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相想華

作者: HONET

『ちょっと旅に出てくる』

 冷蔵庫に張られたメッセージボードに、そう書き残した姉のことを、ぼくは思い出し、彼女が何を考えていたのか、思い耽る。



   1


 放蕩息子、という単語はよく聞くけれど、放蕩娘、となるとあまり聞きなれない言葉に思えてくる。これも男女差別の一つではないか、と口に出すと、姉は「なに言ってんの」とあきれた声を出した。

「差別って言うならむしろ、あばずれって言われる方が差別よ。知ってる? あばずれって辞書で引くとすれっからしの後ろに括弧で『の女』って書かれているのよ。信じられる? すれっからしなんて、男にだっていくらでもいるのに」

 その言葉は誰に向けられているのか分からなかったけれど、一通り文句を言い終わると、姉は視線をぼくに向けた。

「第一、放蕩娘って言うのが聞きなれない言葉だなんて、それ自体があんたの不勉強の証拠。いくらでも使われている言葉よ」

 そう言うと、脱ぎ捨てたジャケットをハンガーにかけることもせず、姉は「お風呂入ってくるね」と部屋を去っていった。

 ふったな。

 いや、ふられたのかもしれない。

 これで何人目だったかなと指を曲げて数えて、両手で足りない数だと思い出してやめた。思えば先月も同じことをしていた。

 帰ってくるなり、着る物を脱ぎ捨てお風呂へと向かうという行動パターンは、彼女がふられた、もしくはふった時のお決まりのものだ。いつもは本当に湯船に浸かっているのかと疑わしくなるようなカラスの行水なのに、こういうときに限って彼女は長湯をする。二時間はゆうに出てこない。それは姉なりの儀式のようなものなのだろう。お風呂からあがってくるときには、気分をすっかり変えて晴れやかな表情に戻っているのがいつもだった。そしてこう言うのだ。

「お腹すいた」

 その言葉に対する答えをぼくは作っておかなければならない。彼女の儀式にたいして、ぼくが唯一手伝えることだ。

 冷蔵庫を開けたが、見事なまでに何もない。飲みかけの牛乳に口の開いたバター、卵が一個。表にはタマネギとジャガイモ。

 少し考えて、ぼくは冷たいジャガイモのスープでも作ろうと決めた。梅雨が過ぎ、うだるような暑さが続くここ数日だから、きっと喜んでくれるだろう。

 姉があがるまでが勝負だ。包丁でジャガイモの皮むきにとりかかろうとして、思い出し、ぼくは彼女がソファに投げ出したジャケットをとりあげると、しわを伸ばしてハンガーにかけた。


 名前を呼ばれ、振り向いたところにいた女性の顔を、ぼくはすぐには思い出せなかった。

 それほど賑わっていない植物園のベンチに座っていたぼくの背後からかけられた声には、どこか懐かしい響きがあったのは確かだ。けれど、顔を見てもその記憶の糸が行き着く先にある答えはすぐには見つからなかった。

「あれ? 忘れちゃったかな。直之クンだよね? 天野直之クン」

 さすがにフルネームが同じで外見も似通った人と間違えている、なんてことはないだろう。ということはぼくも知っていておかしくないはずなのだけれど。

「あー、本当に忘れたな? ほら、ミコの同級生の」

 よほどぼくは困った顔をしていたのだろう。腰の辺りまで伸びている黒髪を揺らしながら苦笑いで口にした言葉で、ようやくぼくの脳も思い出してくれた。

「ああ、姉の友人の――烏丸さんでしたよね」

「お、覚えてくれていたか。よかったよかった」

 そう言って笑う烏丸さんに、「お久しぶりです」と頭を下げた。

 ミコ――正式には天野美智子と言うのだけれど、友人内ではミコで通していたらしい――はぼくの姉であり、ぼくが姉と同居していた際、烏丸さんは何度か家に遊びに来たことがある。姉が家に呼んだ友人は烏丸さんだけで、そういう意味では姉ともっとも仲が良かったといえる。

 なのになぜ思い出せなかったかというと、ぼくの記憶の中で烏丸さんは髪を茶色に染め、いかにもアクティブなイメージをかもし出すショートカットだったからだ。靴まで隠れそうなロングスカートをはいて髪を伸ばした今の彼女から、四年前の烏丸さんのイメージを引っ張り出せというのはなかなか酷だよなぁ、と言い訳めいたことを心の中で呟く。

「それにしても、まさかこんなところで会うとはね。何年ぶりかな」

「四年です」

「そっか、もう四年か」

 ええ、もう四年です。ぼくも烏丸さんの言葉に深く頷いた。

 烏丸さんと会う機会は、姉を通じてしかなかったから、すぐに答えられた。なぜならぼくも姉と四年間会っていないからだ。「そっか、四年か」もう一度呟く烏丸さんは、よく見たら、記憶の中の彼女とまったく違うというわけでもなかった。特に眉は、四年前と同じように彼女の顔の中で一番目立っている。姉は毎日描かなければならないくらい眉を薄くしていたのに対して、烏丸さんは、はっきり言ってしまえば太いままだった。とはいえ、それは手入れをしていないというわけではなくて、快活な彼女の性格を表すかのように、とても自然に思えるものなのだ。

「今は大学生?」

「ええ。四年です」

「じゃあ卒業だ」

「まあ、一応。でも、大学院に進むつもりなので、まだ当分学生です」

 姉と同い年だったはずだから、烏丸さんは今年で二十六になるはずだ。歳をとったせいなのだろうか、眉に象徴される意志の強さみたいなものは相変わらず持っているのだけれど、昔より落ち着いた雰囲気をまとっていた。

「ところで、直之クン、ひとり?」

「いえ、連れが」

 トイレに行っています、とはなんとなく口に出せなかったが、その意図を汲みとってくれたのだろう、烏丸さんは笑って言った。

「あはは、私の連れもだ」



   2


 両親が「海外に転勤なんだけど」と口に出した途端、強く反対したのは姉だった。

「えー、じゃあ私はどうなるのさ」

 当時大学一年だった姉は、とても困るというように口を尖らせた。

「一人暮らしできるだろう?」

「いや、うん、できるけどさ」

 きっと姉が心配しているのは食事のことと朝起きれないことだろうな、とぼくは他人事のように思い浮かべながらそのやり取りを眺めていた。女なら料理ができなければならない、なんて言うつもりはないけれど、それにしたって姉の料理下手は(こんな使い方があっているのであれば)天才の域だった。小学生でもできそうな料理もできない。玉子焼きを作ろうとして揚げ物を作るのかと思うくらいに油を入れる。調味料は常に目分量で、入れすぎることなど日常茶飯事。なにより、米を研がずに炊こうとするのにはなにか恨みでもあるのだろうかと思ってしまう。

 そして、女性に多いと言われるのが当たっているかのように、姉も低血圧だった。朝起こそうとして目覚まし時計を投げつけられたことは二度や三度ではすまない。

 そんな姉がなんとか大学一年の単位を無事取れたのも、毎朝起こしてあげる母やぼくがいたおかげである、と胸を張って言える。きっと自分でもそう感じているから不安そうにしているのだろう。

「直之はどうする?」

 父に問われて気づく。ぼくはどうするのだろう。

 高校受験も終わり、来月からは公立の高校に通うものとばかり思っていたので、どうする、と聞かれてもどう答えればいいのか分からなかった。

「できれば、残りたいけど」

 少しの間、悩んで口にした言葉に、母も頷く。「そうねぇ、せっかく受かったんだし……あ、そうだ」いいことを思いついた、と手を叩き「あんたたち、二人で部屋を借りて暮らせばいいじゃない」

「えー」不満そうな声をあげたのはやはり姉だった。「こいつと二人? それだったら一人暮らしの方がマシよ」

 その後に続く、音にならなかった口の動きをぼくは捉えていた。それに、一人暮らしなら彼も呼べるし。

 三宅、高橋、横山、内海、秋葉、浅野……姉が呟いた『彼』に当てはまる名前はどれだっただろう。そんなことを考えているうちに、両親は姉弟の二人暮しの方向で話を進めていた。

 家族会議が終わってから、ぼくは『彼』の名前を尋ねてみた。

「ん? 今は桜井だけど」

 初めて耳にする名前だった。


 烏丸さんの隣に立った男性は、ぼくよりも頭一つ抜きん出た身長とぼくの二倍はあるのではないかと思えるほど胸板が厚い、体格のよい人だった。外見だけならば格闘技でもやっているのだろうかと思うほどだ。けれど、いかにもお人好しそうな顔のつくりが、威圧感を感じさせなかった。

「三浦です、はじめまして」

 倣ってぼくも自己紹介をすると、「あれ? 天野って……」と三浦さんは首をかしげた。

「そう、ミコの弟さんよ」

「え、そうなのかい? 彼女に弟がいるなんて初めて聞いたよ」

「姉を知っているんですか?」

 ぼくの問いに、二人は当然とばかり頷き、どちらも大学の同級生だったと口をそろえた。

 そういえば。ぼくは思い出す。何年か前、ぼくがまだ高校生だったとき、姉の口から三浦という名前を聞いたことがあった。その名前は半月も過ぎると聞かなくなったと思ったけれど、もしかしたらこの人がその三浦さんなのかもしれない。

「あんまり仲良さげだったからさ。昔の彼かと思ったよ」

 なるほど、それで三浦さんはトイレから戻った途端、ぼくに激しい敵意のこもった視線を投げかけてきたというわけか。考えてみれば、自分の彼女が見知らぬ男性と仲良く話しているのを見たら、なにかを思うのは当然なのかもしれない。

 ぎゅ、とぼくのシャツを引っ張る力が強まった。

「で、えっと、そちらの娘は」

 気づいていなかったわけではなく、順番が回ってきたと言うことなのだろう。ぼくの腕にしがみつくようにしていた七夏は自分から一歩前に進み出て頭を下げた。

「伊村七夏と言います。はじめまして」

 礼儀正しい女の子。七夏を初めて見た人は大抵彼女をそう形容する。あながち間違いでもない。確かに彼女は礼儀を知っている。けれど、彼女を最もよく表す言葉としては、あまり相応しいといえない。

「お二人とも、ナオのお姉さんのご友人なんですか?」

「ええ、彼のお姉さんを通じて何度か直之クンとも会ったことがあってね」

「じゃあ、ナオの高校時代のことも」

「もちろん知ってるわよ」

 伊村七夏という人物を表すとき、もっとも適当な言葉は好奇心だとぼくは思う。何気ない言葉の端々から話題を見つけ、積極的に話しかけていく。礼儀正しく、コミュニケーション能力も高い彼女は、いつの間にか人の懐にもぐりこんでいる。どんなに分厚いバリゲードを張り巡らしたところで、七夏がその気になれば全ては無に帰すのだ。それはぼくが一番よく知っている。

「勘弁してくださいよ」

 七夏になにやら耳打ちをしている烏丸さんに苦笑いを投げかける。烏丸さんがぼくの何かを知っているとは思えないけれど、何を話されているのか気にならないわけではない。

「ところで、これから直之クンはどうするの?」

「まだ来たばかりなので、これから廻るところですよ」

「なんだ、じゃあ一緒に歩く?」

「いえ、お邪魔してもいけませんし」

 きっと、烏丸さんも三浦さんも、一緒に行動したところで盛り上がりこそすれ嫌がることはないだろう。けれど、今日、ぼくらがここに来たのにはそれなりの意味がある。

「そっか。んじゃ、まあどっかでまた会ったら」

「ええ、そのときにでも」

 軽く手を振って離れていく烏丸さんたちに軽く頭を下げる。七夏は、そこが定位置であるかのように、ぼくの左手に絡みついた。

「へへ。聴いちゃった」

「何を?」

「ナオ、料理上手いんだって? お姉さんに毎日作ってたとか。それに烏丸さんにも作ってあげたことがあったんでしょ」

「あったかな」覚えてはいなかったけれど、確かに姉の食事を作るのはぼくの役目だった。遊びに来た烏丸さんに何かを作ってあげたことがあってもおかしくはない。「あったかもしれない」

「私には一度も作ってくれなかったくせに」笑顔でそう言うと、シャツを握る力が少しだけ強まった。

「それはほら、七夏の方が上手いから」

「それでも作ってくれたっていいじゃない」

「作ったことはあるよ。おかゆだけど」

「風邪ひいたときでしょ。あんな状態じゃ、美味しいかどうかなんてわかんない」

「じゃあ」今度ね。そう言おうとして、その言葉のむなしさに思わず苦笑する。七夏も勘付いたのだろう、いっそう笑顔を浮かべてぼくの手を引っ張った。

「ほら、早く行こうよ」

 早く歩いて、早く今日を終わらせて、早く別れようか。そうだね、その方がいいのかもしれない。力に逆らわず、ぼくは足を前に進ませた。



   3


 佐藤、木村、藤原、竹村、吉岡、都築……姉の口から発される言葉で、ぼくは日本にはどれだけの苗字が存在するのだろうと考えた時がある。もしかしたら、姉は日本に存在する全ての苗字を覚えてしまうのではないだろうか。普通に考えればありえないことなのだろうけれど、二週間の間で彼氏を四人も変えたとき、姉ならばありえることかもしれないと考えざるを得なかった。

 その考えが変わる出来事があったのは、ぼくが高校二年の頃だっただろうか。ジャガイモとニンジン、牛スネ肉をブイヨンと赤ワインでじっくりと煮込んだ自信の料理の準備に取り掛かろうとしたとき、冷蔵庫に張ってあるメッセージボードに気がついた。

『今日は帰らないから 姉』

 簡潔に書かれた文字に、ぼくは嘆息する。

 姉との連絡に使われるメッセージボードだが、この台詞以外は書き込まれたことがないのではないだろうかと思える。ぼくが携帯電話を持っていないことに起因しているのだが、帰ってからでなければ確認ができないというのは、なんとも使い勝手が悪い。

仕方ない。買ってきた食材には日持ちがしないものもある。やる気を半分失ったまま、ぼくはポトフ作りにとりかかった。

 だがその日は、ポトフは無駄にならなかった。

 一人での夕飯を食べ終え、ソファに横になってテレビを見ていると、玄関が開く音がした。

「? おかえり」

 いつもはもっと騒がしく帰ってくる姉が、なぜかその日は静かだった。無言のまま鞄を置き、風呂へと続く扉を閉めてしまった。

 また彼氏と何かあったのだろうか。それにしても、ここまで暗い姉は初めてだ。たとえ誰かと別れた日でも、姉の陽気さが途絶えたことはない。姉が唯一自分をさらけ出せる場所がお風呂の中だからだろう。

 まあ、無駄にならなくてよかったな。ぼくはポトフを再び火にかけた。

 ちょうど二時間後。姉があがってくるタイミングに合わせて、ぼくはポトフを盛り付けた皿をテーブルに置こうとして、危うく取り落としそうになってしまった。

「なによ」

 いつもどおりの、女性にしては低めのよく通る声だった。化粧が落ちて薄くなった眉も見慣れたものだった。ただ一つ、赤く腫れぼったい目以外は。

「なんか文句あるの?」

 ぼくが差し出した箸を奪い取ると、姉はテーブルに着いてポトフにとりかかった。

「美味しい?」

「ん」

「なら良かった」

 別に一緒にいなければならないわけではなかったけれど、どうせ食べ終わった後片付けをするのはぼくの仕事なので、黙って姉の向かいに座った。

 姉がゆっくりと食べる音を聞きながら、ぼくは考えていた。あの姉を泣かせるような出来事とはどんなことなのだろう。十数年、弟という職業に就いているが、姉の泣き顔を見たのは初めてだった。鬼の目にも涙、なんて言葉が浮かんできて、ああ、ピッタリだ、などと自画自賛してしまう。

「ナオ」

「ん、なに?」

「おかわり」

 ほっと息を吐いて、ぼくは王女様の命令に従う。

「ねぇ」

「ん、なに?」姉が顔をあげる。

「なんかあった?」

 盛り付けを終え、姉の前に差し出すが、今度はすぐに箸をつけようとしなかった。箸をくわえ、アゴの動きで上下させている。

「行儀悪いよ」

「ねぇ、あんたさ」注意は聴きもせず、姉が尋ねてくる。「付き合ってる子っていたっけ?」

「いないよ」

「へー。黙ってりゃそこそこもてそうな顔してんのにね。性格が暗いから?」

 実の弟にこうまではっきりと言うのはどうなのだろう。実の弟だから、と言えなくもないかもしれないけれど。

 反面教師、という言葉をこれほど実感している人はいないのではないだろうかと思えるほど、こと恋愛に関しては、ぼくは姉から学んでいる。もちろん、反対の意味で。彼女が違う男性の名前を口にするたびに「何か違う」と感じていたぼくは、周囲からは「奥手」と呼ばれているが、実情は違う。

 恋愛に力を注ぎ、一喜一憂している姉をみながら、自然と恋愛に対して苦手意識を持ったのだろうとぼくは推測している。積極的に恋愛に時間を費やそうと言う気力が、体のどの部分からも湧きあがってこないのだ。

「今は姉貴に聞いてるんだよ」

 話を戻すと、姉はつまらなそうに箸をニンジンに突き刺した。

「何もないってば」

「本当に?」ぼくが念を押すと、姉は薄い眉をハの字にして、ぽつりと呟いた。

「葉が、見つかっただけよ」


 向日葵が風に揺れていた。

 夏の象徴として、植物園の中でも広いスペースを陣取っている向日葵を見ると、「花が太陽の方向を見る」という噂が嘘だとよくわかる。めいめいが顔を背けあい、気の向くまま空を眺めている。

「ねぇ」隣を歩く七夏が尋ねてきた。「向日葵の花言葉って知ってる?」

「花言葉?」

 聞きなれない言葉に思わずすっとんきょうな声を出してしまう。

「バラの花言葉は愛だとか、そういうあれ?」

「そう。もっとも、バラも花の色で花言葉が変わっちゃうんだけどね」

 付き合い初めて三年が経つが、七夏の口から花言葉を聞いたことはなかった。思えば今日、植物園に行こうと言い出したのも七夏だった。今頃になって気づくことに苦笑がもれる。

 お互い、恋愛に積極的にならないこと。

 七夏と付き合い始めるとき、ぼくから言い出したことだった。

 二人で会うために時間を作るのではなく、二人とも時間が余ったら会うことにしよう。何か他の用事と重なったなら、そっちの方を優先しよう。恋愛の優先順位は最下層、それでいいなら付き合おうか。

 恋愛に対して非積極的だったぼくが、断るために思いついた文句だった。もっとも、断るためだけの台詞ではない。積極的にならずともやっていける付き合いこそが理想ではないかと思っていたのだ。そんなぼくの問いかけに、何を思ったのか、七夏は頷いた。「変わってるね、やっぱり」と言ってはにかんだ表情を覚えている。

 そんな始まり方をしたぼくたちだから、進み方は亀よりも遅かった。付き合い始めてから分かったことは、時間は作ろうと意識しないと余ることなんてほとんどない、ということだった。テスト期間にもなるとぼくたちは顔をあわせることもなくなり(七夏とは友人を通じて知り合ったので、学科もサークルも別だった)、たまに彼女から送られてくる無機質な文字の羅列だけが何かを繋ぎとめていた。いや、もともとぼくらの間に繋ぎとめなければならない何かなどあったのだろうか?

「向日葵の花言葉は、『光輝』。光り輝くって書くあれね」

「なるほどね。太陽から連想したのかな」

「向日葵は太陽の方向を向く、なんて言われるくらいだしね。それからね」七夏は歩道の脇にある花を指差しながら、矢継ぎ早に説明していく。

「あれ。あの薄紫色のグラジオラス。あの花言葉は『情熱的な恋』。オニユリの花言葉は『賢者』と『嫌悪』。燃えるような赤い色に高貴なイメージを持つ反面、黒い斑点が嫌がられたらしいの。で、キキョウの花言葉は『気品』」

「え」思わず呟いたぼくの言葉に、七夏が言葉を止める。

「なに?」

「いや、たいしたことじゃないんだけど……キキョウの花言葉って『従順』とか、そういうのじゃなかったっけ?」

「ああ、花言葉ってね、国によっても違うし、地方によっても色々と異なるの。だから絶対にこれって決まっているわけじゃあないのよ」

「へぇ」それ以上何も言えず、ただ感嘆の息をもらす。昔ちょっと調べたことがある程度の知識で口を挟むべきではないらしい。

「そういえばさ」七夏が声色を変えた。「ナオにお姉さんなんていたんだね」

「ああ、うん。四つ年上」

「全然知らなかった」

「言わなかったかな」

「うん、聞いてないよ」

 明るい口調ではあったけれど、七夏がどんな表情をしているかは容易に想像ができた。

 三年間付き合っているというのに、その密度はスポンジケーキなみにスカスカで、付き合って一ヶ月の普通のカップルよりも中身のないものだったと思い知らされたようなものだろう。

 積極的に恋愛をしなくても繋がっていられるのならば、それこそが本物なのではないか。そう思っていたぼくだから、今までの付き合い方は理想的だったはずだ。姉のように、恋愛に力を注いで、注いで、注ぎ続けて、やがて疲れ果ててしまうことには絶対にならないのだから。

 それなのに、なぜこうも頭の中で「何か違う」と響き続けているのだろう。

「ねぇ、七夏」雰囲気を変えるため、つとめて明るい声を作る。「ここには向日葵で作ったアイスが売っているらしいよ」

「ヒマワリのアイス? どんな味がするのかな」七夏が目を大きくする。

「たぶん」少し歩き疲れた頃合だし、きっと七夏は食べたいというだろう。売店がある方向に足を向けた。「リスの気分になれるような味だよ」



   4


 そういえば、姉の口から男の名前を聞かなくなった。

 ふとそんなことを思いついたのは、姉が目をウサギのように赤くした日から三ヵ月ほど過ぎた頃のことだった。あの日を境に、ぱったりと姉の放蕩三昧は終結した。あれから姉はほぼ毎日家に帰ってきたし(つまり外泊がなかったってことだ)、聞く名前は女性の友人らしきものに変わった。冷蔵庫のメッセージボードは、使われることがなくなり、あまりにも殺風景だからと姉が赤いマジックで描いた花の絵がいつまでも残っていた。

 ある日、姉の口から、女の友人を家に呼ぶから、と聞かされたときは気でもふれたかと思った。

「なによ、その顔」

 あんまりにも驚いた表情をしていたのだろう、ぼくの顔を見て姉は不満そうににらみつけた。

「いや」フォローしようと思ったのだけれど、残念なことにぼくの口は正直だった。「姉貴に同性の友人がいたんだなぁって」

「失礼ね」と呟くと、姉はぼくが作ったサバの味噌煮をつつきはじめた。それ以上の反論がないところを見ると、あながち間違いでもないのだろう。男をとっかえひっかえしている――少なくともぼくにはそう見えているし、ぼくが思っているからには他の人も多かれ少なかれそう感じているはずだ――姉を、同性がいい眼で見ないだろうということくらいはぼくにだってわかる。

 しかし。

 味噌汁を啜りながら姉の顔を覗く。あの日以来、姉は世間一般でいう『普通』な感じになった。儀式が行なわれていない以上、誰かと別れたということもないようだったし、だからといって誰かと長く付き合いが続いているわけでもなかった(なにより姉の口から男の名前を聞かないのだから)。

 ぼくが中学生になってから、姉が三ヶ月以上一人身でいたことがあっただろうか。記憶を総動員しても、ノーとしか答えられない。

 だから、これはちょっとした異変なのだ。

「でさ、ナオ」姉が箸をぼくに向けた。

「行儀悪いってば」

「別にこんなのどうでもいいの。でさ、ケイが家に来たとき、なんかあんた作ってくれない?」

 ケイ、とはここ数ヶ月姉の口からよく聞く名前だった。さすがにぼくは呼び捨てするわけにもいかず、烏丸さんと呼んでいる。

「たまには自分で作ってみたら?」

「意地悪。あんた、あたしの料理の腕知ってて言ってるでしょう?」

 もちろん。という言葉を必死に飲み込んでいると、姉は予想外の反応を返してきた。

「でも、うん。たまにはいいかもね。当然教えてくれるでしょう?」

 産まれてこの方、料理だけはかたくなに「やりたくない」と言い続けてきた姉の言葉に、箸を落としそうになる。

「なんか変なものでも食べた?」

「あんたが変なもの食べさせてるんならね」

 そう言って笑う姉の顔が、どんな男の話をしているときよりも女らしく見えて、ぼくは目をこすった。


 ソフトクリームとアイスの違いって何だろうね、と七夏が呟いたので、「うずまきになるかどうか」と答えたら「ああ、確かにそうかも!」と真剣に彼女は頷いていた。もちろん正しい分類の仕方じゃないだろう。

 買ってくるから近くで待ってて、と言われベンチに座った。園内を歩いているときはそれほど人の多さに気づかなかったけれど、アイスクリーム(ソフトクリーム?)を売っている店の付近だけは混雑していた。七夏は十人ほどの列の最後尾についている。

「やあ。君も休憩かい?」

 振り向くと三浦さんが立っていた。

「隣、いいかな」

「どうぞ」脇によけると同時に三浦さんが腰掛ける。ベンチが少し軋んだ音を立てた。

「烏丸さんは」と尋ねると、三浦さんは行列を指差した。いつの間にか、七夏の後ろに烏丸さんが並んでいた。二人は何か楽しそうに会話を交わしていたけれど、内容までは当然聞き取れなかった。

「ところで、直之クン、だったかな。ミコ……美智子さんは元気?」

 無難な話題の振り方だなと思う。ぼくと三浦さんを繋ぐ糸は姉以外にない。けれど、この話では続かないのだ。

「いえ……四年間会っていません」

「連絡は?」

「それもないです」

 抑揚なく答える。三浦さんは「そうか」とだけ言うとそれっきり黙ってしまった。

 姉が姿を消したのは、大学の卒業式の翌日だった。大学の友人たちと打ち上げをしたのだと泥酔に近い状態で深夜に帰宅した姉は、次の朝、ぼくが目覚める前に家を出ていた。部屋に変わりはなく、必要最小限の衣類だけを持ち出したらしかった。携帯電話は持って行ったようだったが、いつの間にか、メールアドレスも、電話番号も変えられていた。

 いや、一つだけ、変わったことがあった。冷蔵庫のメッセージボードに描かれていた赤い花の絵が消され、ただ一言、『ちょっと旅に出てくる』と、姉の字で書かれていた。

 その後、一度だけ連絡があった。姉が卒業し、ぼくが大学に入学した年の正月に送られてきた年賀ハガキにはなんの絵も描かれておらず、水性ボールペンで『今は広島にいます。これから沖縄まで行ってみる予定。父さんと母さんによろしく』とそっけなく記されていた。

「君は」沈黙を破ったのは三浦さんだった。「知ってるかな」

「何をですか」

「ぼくが君のお姉さんと付き合っていたって事」

「ああ」なんだ、そんなことか。「以前、姉の口から三浦という名前の男性のことを聞いたことはあります。やっぱり三浦さんのことでしたか」

「うん。二週間程度だったから、本当に付き合っていたのかよくわからないけどね」

 そう言って三浦さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「烏丸さんとは長いんですか?」

「ああ、うん。君のお姉さんにふられてからほとんどすぐにだから、もう六年ほどかな。って、こう言うと気分を悪くするかな」

「いえ」思わず苦笑する。「そんなことで怒ってたら、姉は何度怒らなきゃいけないかわかりませんよ」

 ふと、三浦さんがいきなり手を振った。その先を目で追うと、烏丸さんが手を振っていた。ぼくの視線に気づいた七夏も手を振って、ぼくは右手を軽くあげる。

「いい子だね」

 そんなことを三浦さんが口走った。

「何年くらい付き合っているんだい?」

「三年です。でも今日で別れます」

「へぇ」三浦さんはたいして驚かなかった。「それはまた、どうして」

 たいした理由ではない。ぼくは大学院への進学が決まっていて、この地に残る。七夏は大阪での就職が決まった。新幹線という文明の利器を使っても四時間はかかる距離を埋めようという意思がぼくにないことが、おそらくは一番の問題なのだろう。先が見えている付き合いを続けるつもりも、ぼくは持ち合わせていない。

「なるほどね」黙って聞いていた三浦さんは無精ヒゲが生えたアゴを撫でながら呟いた。「葉じゃなかった、ってわけか」

「ハ?」どこかで聞いたような気がした。「葉じゃない、ですか」

「ああ。ミコ……君のお姉さんにふられたときの言葉だよ。貴方は葉じゃないの、だから付き合えない。もっとも、聞くところによるとそう言ってふられたのはぼくだけじゃないらしいけどね」

「どういう意味なんでしょうか」

「えーと、あれ。なんだったっけかな、彼女が好きな花。その花がたしか」

 おーい、という烏丸さんの声でその続きは聞くことができなかった。その隣に七夏も続いていて、ぼくに薄紫色のソフトクリームを手渡してきた。

「ヒマワリ以外にも色々アイスがあったから、別々のもの買ってきちゃった。そっちはバラのアイスだけど、いいよね?」

 バラの花言葉は愛。そんなことを思い出して苦笑しながらぼくは頷く。

「そういえば直之クン」

「なんですか?」

 烏丸さんはアイスをなめ上げながら左手の方角を指差した。

「向こうにミコの好きな花があったけど、見た?」



   5


 自分の耳を疑った。けれど、確かにそう聞こえた。だからぼくはもう一度、姉に尋ねた。

「好きな花の名前だよ?」

「だから、彼岸花だって言ってるでしょう?」

 何度も言わせるなとでも言うように、姉はきびすを返した。

 デパートの一階、食品売り場の片隅にある、小さなフラワーショップ。普段は街中で姉を見かけても、お互い話をすることはなかった。多くの場合、姉の隣には見知らぬ男性が寄り添っていたからだ。けれど、今日に限って、姉は一人で、店先に飾られている花々を眺め立ち尽くしていた。そんな、いつもとは違う光景に、無意識のうちに声をかけていた。

「前から思っていたけど」並ぶように歩く。女性の中では高い身長である姉と話すときに下を見るようになったのは、いつ頃からだっただろうなどと考える。「変わってるね」

「そう?」

 姉はまったく意に介することなく、けれど話を続けるように、ゆっくりと歩き続けた。

「あの花のどこがいいの?」

「んー、花言葉」

 その時は特に気に留めてはいなかった。

 その後、姉が姿を消してから、ぼくは彼岸花の花言葉を調べた。『悲しい思い出』とそこには記されていた。


 彼岸花という名前がつけられたのには理由がある。秋の彼岸の時期に花が咲くという性質からきたという説が一般的だが、もともと仏教の一部ではこの花が天上に咲くものであるともされているからという説もある。別名である曼珠沙華は、「赤い花」という意味の言葉である。

 だが、ぼくの目の前で咲いている花は、真っ白な姿を晒していた。

「真夏のクリスマス」

 七夏が呟く。すらりと伸びた緑色の茎、その先端に着いた白く細い花びら。たしかにそれは、夏に現れた雪を思い起こさせた。

「お姉さんが好きだった花ってこれだったんだ」

「彼岸花、とは聞いていたけど」

「これも彼岸花の一種よ。リコリスって呼ばれているけど」

 じっと白い彼岸花を見つめる。花言葉が好き。姉の言葉が頭の中に蘇ってくる。姉は何を思ってあんなことを言ったのだろうか。

「彼岸花の花言葉、知ってる?」

 ぼくが尋ねると、七夏は知ってるよと答えた。

「彼岸花の花言葉は、悲しい思い出」

 ぼくは空を仰ぐ。

 姉がなぜ姿を消したのか。姉がなぜ彼岸花の花言葉を好きだと言ったのか。その理由を考えてみると、一つの答えに行きつく。

 泣きはらし目を赤くしたあの時から、烏丸さんの名前をよく聞くようになった。姉は、烏丸さんを好きになってしまったのではないだろうか。当然、姉も烏丸さんも女性で、幾分かは世間の認知も広まってきたものの、いまだ同性間の恋愛に対する障害は高くそびえている。その感情で葛藤し、絶望し、姿を消した。

 考えられなくはなかった。

 というより、ぼくの想像ではそれ以外のことが思いつかなかった。

 だからなのだろうか。ぼくが恋愛に積極的になれない理由は、ここにあるのではないだろうかと考える。

 いつか傷つくかもしれない。あんなに積極的だった姉ですら、悩み、苦しんで逃げ出してしまった。それなら自分は、どうなるのだろうか?

「でもね」七夏の声が、思考を遮る。「やっぱりこれも地域によって違うの。もともと中国から伝わってきた花らしいんだけど、たとえば韓国では『相思華』って呼んだりするし」

「相……なに?」

「相手を思う華、って書くの。彼岸花は、花と葉が同時に着くことはないの。花が咲いてるときは葉が出ないし、葉がある時に花が咲くことはない。決して混じり合わないけれど、互いに想っている。花は葉を思い、葉は花を思う。だから、相思華」

 葉と花。姉の言葉が思い出される。

『貴方は、葉じゃないの』

 姉は、葉を探し続けてきた。いつも、相手と一緒に存在することができるようにお願いたくなるような存在を。姉にとっての葉は、やはり烏丸さんだったのだろうか。

「それに、日本でだっていろんな花言葉があるの。たとえば――」

 続けた七夏の言葉は、ぼくにとって意外なものだった。

「お、いたいた」

 背後から声がした。振り向くと、烏丸さんが手を振りながら近づいてきた。三浦さんは少し離れて立っている。

「私たち、そろそろ行くからさ。挨拶にね」

「いえ、こちらこそ、お邪魔じゃなかったですか」

「何いってんの。久しぶりに会えて楽しかったよ。今度はミコが帰ってきたらまた会おうね。七夏ちゃんも一緒に」

 七夏は曖昧な笑みを返した。ぼくはと言えば、なにかがひっかかっていた。

「帰ってきますかね、姉は」

「あれ? 連絡行ってない?」

「え」思わず声が出た。「姉から連絡があったんですか?」

 姉からの連絡は、四年前の年賀状のみだったはずだ。驚いたぼくの表情につられるように、烏丸さんも目を丸くする。

「え、ミコったら、キミには連絡入れなかったんだ」言いながら携帯を取り出す。「私には毎年、お正月だけだったけど、メール入ってたのよ。で、ほら、今年のは」

 渡された携帯の画面には、短文で1行だけのメールが映し出されていた。


<件名> あけましておめでとう!

<本文> I’ll be back!!


 ――私は戻ってくる!

 たった一文。短い言葉。けれど、それで十分だった。

 その言葉で姉の考えてることがわかってしまい、そんな自分に少し、驚く。

 ああ、そういうことなのか。

「ね、ミコらしいよね」

 烏丸さんもおかしそうに笑っている。その表情に、なんとなく姉が好きになった理由を感じてしまう。

 姉は、絶望などしていなかった。誰が肯定してくれたわけでもないのに、それが答えなんだと、ぼくは納得してしまう。

 烏丸さん。覚悟しといた方がいいですよ。うちの姉は、自分に正直なんです。正直すぎるんです。きっと、戻ってくるときは、烏丸さんを落とす自信が付いたときだと思います。

 姉のアタックはきっと強烈なものになるだろう。ぼくはちらりと三浦さんを見る。何の心配もしてなさそうなその表情に、心で少しだけ頭を下げる。ごめん、三浦さん。ぼくはやはり、姉の肩を持ちます。

 その全ての言葉を、ぐっと飲み込む。それでも、どうしても笑みがこぼれおちてしまう。

 それじゃあまたね、と烏丸さんは去って行った。

 ぼくはその後ろ姿に問いかける。

 知っていましたか、烏丸さん。姉の好きな彼岸花のもうひとつの花言葉。ぼくも今知ったばかりです。「また逢う日を楽しみに」なんだそうです。姉にぴったりですよね。そう思いませんか、烏丸さん。



     6


 卒業式――つまり姉がいなくなる日の一週間前、姉はしたたかに酔っていた。

 いくら酔ってだらしない姿を見せても、姉は自分の恋愛について語ったことはなかった。少なくとも、ぼくの前では。

 今思えば、それも前兆だったのかもしれないけれど、当時のぼくは、珍しいこともあるものだと付き合いで酒の缶を傾けていた。

「私だってね、思うわけよ。もし別れないで、ずっと付き合っていたら、それはそれでなにか違う形が生まれてたんじゃないかなって」

 特に誰というわけでもなく、姉の中での一般論なのだろう。そんなたわいもない話も、ぼくにとってはめったに見聞きすることができない姉の一面だった。姉は、冷蔵庫にかけられたメッセージボードの、自分で描いた赤い花を眺めながら、言葉を探していた。

「ほら、点滴石を穿つ、だっけ。石垣も蟻の一穴、だったかな。まあどっちでもいいや。そんな、少しのズレがさ、段々と広がっちゃうんだよね。そう感じると、あ、これは違うって思っちゃうのよね。この隙間は広がる一方で、塞がることはないんだって。でも、そこになにか補強ができたんじゃないかなって、思うこともあるのよ。水滴で穴のあいた石なら、上に違う石を置けばそれ以上穴があくこともないし、少し掘られた石垣なら、その間を埋めるクサビみたいなものを突っ込めば、崩れることもないんじゃないかって。私だってそうしようと思ったこともあったわよ。でもね、見つからないの。ぴったりと当てはまる、溝を埋めて強くしてくれるようなモノが見つからなかったから、しょうがないじゃない」

 それは自分への言い訳だったのか、ちょっとした感傷めいたものなのか、判断はつかなかったけれど、自然とぼくの口からは返事が漏れていた。

「きっと、方法が間違ってたんだよ」

 返事が来ると思っていなかったのだろう、姉はキッとぼくを睨みつけて言った。「じゃあ、アンタは何が正解だって言うのよ」

 正解、と考えてはたと気づく。何か違うとは思っても、何が正解かという答えが出せるわけではない。けれどそれは、あまりに姉に失礼に思えて、ぼくは答えを考える。

「それは――」


 植物園を出て、バスを待つ。七夏とぼくのあいだでは、いくつかの短い会話が飛び交い、すぐに勢いを失って、重力に引かれ地面へと落ちていった。

 考えはまとまっていた。正解かどうかはわからないけれど、自分の意思で、進んでいく道を決めた。けれど、それをどうやって伝えればいいのか。

「夕飯、どうする?」

 七夏は答えない。

「家に来る? 七夏が食べたいって言うなら、作ってあげる。今日は暑いし、冷たいじゃがいものスープとかあってると思う」

「私、じゃがいも嫌いなんだよ?」思わず天を仰ぐ。その姿を見て、七夏はくすりと笑った。「最後の晩餐のつもり?」

 そのつもりだった。今日、烏丸さんとあって、姉の話をするまでは。そして思い出してしまった。自分の言葉には、責任を取らなければならない。

 いや、責任なんて、もう関係ないのかもしれない。少しだけ、もう少しだけ、努力をしてもいいんじゃないかと思ったのだ。姉が烏丸さんを思い続けている距離に比べたら、新幹線で四時間の距離など、たいしたことないのではないか、と。

「最初の晩餐、じゃダメかな」自分で言っておきながら、そのかっこ悪さに苦笑する。「姉の話もしたいんだ。どんなにむちゃくちゃな姉なのかって。料理も実は、結構自信がある。七夏を驚かせるくらいの味だと思うよ。大阪も、実は嫌いじゃない。阪神タイガースも好きだし」

 口をひらけばひらくほど、言いたいことが伝わらなくなっているように感じて、ぼくは首を振った。

「いや、だからさ。その、付き合い直さないか?」

 ――きっと、一人じゃ無理なんだよ。姉への言葉を思い出す。一人で埋めようとすると、どうしても隙間が埋まらないんだと思う。だから、隙間を埋めようとするなら、二人でやらないといけないんじゃないかな――今ではその言葉も間違いだとわかる。ぼくだけが努力しても、どうしようもならないときがある。二人で隙間を埋めようとする、その行為に至るまでが一番難しいのだ、と。

「自分勝手だよね、ナオ」少しの沈黙の後、七夏は口を開いた。

「うん」ぼくは頷く。「自分勝手だね」

「大阪、遠いよ?」

「うん」

「お好み焼きとご飯、一緒に食べるんだよ?」

「聞いたことがある」

「一つだけ、いいかな」

「うん」

「今日は、外で食べたいな。家にはまた今度、誘ってくれるんでしょう?」そういって、七夏が笑う。今日初めて見る、自然な笑顔だった。「回転飲茶の店ができたの、知ってる?」

 ああ。ぼくは思う。これが葉なのか。

 努力をする。それはそれで間違いじゃないと思う。けれどそれ以上に、二人のタイミングが合う瞬間がある。そうすれば、隙間は自然と埋まっていく――そんな相手に会える確率は、彼岸花が葉と花を同時にその身につけるくらいの偶然なのかもしれない。

 目の前にバスが着き、ドアが開く。少し逡巡し、ぼくはバスから少しだけ身を引く。

「歩かないかい? たぶん、飲茶を食べながらじゃ、話しきれない」

 乗らないのかよ、と言いたげにバスが去っていく。

 何の話からしようか。ぼくは迷う。少し、考えを変えただけで、話さなければいけないと思えることは山のように増えていた。けれど、何よりも先に話すべきは、この話なのだろう。歩きだし、ぼくは口を開く。

 ぼくの姉は、美智子って言うんだけどね――

 自分では、そこまで恋愛モノではないと思っているのですが、ジャンルはなにか、と問われると「……恋愛?」となってしまいます。難しいですね。

 このサイトの読者層とはちょっとずれたものかもしれませんが、感想等いただければ嬉しいです。

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[良い点] 文章に読ませる魅力が溢れているように思う。 改行も読みやすく素晴らしい。 [気になる点] 大変残念ながらなろう受けしないだろうなと思う。 [一言] 他の作品も面白く、もっと読んでみたいと思…
[一言] 「冬の結晶」と「相想華」の2作品を読ませていただきました。 どちらも登場人物の流れが自然で、表題が丁寧に物語に織り込まれていると感じます。 作品全体の雰囲気である、ほのかな暖かさが心に残りま…
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