16話
昨夜は蒼兄と唯兄が眠るまで付いていてくれた。
そんなにたくさんのことをしたわけではないけれど、いつもとは違う予定が入り、内容の濃い一日だったからか、身体も頭も疲れていたみたい。
寝る前の薬を飲んで横になると、ほどなくして眠りに落ちた。
だから、付き添ってもらったにしてもそんなに長い間ではなかったと思う。
基礎体温を測り終え、ゆっくりと身体を起こし足をベッドの下へ下ろす。と、何かが足の裏に当たった。
「……何?」
足元にはキーホールダーが壊れたような金具と赤い石のはめこまれた小さな鍵が落ちていた。
それを手に取り、何か違和感を覚える。
……私はこれを知っている?
どこかで見たことがあるような……。でも、思い出せなくて気持ちが悪い。
気になりつつも鍵と壊れた金具をベッドサイドに置き、学校へ行く支度を始めた。
時間は七時を少し過ぎたところ。
学校に今日から通うと決まったとき、基礎体温計のアラームを一時間ずらしたのだ。
学校に通うなら体力を温存し、少しでも長く休んで身体を起こすタイミングをずらしたほうがいいと思って。
家を出る直前に朝の薬を飲めば、ホームルームくらいは出席できるだろう。
ホームルームにさえ出席していれば遅刻の扱いにはならない。
そのあとは一時間ずつ休憩を挟んで授業を受ける。
無事に乗り切りたい――。
ふと気になってベッドサイドの鍵に目をやる。
……気になる。
そのままにしてはおけず、それらを制服のポケットにしまった。
蒼兄のものではない気がする。……だとしたら、昨日私の部屋へ来た誰かのものだろう。
でも、桃華さんたちが帰ったときにはなかったと思うから、司先輩か唯兄。
一応蒼兄にも確認したほうがいいだろうか……。
そんなことを考えながら部屋を出た。
リビングへ行くと、蒼兄は朝食を済ませてソファで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
キッチンにいる栞さんに朝の挨拶をすると、
「おはよう! 制服、久しぶりね」
と、柔らかな笑顔が返される。
「はい。一週間ぶりなんですけど、なんだか緊張してしまいました。……気分的には新学期みたいな感じ」
昨日、桃華さんたちと会ったことで学校へ行く不安はない。
でも、何かそわそわしてしまうのだ。
栞さんに渡されたプレートを持って蒼兄がいるテーブルへと向かう。
プレートをテーブルに置きラグに座ると、「おはよう」と穏やかな声をかけられた。
「蒼兄、おはよう。唯兄は……? 寝てるのかな? それとも一緒に朝ご飯食べた?」
「たぶん上で寝てる」
蒼兄は天井を見ながら口にした。
そこへ栞さんがホットミルクを持ってきてくれた。
「彼には十時まで起こさないでって言われているの。だからそれまでは放置」
栞さんは肩を竦めてクスクスと笑った。
「湊先生は……?」
「湊は昨日手術した友達が気になるとかで、病院へ寄ってから学校へ行くって言ってたわ」
そっか……手術の翌日だものね。
私はフルーツサンドを頬張りつつ、ハチミツが少し入ったあたたかく甘いミルクを口にする。
フルーツサンドは昨日司先輩が作ってくれたもの。
バニラの香りがふんわりと優しいクリーム。
甘いものやあたたかいもの。優しい香りがするものたちは、私を穏やかな気持ちにさせてくれる。
そういうものや人が私の周りにはたくさんあって、改めて自分が幸せなのだと実感する。
「翠葉ちゃん、両サイドの髪の毛だけでも結ばない? 本当は髪の毛をアップにしたいところだけど、首の怪我はまだ完治していないものね」
気づけば栞さんは手に櫛を持っていた。
「……お任せしてもいいですか?」
「うん、任せて。保健室で横になることを考えると、両サイドを編みこんで、後ろの髪の毛の下をくぐらせてひとつにまとめるのが無難ね」
言うと、髪の毛の分け目を六対四くらいにしてサイドの髪をそれぞれ編み始めた。
栞さんは手先が器用だと思う。
ご飯を食べながら感心していると、
「翠葉、ほらあともう一口。八時回ったから薬飲んだら出るよ」
「あ、はい」
私は慌てて最後の一口を口に放り込み、ミルクで飲み下した。
その間に栞さんが携帯で電話をかけ始める。
「あ、高崎くん? 今から蒼くんたち下りるからよろしくね」
用件はそれだけだったようだ。
「栞さん、割と近くに駐車場を移してもらったので大丈夫です」
蒼兄が慌てたように口にすると、
「でも、この時期だからね。こんな時間でも車の中はかなり暑いわ。先にエンジン回してもらうだけでも違うでしょ?」
私たちは栞さんに送り出されてゲストルームをあとにした。
エレベーターに乗ると、
「久しぶりだな」
声をかけてくれた蒼兄をちらりと見て、ぎこちなく返事をする。
久しぶりの学校は、やっぱりドキドキしてしまうのだ。
「怖くはないだろう?」
それの指すものは「学校」だろう。
「自分のクラスは怖くない。でも、ほかの人たちは少し怖い」
「……あの四人とクラスメイトがついてるんだから大丈夫だよ。それに、生徒会のメンバーだっているだろ」
いつものようにポン、と頭に手を置かれる。
それにほっとするとエレベーターのドアが開いた。
「おはようございます」
エントランスで出迎えてくれたのは崎本さん。
「「おはようございます」」
「お車はロータリーにご用意してあります」
崎本さんに先導されてエントランスを出ると、今度は直射日光に出迎えられた。
陽射し――光の中だ……。
外気は湿っているけれど風が吹いていて心地いい。
手を翳して強すぎる光を直視する。
あり得ないほどの熱を放ち、すべてのものに光を注ぐ太陽。
私も――私も太陽の恩恵にあやかりたい。お願い、私のことも元気にして――。
高崎さんと崎本さんに見送られてマンションを出た。
学校の駐車場に車を停めると、
「今日は昇降口までついていくよ」
いつもなら断るけれど、今日は少し不安だったからか、断る言葉を口にできなかった。
つい、制服の袖から少し見えるバングルを右手で隠す。
「……気になるのか?」
「……少し」
実のところはかなり、だ。
衣替えがあってから、少しずつ視線を感じるようになった。
誰かに何かを言われたことはないけれど、先日の誕生会でドレスを着た際に、バングルが腕についていることは全校生徒に見られただろう。
そして、それはドレスを着用していたから、ということではなく、普段の制服時にもつけていることはすぐに知られてしまう。
直接誰かに訊かれることはないかもしれない。けれども、訊かれないということは説明する機会もないということだ。
そもそも、訊かれたところで司先輩や桃華さんたちクラスメイトにしたような説明ができるわけでもないけれど。
どっちに転んでも解決できることではないのなら、気に病むだけ無駄なことなのに……。
そうは思っても心は晴れない。
そんなことを考えながら歩いていると、
「翠葉、お出迎えだよ」
と、蒼兄に背中を押された。
え……?
地面から視線を上げると、昇降口には一年B組のクラスメイトが待っていてくれた。
中には知らない顔もちらほら混ざっているけれど、その中央には慣れ親しんだ顔、生徒会メンバーがいる。
「待ってたわ」
桃華さんが大きく手を振ってくれる。
飛鳥ちゃんと理美ちゃん、希和ちゃんがすぐ近くまで駆けてくる。
そしてひとりは知らない子……。
身長は理美ちゃんと飛鳥ちゃんよりも少し低いくらいだから百六十五センチちょっとあるのかないか。
三人に囲まれると私と希和ちゃんがものすごく低い感覚にとらわれる。
「翠ちん、この子は美乃っていうの」
理美ちゃんが教えてくれたけれど、「みの」が苗字なのか名前なのかすらわからない。
「理美っ、紹介するならもっとちゃんと紹介してよねっ!?」
その女の子が理美ちゃんをバシと叩くと、理美ちゃんは再度口を開いた。
「C組のクラス委員をしてて、私と部活が一緒の笹野美乃里だよ」
「これからイベントのときには生徒会とクラス委員で顔合わせることも多くなるからよろしくね!」
「御園生翠葉です」
差し出された手を取ると、私のてよりもあたたかい手がしっかりと握りしめてくれた。
「知ってる! だって生徒会役員で姫だもんっ。超有名人!」
そこまで言うと、美乃里さんは声を潜めた。
「申し訳ないんだけど千里に声かけてやってくれないかしら」
センリ……――あ、サザナミくんっ。
「私、謝らなくちゃっ――」
「翠葉」
蒼兄に声をかけられ振り返る。と、蒼兄は穏やかに笑っていた。
「もう大丈夫だよな? 俺、大学に行くから」
もう一度頭に手を置かれ、すぐに大学へと向かって歩きだした。
「今の翠ちんのお兄さん?」
理美ちゃんに訊かれて頷く。
「翠葉ちゃんも美人さんだけど、お兄さんも美人さんだねぇ……」
そう口にした希和ちゃんは蒼兄の後ろ姿をじっと見ていた。
「ホント、何度見ても目の保養になるわ……」
飛鳥ちゃんの言葉に私はクスリと笑った。
蒼兄を褒められるのはいつだって嬉しいから。
「本当……羨ましい限りだわ。あっ、話を元に戻すけど、そのサザナミくんに声をもらっていいかしら?」
美乃里さんに言われて、
「私、謝らなくちゃいけなくて」
と口にしたら、美乃里さんは首を傾げた。
「千里も謝りたいって言ってたけど……いったいどうなってるの?」
説明をするのはちょっと避けたくておろおろしていると、
「千里ーっ、カモーン!」
理美ちゃんが大声で集団に声をかけた。
すると、罰の悪い顔をしたサザナミくんが司先輩に蹴り飛ばされて出てくる。
たぶん、背中に足跡が付いているんじゃないだろうか……。
「サザナミくん、ごめんね。私、あのときちょっとおかしくて、本当にごめんね? 背中、大丈夫?」
サザナミくんの後ろに回ると、背中にはくっきりと靴の跡が付いていた。それを手で払ったら、飛び退くようにサザナミくんが振り返った。
「っていうか、俺がゴメンっ。……もう大丈夫なの? ……その、今、普通に払ってくれたけど」
「え? あ、ごめんね? 靴の跡が付いていたから」
「……そうじゃなくてさ」
サザナミくんが私の手を見ていた。
「……あ」
思わず自分の手を確認するように見てしまう。
「……大丈夫みたい?」
あのあと、ずっと学校を休んでいたから、普段から普通に会話もできて側にいても大丈夫、という人しか周りにはいなかったのだ。
でも……大丈夫、だったよね?
再度自分の手を見つつ、確認するようにサザナミくんに手を差し出した。
「……改めて、よろしく」
こうやって自分から手を差し出したのは初めてかもしれない。
サザナミくんはガラス細工を触るような手つきで私の手を取った。
「……よろしく。……なんか、やっと御園生さんに近づけたって感じがする」
「……ごめんね。私、男子とあまり話したことがなくて、慣れるまでに時間がかかるみたいなの。本当にごめんなさい」
「海斗から少し聞いた。あと、春日先輩からも。でも、いいんじゃん? 少しずつ慣れていけば」
そう言うと、ニカ、と体育会系の笑顔を作った。
「うん、ありがとう」
五人に付き添われて集団のもとへ行くと、生徒会メンバーに声をかけてもらえた。
「待ってたよ」
と、里実先輩。
相変らず砂糖菓子のようにふわふわとしている。
変わったことといえば、髪の毛をふたつに結っていることくらい。
少し幼く見えるものの、それすらかわいと思う。
「写真いーっぱいできてるよ」
そう言ったのは加納先輩だった。
美都先輩は襟足の髪の毛をいじりつつ、「おかえり」と言ってくれ、春日先輩と荒川先輩には頭を撫でられた。
全部がくすぐったい……。
最後、司先輩には「復帰一日目の感想は?」と訊かれる。
私はそれに、「嬉しい」と答えた。
クラスメイトは一斉に「おかえりっ」と口にする。
それに普通に「ただいま」と答えられる自分が嬉しくて、そのままお団子状態で二階の教室まで移動した。




