第5話 悪くない
鎧熊の肉を解体した。
解体は初めてではなかった。冒険者をやっていれば、魔物の素材を回収する機会はある。ただ、今日のは一人だった。誰かに頼める人間がいない。全部自分でやる。
爪が硬く、刃が通りにくい。何度か角度を変えながら、ようやく関節から外れた。鉄のように光る爪が四本。何かに使えるかもしれない。
肉は固かった。繊維が太く、噛み切るのに力がいる。でも量がある。解体しながら川の近くに積んでいった。
川で手を洗った。血が流れていった。冷たい水が、まだ震えている手を落ち着かせた。
さっきの戦闘を思い返した。
一度死んだ。胴体を薙がれて、視界が回って、暗転した。また死んだのだ。それが三度目の死だった。島に来てから、もう三度死んでいる。
でも、今は生きている。
「慣れてきている気がするな」
小声で言った。死ぬことに、ではない。死んで、戻ってきて、また立ち向かうことに。一度死ぬと怖くなくなるわけじゃない。でも、死ぬ直前の感覚を知っていると、死ぬ前に何をすべきかを考えられる。
*
岩壁の下に戻った。
改めて見ると、いい場所だった。岩が張り出していて、雨を防げる。川が近い。魔物の反応が遠い。魔力濃度が低いから、強い個体が縄張りを張りに来る可能性も低い。蓋をした瓶のような安心感があった。
枯れ枝を集め始めた。岩壁の奥に積んでいく。寝る場所に敷くものと、火を起こすものに分けた。平らな石を探して、地面に並べた。凸凹した砂の上より、石の上の方が背中が痛くない。
火を起こす場所を決めた。岩壁の一番奥、煙が外に逃げやすい位置だ。風向きを確認して、石で三方を囲った。
肉を吊るす枝を組んだ。川沿いの木から適当な枝を切って、岩壁の凹んだ部分に引っかけた。
地味な作業だった。
魔物を倒すわけでも、スキルを取得するわけでもない。ただ、枝を積んで、石を並べて、枝を引っかける。それだけのことだ。
でも不思議と、嫌じゃなかった。
むしろ、手を動かしながら考えていた。寝る場所ができた。火を起こせる。食料もある。水も近い。これがあれば今夜は生きていける。明日も生きていける。
港町にいた頃とは違う感覚だった。
あの頃の生存は受動的だった。依頼をこなして、金を稼いで、宿に泊まって、飯を食う。誰かが用意した仕組みの中で、最低限のことをするだけだった。でも今は、生存のための仕組みを自分で作っている。
それが、思ったより悪くなかった。
「才能のある冒険者が見たら笑うかもな」
独り言が出た。炎が安定してきた。枝が燃えている。暖かかった。
笑われてもいい。今夜眠れる場所がある。それで十分だ。
肉を炙り始めた。脂が落ちて、火が一瞬大きくなった。いい匂いがした。
*
食べ終わって、火が落ち着いてから、壁に向かった。
持っていた石の欠片で、岩壁に線を刻んだ。
まず浜を描いた。昨夜眠った場所だ。次に森。そして川、岩壁の拠点。丘の上から見た山の方角。石柱があった丘の位置。
記憶で描いているから、正確じゃない。距離も感覚だ。でも何もないよりはいい。
「地図か」
なろうとしたわけじゃなかった。ただ、自分がどこにいて、何を知っていて、何を知らないかを整理したかった。
知らない場所の方が圧倒的に多かった。
山への道は白紙だ。森の奥がどうなっているか分からない。北の方角に何があるのかも分からない。昨日感じた巨大な揺らぎが何なのかも分からない。石柱の正体も、狼が言っていた「選ばれた者」の意味も、全部分からない。
「国を作るって、まず何から始めるんだろうな」
地図を見ながら言った。
『土地の把握。安全の確保。信頼できる関係の構築。これらを順に進めることが現実的です』
「信頼できる関係、か」
案内人の声は淡々としていた。でも、その一言が引っかかった。
今この島で、そう言える存在は一人もいない。昨日の狼は肉を受け取って去っていった。それだけだ。今日また会えるかどうかも分からない。そもそも、魔物と人間が信頼関係を築けるのかも分からない。
でも——あの狼は言葉を話した。「ありがとう。恩に着る」と言った。感謝を言葉にできる存在だ。それは、何かの始まりになれるんじゃないかと思った。
「あの子も、仲間になってくれるかな」
『不明です』
「だよね」
即答だった。でも嫌な気はしなかった。不明だからこそ、試す意味がある。
火が静かに燃えていた。川の音が遠くで続いていた。
地図を眺めた。
浜から始まった。波に飲み込まれて、ここに流れ着いた。知らない場所で目が覚めた。魔物の肉を焼いて食べた。狼に会った。決意した。拠点を作った。
たった二日で、こんなに変わった。
港町にいた頃は、二日経っても何も変わらなかった。同じ宿に泊まって、同じギルドに行って、同じ顔に同じ目で見られて、また戻ってくる。それが続いていた。
今は、一日ごとに知らないことが減っていく。一日ごとに地図が埋まっていく。石を一つずつ積み上げていくような手応えがあった。
地図の余白を見た。白紙の部分が、まだ何十倍もある。
「……悪くないな」
声に出したのは、自分への確認だった。
怖くないか、と聞いたら、怖い。死ぬのは怖い。毎回怖い。戻ってくるのは分かっていても、あの暗転の瞬間は慣れない。
一人でやっていけるか、と聞いたら、分からない。今日は勝てた。でも、もっと強い魔物が来たら。食料が尽きたら。怪我をしたら。一人でどこまでできるか、正直見えていない。
でも——悪くない。今この瞬間は、悪くない。
川の水が飲める。火が燃えている。食べるものがある。眠れる場所がある。
明日になったら、また歩く。地図の白紙を少し埋める。まだ行っていない場所に行く。強くなる。
それだけでいい。今夜は。
*
火が小さくなってきた頃、《波長理解》が揺れた。
北の方角だ。
弱い揺らぎだった。敵意はない。でも、意志がある。昨日も感じた気配だ。昨日より少し近い。
「案内人、北の方角の反応は」
『昨日から継続して感知しています。今夜は距離が縮まっています。ただし敵対的な波長は検出されていません』
「こちらを見ているのか」
『こちらに向けた意識を感知しています。接触を試みているかどうかは断定できません』
見ている。こちらを見ている。
昨日の狼の言葉が頭に浮かんだ。落ちた者の島。選ばれた者が流れ着く場所。
「……明日、北に行ってみよう」
揺らぎが、少し動いた。近づいた気がした。
でも止まった。
観察している。様子を見ている。それが伝わってくるような気がした。《波長理解》の精度の問題かもしれない。感情を読み取るのは難しい。でも、悪意がないことははっきり分かった。
「……待っててくれ。明日行くから」
声に出したのは、相手に届くと思ったからではない。自分に言い聞かせるためだった。
揺らぎが、少しだけ変化した。
『波長のパターンに変化があります。内容は解析不能です』
「何かを返してきたのか」
『断定できません』
「でも変化した」
『はい』
火が、また少し小さくなった。木を一本足した。炎が戻ってきた。
地図をもう一度見た。北の方角に、何も書かれていない空白がある。明日はそこに行く。何があるのかは分からない。でも、何かがいる。そして、その何かは悪意を持っていない。
それで十分だった。
眠くなってきた。
石を並べた床に横になった。昨夜より少しだけ平らだった。背中がまだ痛いが、昨夜よりはましだ。
「案内人、寝てる間も周囲を監視できるか」
『異常があれば起こします』
「ありがとう」
目を閉じた。川の音が聞こえた。火の燃える音が聞こえた。北の揺らぎが、遠くにあった。
今日は、たくさんのことがあった。
森を歩いた。魔物と戦って、死んで、また戦って、勝った。拠点を作った。地図を描いた。
港町にいた頃の二日分より、ずっと多い。
「……悪くないな」
もう一度、小声で言った。
今度は、自分に言い聞かせているんじゃなかった。




