08 初夏(ⅱ)
本部正面玄関ビルの44階の一室に三坂教官は住んでいる。3LDKの日当たり良好の角部屋。
日当たりと言ってもシェルターのガラス越しの光だけど、最先端技術で極限まで薄く、かつ強靭な防弾ガラス越しの光は実際、直接感じる太陽光と大差ない。
教官はズボンのポケットからカードキーを取り出し、玄関のセンサーにかざす。ピッ、と軽い音が響いてドアは自動的に開き、同時に美味しそうな匂いが漂ってきた。
「んーっ、いい匂い」
「スコーンだけか?マフィンみたいな匂いもする!美味しそう!」
「こら玄関で立ち止まるな。入れんだろうが」
「「はーい」」
2人そろって間延びした返事。教官は呆れたようにため息をついた。
靴をしっかり揃えてお邪魔する。
大きさの違う小さな靴があったということは、つまりあの可愛い2人組もいるということだろう。
部屋の奥から、ひょこっと顔をのぞかせてているのは、ボブカットの可愛らしい女性。ふわふわした雰囲気を纏って、とろけるような笑顔を浮かべている。
「いらっしゃい、藍ちゃん、一也くん」
「「お邪魔します!」」
―――三坂幸那さん。三坂教官の奥さんで、健太くんと駿くんのお母さん。
教官の元バディだから彼とは同い年のはずだが、彼女の方が10歳ほど若く見える。教官だって老けているわけではないし、むしろ鍛えている分若く見えるのにもかかわらず、だ。
「こんにちわ、幸那さん」
「今日はありがとうございます!」
「いえいえ。スコーンと、あとマフィンも焼いたのよ。久々に2人に会いたくってわがまま言っちゃった。急に呼んでごめんね」
「いえいえ!とんでもない!」
河原が得意げな顔をして、耳元で嬉しそうに話す。
「ほら、スコーンとマフィンだったろ?」
「本当だ。大正解ね」
クスッと笑みをこぼすと、それを見た教官はため息をつき、幸那さんは可愛らしく微笑む。
「お前らな…。ほら、さっさと席につけ」
「徹くん、急かさなくていいのよ。でも、早く食べないと冷めちゃうかも」
「じゃあ、ありがたく!」
「ありがたく!ありがたく!」
柄にもなく2人してテンションが上がっている。それほどまでに彼女のお菓子は美味しいのだ。
「そういえば……」
1人だけスコーンもマフィンも食べずにブラックコーヒーだけを飲んでいる教官が、私と河原を交互に見る。
顔を見合わせて首をかしげる私と河原に、教官はもう一口コーヒーを飲んでから問いかけた。
「高等部はどうだ?」
「どう、って……そうですね……」
「あっという間って感じで、でも……」
高等部に入ってから約1ヵ月。
誰が死んだとか、何人死んだとか、そういうことを考えようとして、教官に止められたつい先程。難しいこと考えるなと言っておいて、タイミングを見計らって聞いてくるのが教官らしい。
きっと教官は、今の私なら落ち着いて客観的に分析できるとわかっていたのだろう。
さっきの私だったら、どんどん悪い方へと考えが巡っていたに違いない。それを全て見越した上で今、このタイミングでこの事を聞いてきたのだ。そう思うと、やっぱりこの人の観察眼には舌を巻かざるをえない。
「やっぱり厳しいです。でも、やりがいもあります」
「そうか。……河原もか?」
「はい。正直、結構危なかったこともありましたけど、でも楽しいです」
「そうか。それならいい」
教官は、どこか遠くを見るような瞳で私たちを見る。
「高等部で出会う人は、これから先の軍での活動でも関わってくる人ばかりだ。出会いを大切にしろよ」
その瞳がどこを見ているか、なんて、私たちには知るよしもない。これだけ強いのだから、きっといろんなことがあったんだろう、と毎回一人で納得しているが、本当のところはわからない。
「出会い、ですか」
「……あぁ、出会いだ」
「俺は、今までも大切にしてきましたけどね」
「えー、本当?」
「本当本当!葛西との出会いだって、教官との出会いだって、俺は大切にしてますから!」
「あぁ……そうだな」
河原のこういうところは嫌いじゃない。
恥ずかしくもなるけど、でも思いをちゃんと伝えてくれて嬉しくもあるからだ。むしろ、羨ましいくらい。
「ん?どうした、葛西?」
「ううん……なんでもない」
まあ結局、恥ずかしいから言ってやらないけど。
幸那さんの手作りのお菓子はいつ食べても美味しい。ゆっくりと味わって食べながら、これまた美味しい紅茶を飲んでいると、突然奥の部屋の扉が開いた。その中から顔を覗かせたのは、元気な2人の男の子。
「あ、藍ちゃんと一也!」
「ほんとだー!!」
背が高くて、青と白のボーダーのパーカーを着ているのがお兄ちゃんの健太くん。
少し小さくて、赤と黒のボーダーのパーカーを着ているのが弟の駿くん。
双子か、と思うくらいそっくりで可愛らしい二人組だ。そして、何故か河原だけは呼び捨てにされる。
「おい、せめて一也“くん”って呼べよー?」
「やだ!一也は一也!」
「あいちゃんは、あいちゃん!」
「なんで葛西だけなんだよー」
呼び捨てが気にくわない河原は頬を膨らませ、私のことを恨めしそうに睨む。
「葛西、ずるい」
「なんでよ!」
久しぶりに会ったのだ。構って欲しくて仕方がないのだろう。目線の下でぴょんぴょん跳ねる2人は可愛らしい。
そんな2人と目線を合わせるためにしゃがみこめば、すぐ目の前にキラキラした瞳が現れた。恋する富井じゃないけれど、この子たちの瞳もまた宝石みたいだ。
それにしても本当に近くで見れば見るほどかわいらしい。本当にあの全く可愛くない教官の子供なのだろうか。
「おい、失礼な事考えてないか?」
不意にそんな問いが降って来て、思わず体を固くする。この人、私の心でも読んだのだろうか。
「な…!そんなこと…ありませんけど」
「本当か?」
「……嘘、ちょっとだけ」
「はぁ……お前なぁ」
「嘘つくよりマシです」
「ましです!!」
いっそ開き直ってやろうと思ってそんなことをいえば、教官のもので河原のものでもない幼い声が聞こえてきた。教官と2人、その声の主に視線を移せば、そこにいる健太くんはふふんっ、といった表情で私と自分の父親を見ていた。それがやっぱりかわいくて、教官と2人顔を見合わせて苦笑する。
「ましです!!」
そして、そんなお兄ちゃんのことを真似る駿くんもまたかわいい。
「今日は本当にありがとね、藍ちゃん、一也くん」
「いえ、こちらこそ」
「ごちそうさまでした!」
美味しいお菓子をお腹いっぱいご馳走になり、かわいい子供たちと心ゆくまで遊んだ私たちが三坂家を出る頃には、既に空は茜色に染まっていた。
「はぁ……長い一日だった」
遊び疲れた2人を寝室で寝かせた教官が、遅れて玄関へやってくる。
「長いけど楽しい、ですよね?」
「……勝手にそう思っておけ」
そういいながらも優しい顔をする教官。普段からその顔をしていれば多少は怖さも軽減されるのに、なんてことは口が裂けても言えない。
彼の優しい面を知る人は少なくないけれど、部下からはやはり鉄仮面の鬼上司と思われているらしい。
マンションの廊下から見える空は本当に綺麗な茜色。夕焼けが綺麗だと明日は晴れる、なんてことをどこかで聞いたような気がする。
「茜色、か……」
教官の小さなつぶやきは、私にしか聞こえなかったらしい。数歩先を歩く河原と幸那さんは別の話題で盛り上がっている。
「茜色がどうかしたんですか?」
こっそり尋ねると、教官はなぜか気まずそうな顔をした。その表情はたまに見かけるが、いつもは気にしつつも触れないようにしている。それが正解だと分かっているからだ。
でも、今日はとても楽しかった分、そんな顔をされる筋合いが分からない。自分の子どもっぽい感情が顔を出したようで、思わずムッとしてしまう。
「いや……何でもない」
「……私には、言いたくないですか?」
意地悪なことを言っている自覚はある。でも、許して欲しい。
「なんでそうなる」
「だって……」
(……だって、教官はこの顔をするとき、私のことを別の人に重ねている気がして)
―――なんて、そんなことが言えるはずもなく。
いい年して、存在するかどうかもわからない人に嫉妬してる。そんなの恥ずかしくて、言えるはずがない。
「……いえ、何でもないです」
「……そうか。ならいい」
努めて平静を装えば、教官もそれ以上は追求してこなかった。
それがありがたいような、少し寂しいような。どうやら今日の私は、相当わがままになってしまっているらしい。それを悟られたくなくて、強引に話の流れを変えてみる。
「それより、夕焼けを茜色って表現するの、珍しいですよね」
「珍しいか?夕焼けは茜色だろ」
「そうですけど、普通は真っ赤とかって言いません?」
「まあ、確かに……言われてみれば」
「ですよね。まぁ、私も何でか茜色ですけど」
「……そうか」
「いい響きですよね、茜色って」
「あぁ、俺もそう思う」
「ふふっ、意見が一致しましたね」
茜色の空の下、盗み見た教官の横顔は夕日に照らされてよく見えなかった。なのに、その表情が儚く見えて、消えてしまいそうで、思わず息を飲んだ。
今、この人は一体、何を考えているんだろう。そんな疑問が心の中で渦巻く。
「……花に」
「へ……?」
そんなことばかり考えていたから、唐突に言われた言葉に間抜けな声が漏れる。
「は、花、ですか?」
「あぁ。さっき、話さなかったか?花に詳しい人がいた、と」
「あ……あぁ、そういえば」
そういえば昼間、花を見たときに教官はそんなことを言っていた気がする。
教官は変わらず茜色の空を見上げたまま、優しい声色で語る。
「その人が、ここの夕日と海が好きだったんだ。藍色の海が茜色に染まる、この瞬間がな」
その切なげな笑みはやっぱり儚くて、消えてしまいそうで。こんなに屈強な大人なのに、何故か触れればすぐに折れてしまいそうな気がして、ドクリと大きく心臓が波打った。
「そう、なんですね……」
―――いた。やっぱりいたのだ。私が嫉妬してしまう人はやっぱり幻覚なんかじゃなかった。
教官にこんな顔をさせられる人とは、一体誰なんだろう。幸那さんでもさせることは出来ないのに。それがただ気になって、気付いた時にはもう遅い。
「その……教官と、その…花に詳しい方は、どういう関係なんですか?」
不躾だったと気付くのは、質問した後のこと。
私の質問に教官は一瞬厳しい表情をする。地雷を踏んだかと身構えたが、その必要はなかったらしい。
厳しい表情から一転、柔らかく微笑んだ教官はなぜか唐突に私の頭をなでた。
「な…!?な、なんですか!?」
「いや、急に葛西が可愛く見えた」
「え、なんでですか?」
「なんで、と言われても分からんが」
「分からないんだ……」
小っ恥ずかしいような、嬉しいような変な気持ち。だから本気でやめてとは言えない。
「……ただの知り合い、ではないな」
「え……?」
「その人と俺の関係だよ」
「あー……そうなんですか。じゃあ、友達…?」
「……それともまた違う。先輩後輩、でもない」
「何なんですかその関係?ていうか教官の先輩なんですか?それとも後輩?」
「かっこよくて、俺が尊敬する女性の先輩だ」
―――尊敬する女性。
教官の口からその言葉を聞くなんて思っていなかった。口をあんぐり開けて間抜け面をしてしまう。
―――教官に幸那さん以外に女性の知り合いがいたなんて……しかも、唯一尊敬する人だなんて……。
次に湧いてきたのは嫉妬ではなく、純粋な興味だった。
「私、いつか会ってみたいです、その人に。教官の同志のその人に」
それが今の素直な気持ち。
会って話がしたい。あなたの目には、彼がどんな人間に映っていたのか聞きたい。私たちの知らない彼のことをたくさん聞いてみたい。
教官は目を細めて夕日を見る。綺麗な茜色の夕日は、シェルター外の廃ビル群の向こうに半分沈んでいた。
「同志……か。それが一番しっくりくるな」
そう言って満足そうに笑う教官のその微笑みは、ちゃんと私に向けてのものだったと思う。
「葛西、教官と何話してたんだよ。頭撫でられてたし」
三坂家を後にして本部へ向かう途中。河原が目を輝かせて聞いてくる。これは確実に、絶対興味本位だ。
「別にー?河原には関係ないことよ」
「おいおい、バディに隠し事はなしなんじゃないのかよ?」
「それとこれとは別」
「えー、なんでだよー!」
「なんでもよ!」
―――そう、あの茜色の夕日の下で聞いたあの話は私と教官の秘密。
そうしてほしいと教官に頼まれたし、頼まれなくても私はそうしただろう。
「ちょっと、葛西ー!?」
ふふっと笑って先を行く私。その後ろで悔しそうに叫ぶ河原。
そんな彼のことを知らんぷりしてさらに先を行く。大丈夫、どうせ後から追いかけてくる。
それは、教官の過去を少し知った、ちょっと切なくて、でも嬉しいそんな日の出来事。