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漂流した冒険者  作者: 三幸奨励
絶海孤島編
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第5話 悪くない

鎧熊の肉を解体した。


解体は初めてではなかった。冒険者をやっていれば、魔物の素材を回収する機会はある。ただ、今日のは一人だった。誰かに頼める人間がいない。全部自分でやる。


爪が硬く、刃が通りにくい。何度か角度を変えながら、ようやく関節から外れた。鉄のように光る爪が四本。何かに使えるかもしれない。


肉は固かった。繊維が太く、噛み切るのに力がいる。でも量がある。解体しながら川の近くに積んでいった。


川で手を洗った。血が流れていった。冷たい水が、まだ震えている手を落ち着かせた。


さっきの戦闘を思い返した。


一度死んだ。胴体を薙がれて、視界が回って、暗転した。また死んだのだ。それが三度目の死だった。島に来てから、もう三度死んでいる。


でも、今は生きている。


「慣れてきている気がするな」


小声で言った。死ぬことに、ではない。死んで、戻ってきて、また立ち向かうことに。一度死ぬと怖くなくなるわけじゃない。でも、死ぬ直前の感覚を知っていると、死ぬ前に何をすべきかを考えられる。



岩壁の下に戻った。


改めて見ると、いい場所だった。岩が張り出していて、雨を防げる。川が近い。魔物の反応が遠い。魔力濃度が低いから、強い個体が縄張りを張りに来る可能性も低い。蓋をした瓶のような安心感があった。


枯れ枝を集め始めた。岩壁の奥に積んでいく。寝る場所に敷くものと、火を起こすものに分けた。平らな石を探して、地面に並べた。凸凹した砂の上より、石の上の方が背中が痛くない。


火を起こす場所を決めた。岩壁の一番奥、煙が外に逃げやすい位置だ。風向きを確認して、石で三方を囲った。


肉を吊るす枝を組んだ。川沿いの木から適当な枝を切って、岩壁の凹んだ部分に引っかけた。


地味な作業だった。


魔物を倒すわけでも、スキルを取得するわけでもない。ただ、枝を積んで、石を並べて、枝を引っかける。それだけのことだ。


でも不思議と、嫌じゃなかった。


むしろ、手を動かしながら考えていた。寝る場所ができた。火を起こせる。食料もある。水も近い。これがあれば今夜は生きていける。明日も生きていける。


港町にいた頃とは違う感覚だった。


あの頃の生存は受動的だった。依頼をこなして、金を稼いで、宿に泊まって、飯を食う。誰かが用意した仕組みの中で、最低限のことをするだけだった。でも今は、生存のための仕組みを自分で作っている。


それが、思ったより悪くなかった。


「才能のある冒険者が見たら笑うかもな」


独り言が出た。炎が安定してきた。枝が燃えている。暖かかった。


笑われてもいい。今夜眠れる場所がある。それで十分だ。


肉を炙り始めた。脂が落ちて、火が一瞬大きくなった。いい匂いがした。



食べ終わって、火が落ち着いてから、壁に向かった。


持っていた石の欠片で、岩壁に線を刻んだ。


まず浜を描いた。昨夜眠った場所だ。次に森。そして川、岩壁の拠点。丘の上から見た山の方角。石柱があった丘の位置。


記憶で描いているから、正確じゃない。距離も感覚だ。でも何もないよりはいい。


「地図か」


なろうとしたわけじゃなかった。ただ、自分がどこにいて、何を知っていて、何を知らないかを整理したかった。


知らない場所の方が圧倒的に多かった。


山への道は白紙だ。森の奥がどうなっているか分からない。北の方角に何があるのかも分からない。昨日感じた巨大な揺らぎが何なのかも分からない。石柱の正体も、狼が言っていた「選ばれた者」の意味も、全部分からない。


「国を作るって、まず何から始めるんだろうな」


地図を見ながら言った。


『土地の把握。安全の確保。信頼できる関係の構築。これらを順に進めることが現実的です』


「信頼できる関係、か」


案内人の声は淡々としていた。でも、その一言が引っかかった。


今この島で、そう言える存在は一人もいない。昨日の狼は肉を受け取って去っていった。それだけだ。今日また会えるかどうかも分からない。そもそも、魔物と人間が信頼関係を築けるのかも分からない。


でも——あの狼は言葉を話した。「ありがとう。恩に着る」と言った。感謝を言葉にできる存在だ。それは、何かの始まりになれるんじゃないかと思った。


「あの子も、仲間になってくれるかな」


『不明です』


「だよね」


即答だった。でも嫌な気はしなかった。不明だからこそ、試す意味がある。


火が静かに燃えていた。川の音が遠くで続いていた。


地図を眺めた。


浜から始まった。波に飲み込まれて、ここに流れ着いた。知らない場所で目が覚めた。魔物の肉を焼いて食べた。狼に会った。決意した。拠点を作った。


たった二日で、こんなに変わった。


港町にいた頃は、二日経っても何も変わらなかった。同じ宿に泊まって、同じギルドに行って、同じ顔に同じ目で見られて、また戻ってくる。それが続いていた。


今は、一日ごとに知らないことが減っていく。一日ごとに地図が埋まっていく。石を一つずつ積み上げていくような手応えがあった。


地図の余白を見た。白紙の部分が、まだ何十倍もある。


「……悪くないな」


声に出したのは、自分への確認だった。


怖くないか、と聞いたら、怖い。死ぬのは怖い。毎回怖い。戻ってくるのは分かっていても、あの暗転の瞬間は慣れない。


一人でやっていけるか、と聞いたら、分からない。今日は勝てた。でも、もっと強い魔物が来たら。食料が尽きたら。怪我をしたら。一人でどこまでできるか、正直見えていない。


でも——悪くない。今この瞬間は、悪くない。


川の水が飲める。火が燃えている。食べるものがある。眠れる場所がある。


明日になったら、また歩く。地図の白紙を少し埋める。まだ行っていない場所に行く。強くなる。


それだけでいい。今夜は。



火が小さくなってきた頃、《波長理解》が揺れた。


北の方角だ。


弱い揺らぎだった。敵意はない。でも、意志がある。昨日も感じた気配だ。昨日より少し近い。


「案内人、北の方角の反応は」


『昨日から継続して感知しています。今夜は距離が縮まっています。ただし敵対的な波長は検出されていません』


「こちらを見ているのか」


『こちらに向けた意識を感知しています。接触を試みているかどうかは断定できません』


見ている。こちらを見ている。


昨日の狼の言葉が頭に浮かんだ。落ちた者の島。選ばれた者が流れ着く場所。


「……明日、北に行ってみよう」


揺らぎが、少し動いた。近づいた気がした。


でも止まった。


観察している。様子を見ている。それが伝わってくるような気がした。《波長理解》の精度の問題かもしれない。感情を読み取るのは難しい。でも、悪意がないことははっきり分かった。


「……待っててくれ。明日行くから」


声に出したのは、相手に届くと思ったからではない。自分に言い聞かせるためだった。


揺らぎが、少しだけ変化した。


『波長のパターンに変化があります。内容は解析不能です』


「何かを返してきたのか」


『断定できません』


「でも変化した」


『はい』


火が、また少し小さくなった。木を一本足した。炎が戻ってきた。


地図をもう一度見た。北の方角に、何も書かれていない空白がある。明日はそこに行く。何があるのかは分からない。でも、何かがいる。そして、その何かは悪意を持っていない。


それで十分だった。


眠くなってきた。


石を並べた床に横になった。昨夜より少しだけ平らだった。背中がまだ痛いが、昨夜よりはましだ。


「案内人、寝てる間も周囲を監視できるか」


『異常があれば起こします』


「ありがとう」


目を閉じた。川の音が聞こえた。火の燃える音が聞こえた。北の揺らぎが、遠くにあった。


今日は、たくさんのことがあった。


森を歩いた。魔物と戦って、死んで、また戦って、勝った。拠点を作った。地図を描いた。


港町にいた頃の二日分より、ずっと多い。


「……悪くないな」


もう一度、小声で言った。


今度は、自分に言い聞かせているんじゃなかった。

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