01.
生き残ったは幸か不幸か――
〔1〕
始まりは単なる事故だった。
それは、よくあると言ってしまえばそれまでの、交通事故だった。交差点に赤信号間際でスピード上げて突っ込んでくるような無謀運転。社会的に非難されるようになって久しい行為だが、それでも都会暮らしをしていれば月に何度かは見かける程度の。
ただ、その時は――結果から言えばお互い運が悪かったのだろう。交差側からも急いて進み出そうとしていた車がいたため、それを反射的に回避しようとハンドルを切ってしまった問題の車の軌道がブレた。
そしてそれだけであればまだこの男にとっては近間で危うい場面を見かけたというだけで済む話のはずだった。が、ちょうど交差点を渡ろうと道の際に立ち、待ちきれぬ風に歩を繰り出すための重心を前に移しつつある子供らがいた。小学生ほどの――とっさだったが、兄妹のような。
その子らを見捨てられなかった。いや、反射の行動にすぎないから、そこに特別何か考えがあったというわけではないだろう。ただ身体が動かないのではなく動いてしまった。事実としてはそれだけのことだったが。
ギリギリで接触事故に至りそうな位置沿いの二人の襟首を掴んで引き退かせる。問題は、たとえ小柄な身の子供といえども二人分となれば、その体重は男のそれと比較しても影響を免れえない重さがあるということだった。すなわち単純にして絶対の物理法則、反作用の。
結果として、男が弾き飛ばされた。
とはいえ、だからといって悲惨な威力を身に受けたというわけではない。元より事態の推移を識別しており身をかわすようにしながら、なお仕方なく最小限の接触を、受身を取るように当てられた。そういう不幸中の幸いを地で行くような体勢だったのだから。タイヤの下にひき潰されるようなことはなく、どちらというならフィギュアスケートのスピンジャンプじみたとでもいえようか、異ベクトルの運動量を与えられて宙を弾かれただけだ。
そうして身が転がった先、ビルとビルの隙間、人ひとりが入り込むことも難しいような狭い隙間に勢いよく叩きつけられて(明らかに建築基準法や消防法に背いた建蔽率ではあるが、現在の法制が定まる以前に建てられ改修だけで誤魔化し続けているようなこうしたビル群は、なんのかんのと都心部には根強く残っていたりする)、ああカドが立って当たると打ち身になって痛そうだなぁ、などと寸瞬に思い浮かぶ程度には余裕がある――つもりだったが。
なぜか。
ずるりと。
隙間に入り込んでしまったのだ。身体ごと。すべてが。果たしてそれが本当にビル同士の隙間であったのか、それは今もって分からない。ただ隙間であったことだけは確信している。単に物と物が隣り合っている距離が近いというだけの隙間ではない、もっと根源的で致命的な何かのズレ込みに。
その瞬間、どんな偶然かそれとも必然か、男は滑り入ってしまったのだ。
そこから先は落ちゆく地獄だった。
光がなくて目も見えないはずなのに、なぜか、闇に色づく不気味な原色の、不規則にたわんでうつろう泡立ちのようなものが頭蓋の内へと知覚を注ぎ込んできて。
そのわけの分からなさに取り乱す暇もなく、数瞬後には激痛が身体中を焼きだす。
自動車に弾かれる衝撃が子供のお遊戯にも思えるような激痛だ。念入りに、まるでミキサーで切り刻むように身体中を裁断して磨り潰し、なおミンチを捏ねるように混ぜまわしながらも神経が死んでくれて痛みの薄らぐことがない。もしこれを拷問官が考え出したというならそいつは史上に名を残す天才であることだろう――最悪の罪咎者としてならばだが。
実際、身体中をバラバラにされた上にその場の何かで埋められ遠のきつつこそあったが、手先・足先の感覚それ自体は失われてはいなかった。動かすことすらできた。ただし、意識を焼きつかせるような苛みと引き換えに、目で見て動きを確かめることも及ばぬ状態ではあったが。
そうして、身も、あるいはその先の心までも、もはや暴力としか呼べない奔流のただ中を翻弄されながら、その侵食を――大切なものほど執拗に踏みつけるがごとく冒涜的な、おぞましくも名状しがたい何これからの蹂躙を受けても。
だが意識だけは手放さなかった。何度、思考が薄らぎ、神経の沸騰するままに失神しかけたとしても。そこを敗北してしまったら本当の終わりだと本能が悟っていたから。
むしろ襲い来る痛覚をこそ齧りつく楔と利用して。この理不尽に対する怒りを燃料なるまま叩き込んでこらえぬいた。
それでもなお、噛みつき立てた歯すらもひび割れて折れそうな瀬戸際、気がついたら涼風に包まれていた。
いつの間にやら放り出されていたのだ。あの地獄のごとき狭間から、どこかの大地へ。
暗い――だが眩しい。つまりは夜の、雲なき紫天を、星々がきらめくもうじゃうじゃと埋め尽くすように輝きを放っているのだ。
そのまさに星雲としか言い表しようのない天の圧倒。都心の暮らしでは偽りの灯火にさえぎられ見ることもかなわぬはずのそれらが、仰ぐだに視界のすべてを制すかのように座しまし。片や大地はとなれば、見渡す限りの草むらとまばらな立木、そして遠景に見ゆる壁ごとき影立ちは山脈であろうか。
雄大な自然。少し前までの痛みを洗い流すかのような心地よき涼風。とっさにすべてを忘我と流して感嘆に震えることすらありえたのだろうが。
しかし。
男は。
別の物々に目を奪われていた。ありえざる現実の、さらにもありえざる証左に。
満天の星空。その輝き。手元も足元も薄らなりといえど不足なく照らし出すほどの。
人工の光源など全く見当たらないにもかかわらず、この光量。この異常。なぜなら。
色とりどりの月が八つ。大小入り乱れて――八つもが、大地を照らし下ろしているのだから。
「……ハ、ハハ、ハハハハ」
笑うしかない。乾きの引きつるままに。
たとえ、そう、地球の月が砕かれようと損なわれようと、二つや三つになることがあっても、あるいは一がゼロになることがあっても、七だの八だのがありえるだろうか? だとすれば……これは、なんだというのか。なんだというのか!
「ハハハハハハ、アハ、ハハハッハハハハァ――!」
自らの顔を鷲づかむように抱えながら、天を仰ぎ、地に膝をついて無様に無力に笑い果てるしかない。ちっぽけな人間一匹ごときがこれを見て他に何ができる。
思えばこの時から、もう取り返しのつかないほどに壊れてしまっていたのだろうか。




