第33話 嫌だと思った
異変に最初に気づいたのは、ネグルだった。
夜の見張りはネグルの担当だった。拠点の東側、森と開けた地の境目に立って、周囲の気配を測っていた。《波長理解》を教えてから、ネグルはそれに近いことを自分なりにやるようになっていた。スキルではなく、ただ集中することによって。
「カルド」
外に出ると、ネグルが東の方角を指していた。
「外が変だ」
——ネグルがわざわざ呼びに来るとは、嫌な予感がする。
『高濃度魔力を感知しました』
——一つか?
『複数の反応です。接近しています』
——何体だ。
『三体です。ただし、移動速度が著しく低下しています』
低下している。走っているのではなく、歩いている。あるいは——歩くのがやっとの状態か。
「行きましょう」
ネグルが「こっち」と先行した。
《波長理解》を広げた。三つの波長が近づいてくる。どれも乱れていた。怒りや敵意の波長ではなかった。消耗した、張り詰めた、それでも前に進もうとしている波長だった。
森の縁から、三つの影が出てきた。
*
最初に目に入ったのは、先頭の一体だった。
人間の形をしていた。背丈もほぼ人間と変わらない。ただ肌が薄く灰がかっていて、目の色が違った。暗い金色だった。髪は短く、体格は細いが骨格がしっかりしている。剣を背負い、すぐに抜ける位置に手を置いていた。
傷だらけだった。顔や腕に傷があり、服が破れている。それでも背筋が伸びて、歩き方が崩れていなかった。
後ろの女は先頭より少し小柄で、腰まである髪が深い青に近い黒をしていた。両手をわずかに前に出して、何かを探るように歩いていた。目が細く、足元を見ていた。
最後の一体が一番大きかった。肩幅があり、腕が太い。歩き方は重かったが安定していた。拠点の建物の数、出入り口の位置、こちらの人数——そういうものを素早く確認している目の動きだった。
三体とも、消耗しきっていた。
「止まってください」
三体が止まった。
先頭の一体がこちらを見た。暗い金色の目が、測るように動いた。
「何をしにきましたか」
「すまない、水を少し分けてくれないか」声は低く、乾いていた。
「分かりました。ネグル」
「わかった。持ってくる」ネグルが全速力で井戸へ向かった。
三体の間で、わずかに何かが緩んだ。身構えたままだったが、最初の固さより少しだけ解けた。
後ろの女が少し前に出た。両手がわずかに動いた。地面を探るような動きだった。
「水脈がここにはありますね」と静かに言った。
「よく分かりましたね。最近、地下水脈を引きました」
「私は様々なものを探知するのが得意で」地面を見つめたまま、力のない声で言った。
大きな一体が一歩前に出た。「本当に水をくれるのか」
「今持ってきます」
ネグルが水の器を三つ持って戻った。受け取って、三体に手渡した。
大きな一体が受け取り、においを嗅いだ。一口飲んで、口の中で転がした。「毒はない」
女が近づいて器を受け取り、目を閉じながらゆっくりと飲んだ。噛み締めるようにしばらくそのままでいた。
先頭の一体も器を受け取り、水を飲んだ。「助かった。ありがとう」
三体の肩から、わずかに力が抜けた。
「傷がひどいですね。良ければ手当てします。着いてきてください」
三体は何も言わなかったが、着いてきた。
「ネグル、ゲンを呼んできてください」
「わかった」
会議室へ向かった。
*
先頭の一体を簡易式のマットに寝かせ、ゲンが処置を始めた。
「事情を聞いてもいいですか」
女が答えた。「南の森の外れに村があるのですが——ありました、という言い方が正確です。今はもうありません」
「何があったんですか」
「嵐が来た」と大きな一体が言った。「唐突に。私たちの村だけを狙ったかのように」
「周囲の森に被害はなかった。風は村の中だけを荒らした。村の外に出れば穏やかだった」女が続けた。「あの嵐には魔力が込められていました。自然な嵐ではありません」
「誰かが意図的に」
「そう思っています。証拠はありませんが」
意図的な嵐。魔力を込めた嵐。シルフの名前が頭をよぎった。でも今考えることではなかった。
「村の他の方は」
「いない」と先頭の一体が言った。短く、それだけだった。
誰も何も言わなかった。
女が地面を見て、両手を動かした。「嵐の後、水を探しました。私は地面の下で流れるものを魔力の振動によって読みます。水が動く向きを辿れば、川や水源があると考えて」
——《波長理解》に近い。
「三日だ。水なしで三日歩いた」先頭の一体が起き上がりながら言った。
「はい、これで大丈夫です」ゲンが体を支えながら言った。
「ありがとう」わずかに微笑んだ気がした。
「ゲン、ありがとうございます」
「いえ」ゲンは会議室を後にした。
「名前を聞いてもいいですか」
「正式な名前はないが、周りからはクロと呼ばれている」
「シンです」
「ホウ」
「僕はカルドといいます」
三体がそれぞれこちらを見た。
「人間か」とクロが言った。
「はい」
「なぜここにいる」
「流れ着きました。帰る方法がないので、島に残っています」
クロは少し間を置いた。「帰れないのに、ここにいるのか」
「そうです」
「……そうか」
それだけだった。
*
シンが地面に手を当てていた。地下水脈の流れを確かめているようで、目を閉じて何かを聞いていた。
「変わった水路ですね」
「最近引きまして、古い水脈と新しい流れが交わっています。鍛冶師が整備しました。精霊に教わった組み方です」
「鍛冶師」シンは繰り返した。「人間ですか」
「そうです。一日でやり遂げました」
シンは少し黙った。「……筋がいいですね」
ドナンが褒められた。顔には出さなかった。
ホウが拠点の建物を見ていた。「ここに何人いる」
「人間が四人、オオカミが一匹、ゴブリンが三十人ほどです」
「ゴブリンと人間が一緒にいるのか」
「はい」
「ゴブリンが従っているのか、人間が従っているのか」
「一緒にやっています。どちらでもありません」
ホウはしばらく見ていた。拠点の構造を確認したときと同じ目の動き方で、今度はこちらを確認していた。
「信じられないが」とホウが言った。「嘘をついている感じもしない」
「嘘じゃないですよ。彼らは仲間です」
クロはずっと黙っていた。背筋が伸びたままだった。
「クロさん、水いりますか」
「いらない」
クロはこちらを見た。「俺は弱いものをたくさん斬った」と言った。誰かに向けた言葉でもなかった。ただ、言った。「そして強きものに斬られた。ただそれだけだ」
誰も何も言わなかった。シンがクロを見た。ホウも見た。でも何も言わなかった。
*
夕刻の風が少し強くなった。木々が揺れた。次の瞬間、突風が来た。
空に雲があったわけでもなかった。風が壁のように来て、木の葉が一斉に飛んだ。
クロが一瞬体勢を崩し、嵐の方向に向き直った。剣に手をかけた。
「魔力が込められています」シンが叫んだ。「さっきの嵐と同じです。魔力の質が同じです」
「追ってきたということですか」
「そうです」
《波長理解》を使った。風の中に魔力の流れがあった。向きがあった。方向があった。ただの嵐ではない。
「ネグル、拠点の中に」
「でも——」
「今すぐ」
ネグルが走った。
風が強くなった。クロが踏ん張り、それでも一歩後退した。さらに強くなった。
クロの体が吹き飛んだ。
横に五歩ほど転がり、膝をついた。立とうとして、立てなかった。
「クロ」とホウが叫んだ。風の中を進もうとしたが速くは動けなかった。
シンが地面に両手を当てた。風の流れが少しだけ変わった。弱い場所を作ろうとしているようだった。
走った。クロのそばに行き、腕を掴んだ。
「離せ」
「いいから掴め」
クロがわずかに驚き、腕を掴まれた。シンが作った流れの隙間を使いながら引いた。ホウが前に出て風を体で受けた。三人でクロを引きずるように建物の影に入った。
風が、止んだ。唐突に消えた。
全員が荒い息をついた。
クロが壁に背をついていた。額から血が出ていた。
「ゲンを呼んできます」
「待て、大丈夫だ」
立ち上がってこちらを見た。「あんたが助けようとする理由は何だ。俺たちは魔物だ。あんたは人間だ。助ける義理はない」
「義理とか義務とかではないですね」
「じゃあ何だ」
「困った時はお互い様。それに嵐の話を聞いて、少し嫌だと思いました。それだけです」
クロは何も言わなかった。
ホウがこちらを見た。シンもこちらを見た。
「嫌だ、か」とホウが小声で繰り返した。
*
朝になった。嵐は去り、空が晴れていた。
三体は拠点の外にいた。許可を得る前に、自分たちで外にとどまっていた。
外に出ると、クロが地面に座って空を見ていた。剣を横に置いていた。ホウとシンは少し離れたところで小声で話していた。
クロはこちらをじっと見た。
「嵐が来たとき、俺は弱い者を守ろうとした。その隙に強い嵐に巻き込まれた。俺が強ければ、守りながら戦えた。俺が弱かったから、守ることも戦うこともできなかった」
「……そうですか」
「それだけだ。言い訳はない」
クロは空を見た。同じように空を見た。この島に来てから、星をよく見るようになった気がした。
クロが立ち上がった。「斬るなら斬れ。俺たちを使えないと判断するなら、そうしろ。ここは弱肉強食、それがこの世界の原則だ」
一歩前に出た。クロとの距離が縮まった。暗い金色の目だった。疲れ切っていた。でも諦めていなかった。
しばらく、二人は向き合っていた。風が一度吹いた。草が揺れた。
「斬りませんよ」
クロは動かなかった。
「クロさん、シンさん、ホウさん。しばらくここにいませんか」
誰も言葉を返さなかった。
ホウがゆっくり立ち上がって歩いてきた。「良いのか」
「その代わり、三人には働いてもらいます。この島で、強いも弱いも関係なく生きていける場所を作ろうとしています。人間も魔物も関係ない」
ホウは長く、丁寧に測っていた。「……対等にやっているのか」
「そのつもりです。うまくできているかどうかはわかりません。でも、そのつもりでやっています」
「あんたは正直だな」
「嘘は苦手なもので」
「それは美点でもあり、弱点でもある」
ホウはシンを見た。シンが頷いた。ホウがクロを見た。
クロは地面に刺さった剣を引き抜いて、鞘に収めた。
シンがわずかに体の力を抜いた。ホウが短く息を吐いた。
「条件は」とホウが言った。
「今のところありません。ただ、ここで生活するなら一緒にやってもらいたい。それだけです」
「食事と寝る場はあるのか」
「食事は問題ありません。空き部屋が五つあるのでお好きな所を使ってください。狭ければドナンに伝えます」
ホウはしばらく考えた。「信じるに足るかどうか、まだ判断できない」
「それでいいです。急いで信じなくていい。長くいれば分かります」
「……長くいる前提か」
「こちらはそのつもりです」
ホウはカルドを見て、シンを見て、クロを見た。三体の間に、言葉ではない何かが通った。一瞬だった。
「今夜はここで休む。明日、また話す」
「分かりました。水と食事を持ってきます」
暗くてよく見えなかったが、ホウの表情が少し動いた気がした。
*
夜、地図を広げた。
三体の魔物が来た。クロ、シン、ホウ。嵐で村が壊滅して、三日間水なしで歩いてきた。シンが水脈を感知して、ここにたどり着いた。
今日の嵐と、クロたちの村を壊滅させた嵐の魔力の質が同じだとシンが言った。追ってきた、とも。
シルフの名前が頭をよぎったが、証拠はない。急いで結論を出すことでもない。
でも、また来るかもしれない。
ランプを消した。外は静かだった。ただ風が、草の上を通り過ぎていくだけだった。




