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漂流した底辺冒険者  作者: 三幸 奨励
精霊試練編
36/49

第36話 風の試練

拠点に戻ったとき、空が変わった。


明確な変化ではなかった。雲が出たわけでもなく、色が変わったわけでもない。ただ、風の質が変わった。さっきまで穏やかに吹いていた風が、少し重くなった。方向が定まらなくなった。


——案内人。


『高濃度魔力を感知しました』


——また来たのか。


『単一の反応です』


単一。複数ではなく、一つ。


全員が立ち止まった。シンが周囲を見渡した。クロが剣の柄に手を置いた。シロが低く唸り始めた。


風が渦を巻いた。


拠点の前の空間で、風が集まり始めた。砂埃が舞い上がり、草が一方向に押し倒された。渦の中心が、少しずつ形を持ち始めた。


それは小さかった。


人型をしていたが、手のひらほどの大きさだった。髪が緑色で、短く、風に逆らって揺れていた。体の輪郭が少し曖昧で、空気と溶け合っているような見え方をした。


宙に浮いていた。


全員を見渡して、それから小さく欠伸をした。


「やっと来たか」


声が、直接頭の中に届いた。耳で聞いた音ではなかった。風が言葉になって頭に入ってくる感覚だった。軽い声だった。面倒くさそうで、でもどこか楽しそうな、そういう声だった。


「あなたが」とカルドは言った。「シルフですか」


「そう」


「嵐を起こしたのも」


「うん」あっさりしていた。「あの嵐も。もっと前の嵐も」


ホウが一歩前に出た。「もっと前の嵐というのは」


シルフはホウを見た。眠そうな目が、少しだけ動いた。「お前たちの村を壊したやつ。あれも私」


沈黙だった。


ホウは何も言わなかった。クロも言わなかった。シンは目を閉じて、何かを確認するような顔をしていた。


「なぜ」とホウが言った。声に感情がなかった。感情がないのではなく、感情を圧縮しているような声だった。


シルフはホウを見た。少し間を置いた。「気まぐれ」


「気まぐれ」


「そう」それ以上の説明をする気がない口調だった。


ホウは何も言わなかった。クロも何も言わなかった。


「試練の内容は何ですか」とカルドは聞いた。シルフの視線をホウから引き離すように。


シルフはカルドを見た。他の誰かを見るときより、少し長く見ていた。


「それぞれ違う」とシルフは言った。「サラマンダーは炎の試験。ノームは変化の試験。ウンディーネは流れの試験。私は——」少し間を置いた。「もう少し根本的なところを見る」


「根本的なところ」


「力を持ったとき、何をするか」


シルフが少しだけ笑った。笑っているとも、笑っていないとも取れる表情だった。


「じゃあ、君だけにやってもらおうかな」


次の瞬間、視界が消えた。



気づいたとき、場所が変わっていた。


拠点ではなかった。どこかの野原だった。草が低く、枯れかけていた。土が乾いていた。遠くに木立が見えたが、葉が少なかった。空は曇っていた。光はあったが、どこから差しているのか分からない、均一な明るさだった。


——ここはどこだ。


『魔力で構成された空間の可能性があります』


視界の端に、動きがあった。


小さな集落だった。粗末な建物が数棟、固まって建っていた。小柄で、動きが緩慢で、武装をしていなかった。弱い魔物たちの集落だった。数は十数体ほどで、子供と思われる小さな個体も混じっていた。


その集落の周囲に、別の存在がいた。


大きかった。狼の形をしていたが、普通の狼より一回り以上大きく、体色が灰色だった。目が黄色く光っていた。六体。集落を取り囲むように立っていた。動いていなかった。ただ、待っていた。


灰狼だった。


——案内人。この灰狼の強さは。


『単体であれば対処可能な範囲です。六体同時となると、勝率は25%です』


——4回に3回は負けるか。


《波長理解》を広げた。灰狼の波長は強かった。集落の魔物の波長は、恐怖で乱れきっていた。


その瞬間、灰狼の一体が動いた。


集落の入口に駆け込んだ。建物の陰から悲鳴が上がった。短い、鋭い悲鳴だった。それから沈黙した。


走った。


集落の入口に入った。地面に、小さな魔物が倒れていた。動いていた。死んではいなかった。でも、脇腹から血が出ていた。灰狼が爪で払ったのだと分かった。


灰狼がこちらを見た。黄色い目が、品定めするように動いた。


「何者だ」


「通りすがりの人間ですよ」


「関係ない者は退け」


倒れた魔物を見た。痛みをこらえて、震えながら、それでもこちらを見ていた。


——一歩遅かった。


その事実が、重く体に残った。


「退くわけにはいかないですね」


灰狼の目が細くなった。「なぜ」


「嫌だからです」


「感情で動くのか。愚かだ」灰狼は鼻を鳴らした。「弱肉強食は自然の理だ。我らは四日食えていない。飢えて死ぬくらいなら、弱者を食らう。それが生存だ。お前が止める理由がどこにある」


四日。


悪意で動いているのではなかった。生きるために動いている。飢えている存在が食料を求めている。それを止めることの意味を、改めて考えた。


止められなかった。嫌だという気持ちは変わらなかった。でも、灰狼の言葉を簡単に否定できなかった。


群れのリーダーが前に出た。最初の一体より大きかった。


「お前も分かっているはずだ」とリーダーが言った。「この集落を見ろ。土地が痩せている。川が遠い。ここに住む者たちはあと十年も保たない。我らが食らわなくとも、いずれ滅ぶ。守っても無駄だ」


集落を見渡した。


建物の壁が風化していた。土が乾いて、ひび割れていた。草が少なく、食料になるものが乏しかった。リーダーの言葉は、正確だった。


「十年後に滅ぶとして、今日死ぬ理由にはならない」


「それでとは何だ」


「十年の間に変えられることがある。今日守れれば、明日がある。明日があれば動ける」


「楽観だ」


「そうかもしれません。でも、合理だけで動けるほど割り切れていません」


リーダーが低く唸り、動いた。


《高速移動》を発動し、突進を横に外れた。リーダーが振り向いた。別の個体が横から来た。速かった。かわしきれず、肩を爪が掠めた。痛みが走った。


——六体同時は厳しい。


剣を抜いた。まだ攻撃はしなかった。構えだけだった。


「できれば戦いたくないですが、死にたくないので全力でやります」


「なぜそこまでする」とリーダーが言った。「この集落と何の関係もない。守っても得がない。なぜだ」


「得がなくても嫌なものは嫌です。一歩遅れて、あの子が傷ついた。その事実は変わらない。これ以上は嫌だと思っています」


「嫌だから命を賭けるのか」


「嫌なことを嫌なまま終わらせたくないので」


リーダーは動かなかった。群れも動かなかった。全員がこちらを見ていた。


長い沈黙だった。


「お前は」とリーダーが言った。「我らが食えなくて死んでも、嫌だと思うか」


考えた。考えてから、答えた。


「はい」


「なぜ」


「あなたたちも、生きたいはずだからです」


「……食料はどうする」リーダーの声が少し変わった。嗤いが消えていた。「この集落を食わなければ、我らは飢える。どちらも死ぬなと言う。では、どちらも生き残る方法があるのか」


「今すぐは分かりません。でも、考える時間をください。今日だけでいい。今日だけ、退いてほしい」


「今日だけ退いて、何が変わる」


「今日死んだら終わりです。今日生き延びれば、明日考えられる。それだけです」


リーダーは長い間、こちらを見た。見返した。


リーダーが群れの一体に目を向けた。群れの個体が短く唸った。


「六体で仕留められる」とリーダーが言った。「だが、二体は死ぬ」


沈黙があった。


「今は、その損を払えない」


「……今日は、退く」とリーダーが言った。「次に会うとき、お前がどちらも生かす方法を持っていなければ、その時は止めない」


「分かりました」


「約束できるか」


「できません。でも、考えます。必ず」


リーダーは背を向けた。群れが動いた。包囲が解けた。六体の灰狼が、野原の向こうへ歩いていった。振り返らなかった。


地面に倒れたままの小さな魔物に近づいた。傷を見た。深くはなかったが、血が出ていた。


「大丈夫ですか」


「……生きてる」


応急処置をした。手持ちの布で脇腹を押さえた。


「なんで助けた」


「嫌だったので」


魔物は黙っていた。しばらくして、「お前、馬鹿だろ」と言った。


「よく言われます」


「……ありがとう」


声が小さかった。でも、はっきり聞こえた。


その瞬間、空間が崩れた。



視界が戻った。


拠点の前だった。全員がいた。シン、クロ、ホウ、レイス。それから、シロ。全員がこちらを見ていた。


「どのくらい経ちましたか」とカルドは言った。


「一瞬だった」とレイスが答えた。「お前が消えて、すぐ戻ってきた」


体が少し疲れていた。実際には戦っていなかった。でも、何かが消耗した感覚があった。


「楽しかった?」


声が来た。


シルフが空中に浮いていた。さっきと同じ場所に、さっきと同じように浮いていた。眠そうな目で、こちらを見ていた。


「楽しい、という感じではなかったです」


「そう」シルフは少し首を傾けた。「でも、逃げなかった」


「逃げる理由がなかったので」


「強い側を全部倒すこともしなかった。弱い側だけ守って終わることもしなかった」シルフは続けた。「どちらも殺さなかった。どちらも捨てなかった」


何も言わなかった。


「なんで」とシルフが言った。


「どちらも必要だと思っているからです。弱者がいるから強者が強者でいられる。強者がいるから弱者は強くなろうとする。どちらかが消えれば、残った方も変わっていく」


少し間を置いた。「正しいかどうかは、分かりません。でも今は、そう思っています」


シルフは少し黙った。宙に浮いたまま、こちらを見ていた。


「面白い」とシルフは言った。


評価ではなかった。感想だった。正解か不正解かを言ったわけではなかった。


「ちゃんとした合格だよ。今回は一旦じゃない」


それだけだった。


風が来た。シルフの体が、風に溶け込むように薄くなった。形が崩れた。最後に見えたのは、緑色の髪が風に散っていく様子だった。


それから、消えた。


全員が沈黙した。


風は残っていた。穏やかで、草を揺らして、空を渡っていく風だった。


シロが唸るのをやめた。体の力を抜いて、カルドの隣に座った。


クロが空を見ていた。ホウが記録帳を持つレイスに何かを確認していた。シンが地面に触れた。


「魔力が薄くなっています」とシンが言った。「残滓はありますが、さっきより少ない」


「引いた、ということですか」


「そう思います」


空を見た。青かった。雲がなく、どこまでも続いていた。


ホウとクロは何も言わなかった。シルフが認めたこと。気まぐれで村を壊したこと。その言葉がまだ場に残っていた。今は伝えられることと、まだ伝えられないことがあった。


拠点の建物から、デルタが顔を出した。「何かあったか」


「少し」とカルドは答えた。「後で話します」


デルタは頷いて、中に戻った。


風が、穏やかに吹いていた。

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