にやれば、そこは自分でも気が付かないうちに柔らかな曲線を描いていた。