第9話 兎型の魔物
朝、目が覚めると、ドナンはもう動いていた。
残骸から引き上げた板材を一枚一枚並べ、指先で叩いて確かめている。
声はない。
ただ、手が動いている。
拠点に来て一晩しか経っていないのに、すでにここが自分の作業場であるかのように立っていた。
「おはようございます」
「ああ」と短く返ってきた。
レイスは川で顔を洗いながら、地面に設計図を描いていた。枝で土に描いただけだが、柱の位置、横木の間隔、屋根の傾斜角度まで細部まで書き込まれている。
「おはよう、カルド。まず聞かせてくれ。ここに何人くらいの規模を想定している」
「まだ分からないけど、増えると思います。人間だけじゃなく、魔物も」
「魔物も、か」
少し考えてから、設計図に線を一本加えた。「では最初から広めに作る。後から増築するより、最初に余裕を持たせた方がいい」
出発前に、しばらく作業の様子を見ていた。ドナンが金具を岩壁に当てて確認する。一度、二度。それから道具を取り出して、静かに作業を始めた。
金属が岩を噛む音が、森に響く。
一定のリズムで刻まれる音だ。迷いがない。何十年も手を動かしてきた者の音だと、聞けば分かった。
「どのくらいで完成しますか」
「今日中には骨格ができる」とレイスが言った。「屋根は明日だ」
今日中。たった一日で、骨格が。
昨日まで残骸だったものが今日には形になる。自分一人では到底できないことが、ここでは当たり前のように進んでいく。
レイスは最初から余裕を持たせると言った。先のことを考えている。ドナンは道具を一打で決める。迷いがない。ファルは昨日着いたばかりなのに、すでに拠点の外を把握している。
それぞれが、自分にはないものを持ってここにいた。
役割が決まった。レイスとドナンが建築。ファルが素材調達と警戒。カルドが食料調達。
「ファルは周辺警戒と素材調達を頼めるか。木材がもう少し必要だ」
「了解」とファルが短く言った。異存のない口調だった。昨日流れ着いたばかりだというのに、もうここの一員として動いている。
シロがすっと立ち上がった。「一緒に行く」
自然な一言だった。もう、そういう関係になっていた。
*
森の中を歩く。
シロが前を行く。音がない。足の置き方が地面を選んでいる。枯れ葉を踏まない。枝に触れない。この島で生まれ育った者の歩き方だ。
《波長理解》を薄く流しながらついていく。魔物の反応を拾いつつ、周囲の地形を確認する。昨日より少し、この使い方に慣れてきていた。
そのとき、シロの魔力が変わっているのに気づいた。
波長が細く、絞られている。まるで消えかかっているような揺らぎだ。
「シロ、今、魔力を絞ってるんですか?」
「気づいたか。獲物に近づくときは気配を消す。昔からそうしてる」
「スキルですか?」
「違う。ただの、生きるための技だ」
シロが前を向いた。三メートル先に、兎型の魔物がいた。全く気づいていない。草の陰で丸まって、耳だけがゆっくり動いている。
シロが一歩踏み出す。波長がさらに細くなる。存在が、ほとんど消えた。
次の瞬間、シロは獲物の傍にいた。一瞬だった。音もなかった。
「見ていたか」
「うん。《波長理解》で追っていました。途中から、ほとんど見えなくなりましたけど」
魔力を内側に引き込む。外に漏らさない。頭の中で、何かが組み上がりかけた。《波長理解》は外に漏れているものを読むスキルだ。逆に言えば、漏らさなければ読まれない。スキルと技が、同じ原理の表と裏にある。
そのときだった。
《波長理解》が、大きく揺れた。
『警告。大型個体が接近中。複数です』
「シロ」
「知ってる。三つ、来る」
森の奥から、地面が揺れる感覚。葉が揺れ、木の幹が軋んだ。
現れたのは、猪に似た体躯の魔物だった。全身に棘のような骨が突き出していて、皮膚の下で魔力が脈打っている。三匹いる。体格は大きく、肩の高さはシロと変わらない。
止まらなかった。
地面を蹴り、一直線に突進してくる。土が弾けた。
「跳べ!」
『骨棘猪型魔物です。突進力が高く、棘による接触ダメージがあります』
《高速移動》で横に跳ぶ。棘が空を切る。シロが反対側に跳んで注意を分散させる。
火球。命中。だが骨棘が魔力を散らし、ダメージが通りにくい。
「硬い……!」
《慧眼》を使う。骨棘の配列。密度が薄い場所がある。喉の下、腹の中央部。そこだ。
「シロ、喉の下を狙って」
「分かった」
シロが一瞬で加速する。棘の隙間を縫って、喉に牙が届く。怯んだ瞬間に収束した火球を腹に叩き込んだ。
爆発。一匹が倒れた。
だが、残り二匹が同時に動いた。
回避が間に合わない。
棘が、胸を貫いた。
空気が抜ける音がした。息が吸えない。
シロが割り込んだ。「お前を守る方が先だ」
シロが棘を受けた。短い悲鳴。それが最後だった。
暗転。
*
「——ぐっ!」
森の中。シロがこちらを見ていた。無事だ。時間は戻っていない。シロの傷もない。
「また死んだのか」
「うん。一回」
シロは何も言わなかった。
ただ、耳が少し伏せられた。
「割り込んでくれたの、見えてたんですけどね」
「……見えていたなら、避けろ」
「間に合わなかったです」
シロが短く息を吐いた。それ以上は言わなかった。
『スキル《死に戻り》を使用しました。エネルギー残量、少』
『スキル《認識転写》を使用します。15秒間のみ、1つの追加スキルの取得が可能です』
光が浮かぶ。
『骨棘猪の突進原理理解:衝撃耐性向上』
『気配遮断:魔力波長を絞り、存在感を薄める』
『骨棘配列理解:棘の隙間への攻撃精度向上』
棘の隙間は読めた。
だが、近づけない。それがさっきの死因だった。
「……気配遮断」
シロが直前にやっていたことだ。《波長理解》で構造を見ていたから、分かる。頭の中に流れ込む。波長を絞る感覚。魔力を内側に収める感覚。漏らすのではなく、引き込む。
魔物が動いた。
魔力を絞る。波長を内側に収める。外に漏らさない。
『気配遮断、発動を確認』
魔物の動きが一瞬止まった。首をめぐらせて、空気を嗅いでいる。こちらを見失っている。
その隙に収束した火球を喉の下に叩き込む。一匹、倒れた。
二匹目が横から突っ込んできた。
回避が遅れた。棘が腕をかすめる。痛みが走るが、致命傷じゃない。
《気配遮断》。再び消える。
《慧眼》で急所を確認。《気配遮断》で接近する。至近距離で爆発。
二匹目、倒れた。
残り一匹。シロと目が合った。シロはもう動いていた。棘の隙間を正確に狙って、一撃で。
静寂。
「……終わった」
その場にへたり込んだ。手が震えている。背中が汗で冷たい。
死ぬたびにこの感覚がある。戻ってきたという安堵と、死んだという事実が、同時に残る。慣れない。でも毎回、次の一手が見えるようになる。それだけが確かだった。
一回目と二回目の違いを頭の中で整理する。一回目は正面から押せた。でも接近できなかった。二回目は気配を消した。近づけた。棘の硬さは問題じゃなかった。問題は、そこまでたどり着けるかどうかだった。
『三体討伐。エネルギー回復を確認。残量、中』
「シロ、ありがとう」
「……また死んだくせに礼を言うな」
「でも、助かったりました」
シロが鼻を鳴らした。「次は死ぬな」
「善処します」
シロの耳が、ぴくりと動いた。
帰り道、シロが隣を歩く。
「……お前が気配遮断を使えるようになるとは思わなかった」
「さっきシロがやってるのを見て、構造が分かったから」
「あれは技だ。スキルじゃない」
「僕の中でスキルになったんです」
シロが少し間を置いた。
「……面白い力だな」
「おかげさまで、強くなってますよ」
「生きて帰ってくるってのも」
「それだけが取り柄です」
川の音が近づいてきた。拠点の煙が見え始めた。
金属が岩を噛む音がまだ続いていた。ドナンの手が、朝から止まっていないらしかった。
「シロは、ずっとこの島で生きてきたんですか」
「そうだ」
「誰かに教わったものですか?気配を消すことは」
「誰もいなかった。ただ、生きるために必要だったから、体で覚えた」
生きるために必要だったから。その言葉が、しばらく頭の中に残った。
拠点が近づく。でも、煙の向こうで何かがこちらを見ていた。
東の方角。遠い。でも、今朝より少しだけ大きい。
肩に獲物の重さを感じながら、足を進めた。
今日もまた、少し遠い場所から帰ってきた気がした。でも、一人じゃなかった。死んだとき、割り込んできた背中があった。それが、昨日と違う。




