第31話 水と土
拠点に戻ったのは、空が橙色に染まり始めたころだった。
森を抜けて、建物の輪郭が見えてきたとき、ベルガが入り口の前に立っているのが見えた。腕を組んで、こちらをじっと見ていた。カルドたちが全員揃っているのを確認してから、腕を解いた。
「遅かったですね」
「少し手間取りました」
「全員いる」ベルガは一人ずつ顔を見た。「それならいい」
それだけだった。ベルガは振り返って「戻りましたよ」と中へ向かって言った。
中からダグズが飛び出してきた。
「えー、なんか濡れてないですか?」
「濡れていません」
「でもなんかそんな感じがする」
「気のせいです」
ダグズは首をひねった。「えー」
全員が建物の中に入った。留守番組のゴブリンたちがそれぞれ作業をしていた。カルドたちが戻ったのを見て、何人かが顔を上げ、また作業に戻っていった。
「今日は休め」とファルが言った。「明日から再開する」
誰も異論を言わなかった。
*
夜、飯を食ったあと、レイスが記録帳を広げた。
「海岸線の全長、砂浜の幅、地下遺構の構造——記録はある程度取れた。遺構の全体像は把握しきれていないが、水路の構造については推測を含めて記録してある」
「文献にはありますか」
「水を司る精霊が住まう場所に古い遺構が存在するという記述はある。ただし文献の話なので正確かどうかはわからないが」
レイスは少し間を置いた。「ウンディーネが直接関与した構造物だとすれば、あの水路は相当古い。島が形成されたころからあったとしても不思議じゃない」
「精霊が作った、ということですか」
「あるいは精霊のために作られた。どちらかは分からない」
ドナンが湯呑みを置いた。「あの遺構の石、古かった。組み方がここいらとは違う」
「どう違うんですか」
「今の俺たちが使ってる組み方は、重さで固定する。あれは違う。水が流れることで固まる構造だ。圧力を受けるほど噛み合う」ドナンは少し間を置いた。「俺には作れない」
「作れない」と言うのは珍しかった。全員がそれを分かっていたから、誰も余計なことを言わなかった。
シロが隅で体を丸めていた。今日は動きたくないという気配があった。
「シロ、疲れましたか」
「疲れていない」
「今日は特に大変でしたか」
シロの耳がわずかに後ろに傾いた。「量が多かった」
それ以上は聞かなかった。
*
翌朝、早くに目が覚めた。
外に出ると、空気が違った。海から離れているのに、清潔な水の匂いがした。土が湿っているのとも、川のそばにいるときとも違う。水そのものの匂いだった。
《波長理解》を使わなくても分かった。何かがいる。
会議室の方から水の音がした。
扉を開けると、ウンディーネがテーブル横の椅子に座っていた。昨日と変わらない姿だったが、海岸のときよりなぜか小さく見えた。建物の中にいるせいかもしれなかった。
「おはようございます」
「早いのね」
「なんの用ですか」
「少し、ね」嫌な笑みを浮かべている。「それより、他の人たちを起こしてきて」
「全員ですか」
「これからすることは全員に知らせておく方がいい。知らずに驚く人がいると面倒だから」
面倒、という言葉の使い方が精霊らしいと思った。
「分かりました。少し待ってください」
*
全員が会議室に集まったのは、それから半刻ほど後のことだった。
ゴブリンたちも含めて拠点にいる全員が来た。会議室が狭くなった。ダグズが「えー、ひとがいっぱい」と言って、デルタに小声で何か注意された。
ウンディーネは全員の顔を順に見た。人数を数えているようだった。
「改めて、昨日の試練は合格よ。だから来た」
短い説明だった。レイスが何か書き留めようとして、手を止めた。
「何をしに来たんですか」
「水を引く」ウンディーネはそれだけ言った。「この拠点、水の確保はどうしてる?」
「森の中の湧き水まで、片道小一時間です」
「遠いわね」少し首を傾けた。「ここの地下に水脈がある。深くはない。掘れば届く。ただ、掘り方を間違えると濁る。水脈の向きに沿って引かないといけない」
ドナンが前に出た。「掘り方を教えてもらえるか」
「教えるより見せる方が早い」ウンディーネはドナンを見た。「石を扱えるなら問題ないわ。私が水脈の向きを示すから、あなたが掘って。方向が変わったら言う」
「わかった」
「着いてきて」
ドナンは何も言わず、道具を取りに向かった。グラッグがその背中を見て、自分の道具を手に取った。
*
掘削が始まったのは朝のうちだった。
場所は会議室の裏手だった。ウンディーネが地面に触れてしばらく何かを確かめ、ここだと示した。地面に指で線を引いた。水脈の向きを示しているようだった。
「この線に沿って掘る。深さはここの人間の腕の長さより少し深いくらい」
「だいたいな」とドナンが言った。
「掘り始めたら、私が時々確認する。方向が変わりそうになったら声をかける」
「ああ」
ドナンとグラッグが掘り始めた。グラッグは黙っていたが、ドナンが道具を持ち替えるとそれに合わせて補助の動きを変えた。声なしで動いていた。モルダとトルブが土を運び出す係を自分たちで決めて、黙って作業に入った。
カルドは少し離れたところから見ていた。ウンディーネが隣に来た。
「見るだけ?」
「邪魔をしてもしょうがないので」
「そう」ウンディーネは掘削の様子を見た。「あなた、昨日の試練で一度前に進もうとしたわね。光の方向に」
「はい」
「止まった理由は」
「光が見えたから進もうとしたけれど、光の方向から水が来ていた。光の方向が正しいとは限らないと思いました」
「一人で気づいたの?」
「……仲間と話しながら、です。一人では気づかなかったかもしれない」
「正直ね」ウンディーネは少し笑った。「水は一人では流れない、という言い方をすることがある。川も海も、複数の流れが合わさって形を作る。一つの流れだけでは、すぐに砂に吸い込まれる」
「そういう意味での試練だったんですか」
「そうとも言えるし、違うとも言える。試練に一つの答えはない」
*
掘削が進む中、ネグルがカルドの隣に来た。
「ウンディーネは、なぜ水を引いてくれるんですか」
「試練を通ったから、と言っていました」
「精霊は試練を通れば何かをしてくれるんですか」
「サラマンダーやノームは何かをしてくれたというより、考え方を変えさせてくれた気がします。ノームは核があるという前提を変えた。サラマンダーは炎に対する理解が格段に上がった」
ネグルは少し間を置いた。「精霊から受け取るものは、それぞれ違うんですね」
「そのようです」
「じゃあウンディーネからは、水を受け取った」
「形のあるものとしては、そうですね」
「形のないものとしては?」
しばらく答えなかった。「これから分かることかもしれないです」
ネグルは黙ってうなずいた。それ以上は聞かなかった。
*
昼を過ぎたころ、ドナンが手を止めた。
「水脈に当たった」
ウンディーネが穴の傍に来て中を覗き込んだ。目が少し細くなった。
「いい深さ。方向もいい」
「あとは?」
「石を積む。地下水脈には圧力がある。内側に少し傾けて積めば、その圧力で水が上がってくる」
「見せてもらえるか」
「一段だけ」
ウンディーネが最初の石の置き方を示した。ドナンがじっと見た。グラッグも覗き込んだ。ドナンが石を取り、同じ角度で置いた。
「もう少し内側。そう。そこ」
微調整した。ウンディーネがうなずいた。
「あとは自分でできる?」
「やってみる」
ドナンが黙々と積み始めた。グラッグが石を渡した。ウンディーネは傍で時々確認した。崩れそうになったのは一度だけで、ウンディーネが小さく「そこ、止めて」と言い、ドナンが即座に角度を変えた。それだけだった。
レイスが全工程を記録していた。隣でコトが地面に手を当てていた。何かを感じているようだったが、何も言わなかった。
*
積み終わったのは夕方に差し掛かるころだった。最後の石が収まり、ドナンが穴から出た。
誰も声を出さなかった。
全員が穴を見た。
水が、ゆっくりと上がってきた。
濁っていなかった。透明だった。石の隙間から細い筋が何本も出てきて、中央に集まって、静かに上まで届いた。
「水が来た」とダグズが言った。いつもの軽い口調ではなかった。小さく、本当に驚いた声だった。
ベルガが穴の傍にしゃがんで、指先を水に触れさせた。しばらくそのままでいた。
「冷たい」
「地下水だから」とレイスが言った。「地表より温度が低い。夏でも冷たいままのはずだ」
ベルガはもう一度水に触れた。今度は少し長く。
「……いいですね」
デルタが近くに来て、同じように丁寧に触れた。
「飲めますか」
「飲める」とウンディーネが言った。「ただし上の枠をきちんと整備しないと土が混じる。そこはあなたたちの仕事」
「わかった」とドナンが言った。「枠は作る」
「水を各建物に引けるかどうかは、あなたたちが考えること。昨日の遺構の石の積み方、覚えた?」とドナンに聞いた。
「あぁ、忘れていないぞ」
「じゃあ問題ないわね」
ウンディーネの言い方は淡々としていたが、ドナンへの信頼が含まれているように聞こえた。ドナンは特に何も言わなかった。グラッグが隣で穴を覗き込み、水面に映る自分の顔を見ていた。
夕食の匂いが漂い始めたころ、ゴブリンたちが自然と井戸の周りに集まってきた。ダグズが何度も手を入れては出した。まるで本物か確かめているみたいだった。ザギンが「冷たい」と言い、また「冷たい」と繰り返した。キズラが「なぜ冷たいんですか」と聞き、レイスが地下水の説明をした。モルダが「地下、枠組み、水脈」と小声で繰り返して覚えていた。
ドナンが離れたところに座って、それを見ていた。グラッグがドナンの横に来て、同じように見た。
ファルが水を一口飲んで、特に何も言わなかった。でも、もう一口飲んだ。それで十分だった。
シロが水の近くまで来て、鼻を近づけた。
「どうですか」
「普通の水だ」
「嫌いですか」
「水はどこにあっても嫌いだ」シロは少し間を置いた。「ただ、ここにある方がいい。遠くに取りに行かなくて済む」
シロは何も言わなかった。でも、少しだけ耳の向きが変わった。嫌いだが、悪くない、という耳の向きだった。




