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光のもとでⅠ 第七章 つながり  作者: 葉野りるは
本編
6/62

06話

 目が覚めたのは三時半だった。

 ゆっくりと身体を起こし、サイドテーブルに置いてあったハーブティーを口にした。

「……さっきと違うお茶」

 ミントティーだ。

 口の中がさっぱりして、わずかに感じる清涼感が清々しい。

 もう一度横になり、簡単な足のストレッチをしてからベッドを下りた。

 目的はピアノ――。

 間宮さんが使っていたピアノと言われると、未だに手が震えるし自分が弾いてもいいのだろうか、と考えてしまう。

 それでも、惹かれる……。


 リビングへ行くと美波さんが雑誌を読んでいた。

「あ、起きた?」

「はい。あの、栞さんは……?」

 見渡した限り、このフロアにいそうにはない。

「お買い物。四時には帰ってくるんじゃないかしら?」

 言いながら、美波さんは掛け時計に目をやった。

「美波さん、拓斗くんは……?」

「今日はサッカーの日だから帰ってくるのは六時過ぎよ?」

「それが何?」という顔をされた。

「いえ、とくには……。あの、ピアノを弾いてもいいですか?」

「どうぞどうぞ! 静さんが絶賛してたっていうから聞いてみたかったの」

 静さんの前では一度しか弾いたことがないのに……。

 指鳴らしにハノンをいくつか弾き、手があたたまったところで即興演奏を始めた。

 相変わらず、指が感じる鍵盤の感触は重い。

 私はこの子の本当の音は鳴らせていない。もっと音量の出るピアノなのに、その半分も出せていない気がする。

 この子はもっと力強い音が出せる子なのに……。

 どれだけ体重を乗せるように弾いても自分が想像しているような音を鳴らすことはできなかった。

 なんだかこれだけ弾いているのに不完全燃焼だ。

 自分の演奏に不満を感じ、弾くのをやめては唸ってしまう。

 音をひとつひとつ確認するように弾いてみる。

 ピアニッシモから徐々に徐々に、ピアノ、メゾピアノ、メゾフォルテ、フォルテ、フォルテシモ、フォルテシシモ――。

 だめだ、全然足りてない……。

 指の力、腕の力、身体の力。何を取っても今の私にはこの子と対峙するだけの体力がないんだ。

 それに気がつくと一気に疲れが襲ってきた。


「翠葉ちゃんってまるでピアノと会話してるみたいね?」

 突如聞こえた声にびっくりする。

「……いつから?」

 美波さんがピアノに身を乗り出してこちらを見ていた。

「ん? 結構前よ? やっぱり気づいてなかったんだ」

 と、笑われてしまう。

 美波さんはピアノから身体を浮かすと、

「ちょっと待っててね」

 と、キッチンへ入っていった。

 ピアノの蓋を閉じラグの上に座って待っていると、お茶とゼリーが出てきた。

「はい、ローズヒップティーと栞ちゃん特製のコラーゲンたっぷりゼリーよ!」

 みかんのゼリー……。

 透明のガラスの器に入っていて、見た目がとても涼しげなゼリーだった。

「本当はね、お買い物は私が頼まれたの」

 その言葉にはっとして顔を上げる。

「今は翠葉ちゃんの側を離れたくないから、お買い物頼まれてくれませんか、って。でも、断っちゃった。私が翠葉ちゃんとお話をしたくてね」

 美波さんはどこかいたずらっ子のように笑う。

「……どうしてですか?」

「んー、言いすぎたかなぁ……と思ったわけです。私、一応考えてから話してるんだけど、時々ストレートな物言いになりすぎることがあるってよく怒られるの。昨日も夜夫に怒られちゃった」

 昨日――あぁ……。

 思い出して首に手を伸ばすと、指先がぬるっとした。

「え……?」

 恐る恐るその指を見てみると、

「やだ、翠葉ちゃんっ。ちょっと見せてもらうわよっ!?」

 指先についたのは赤い――血だった。

 美波さんは髪の毛をそっと持ち上げ、

「栞ちゃんから聞いてはいたけど、お風呂上り、ここまではひどくなかったはずよ? 寝てる間に掻いたの?」

 言われて爪を見ると、茶褐色のものが詰まっていた。もしかしたら枕にも血液が付着したかもしれない。

 でも、ピアノを弾いているときには気づかなかったし、白い鍵盤も汚れることはなかった。

 唖然としていると、

「まずは髪の毛まとめちゃうわね」

 美波さんは自分の髪の毛をまとめていたバレッタを外して私の髪の毛をまとめてくれた。

 次に携帯を手に取る。

「美波よ。今すぐ救急箱を持ってゲストルームに来れる? ――お願いね」

 通話を切ると、

「秋斗くんにつけられたキスマーク、そんなに嫌だったの?」

「……つけられたときはよくわからなくて、でも、人に見られたり、自分で鏡を見たらどうしても消したくて――」

 それ以上のことは口にできなかった。まだ、そこまでしか思考がたどり着いていなくて。

「そっか……。まずは傷の手当をしちゃおうね。それから、髪の毛をお湯で濡らしたタオルで拭いてあげるわ」

 インターホンが鳴ると、玄関のドアがガチャリと開き人が入ってきた。

「美波さん、救急箱です」

「おっ! 葵くん、サンキュ!」

「……翠葉ちゃん、それどうしたの?」

「はーい、ストップ! コンシェルジュなるもの住人のプライバシーには介入するべからず。用が済んだらとっとと去るっ!」

「……スミマセン」

「あのっ、高崎さん……ちょっと擦っちゃっただけなの。だから大丈夫です」

「……そう? ならいいけど……お大事にね」

 高崎さんはこちらをうかがいながらゲストルームをあとにした。

「あと、もう一ヶ所……」

 美波さんは再び携帯で電話をかけ始めた。

「あ、湊ちゃん? ちょっと教えてほしいの。擦過傷の手当てなんだけど。――了解。湿潤療法でいいのね。――それはまたあとで」

 訊きたいことだけ聞いて通話を切るのはさっきと同じだった。

「さて、精製水で傷口きれいにするわよ」

 声を訊いた途端に、首にひやりとした感覚が走る。

 水が沁みることはなかったけど、水を拭き取るガーゼを軽く押さえられると電気が走ったようにヒリヒリした。

「で、これを貼る……と」

 傷口にぺったりと何かを貼られて不思議に思う。

「擦過傷って乾かすんじゃないんですか?」

「今は湿潤療法っていう処置があるのよ。乾かさずに治療するほうがきれいに早く治るの」

「……触ってみてもいいですか?」

「軽く触れるだけにしなさいね」

「はい」

 手で触れると、ビニールのようなものが貼ってある気がする。

「さ、手を洗ってらっしゃい」

 言われてラグから立ち上がった。

 さっき付着した血はすでに乾いてこびりついていた。

 洗面所で手を洗って出てくると、リビングで待っているように言われる。

 少し遅れて洗面所から出てきた美波さんの手には濡れたタオルが乗っていて、髪の毛についた血をきれいに拭き取ってくれた。

「ありがとうございます……」

 人は無意識にここまで掻き毟ってしまえるものなのだろうか。

 別に痒かったわけじゃない。何か感覚に異常があったわけではないのだ。

 逆に、触れればヒリヒリして痛いから触れたくないくらいだったはずで――無意識?

 その言葉にドキリとする。

 私の無意識はいつも自分を傷つけるために働くの……?

「美波さん、爪切りありますか?」

「……あ、そうね。切っておいたほうがいいわね」

 きれいに整頓された救急箱の中から爪切りを取り出し渡された。

 ほとんど切る必要がないほどの長さ。それでも切る……。

 そうでもしないと、また爪で引っ掻いてしまいそうだったから。

 無意識の自分が何をするかなんてわかりようがない。

 栞さんが私をひとりにしたくないと思ったのはどうしてだろう。

 もしかたしら、こういうことを想定したから?

「あとで日焼け止め防止の手袋を持ってきてあげるわ。そしたら、一応カバーになるでしょう?」

 そんな話をしているところに栞さんが帰宅した。

 どうしよう……。自分を傷つけないって約束したのに――。

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