第30話 流れ
海岸線に出たのは、昼を少し過ぎたころだった。
北東へ向かう道は思ったより歩きやすかった。森の端を沿って進むと、やがて木々が開け、砂浜が見えてきた。
最初に目に入ったのは、その広さだった。
拠点の周辺には海が見える場所がない。ずっと森の中にいた。久しぶりに開けた場所に出た感覚があった。空が広く、水平線が遠かった。
「海だ」とネグルが言った。走り出しそうな気配があった。
「はしゃぐなよ」とファルは強く注意した。
「まずは見る。動くのはその後だ」
全員が立ち止まって、海を見た。
白い砂浜が緩やかに海へ傾き、ところどころに岩が点在していた。遠くに見える岩場は、サラマンダーのいた方角とは違う。
「記録を取る」とレイスが言って、記録帳を開いた。「海岸の全長、砂浜の幅、岩場の位置。歩きながら測る」
「どこまで歩きますか」
「行けるところまで。崖になっていたら引き返す」
デルタが砂浜に一歩踏み出した。足が砂に沈んだ。少し沈み方を確かめるように、もう一歩踏み出した。
「柔らかい」
「砂浜は基本的にそうですよ」
「岩の上の方が歩きやすい」
シロが砂浜の先に向かって鼻を動かした。耳が一度だけ前に向いて、また戻った。
「何かありますか」
「塩の匂いが強い」
「海岸だからね」
それだけだった。
*
海岸を歩き始めて、三十分ほど経ったころだった。
「おかしい」
コトが言った。
全員が止まった。
「波が来ない」
言われて気づいた。砂浜に打ち寄せる音が、いつの間にか消えていた。振り返ると、来た道の方は普通だった。波がある。でも、今いる場所から先は——波がなかった。
海面が、静かすぎた。
「引き潮か」
「違う」レイスが首を振った。「波が消えることはない」
全員が海を見た。目の前の海面だけが、まるで湖のように平らだった。
ネグルが海に近づいて腰を落とし、水面を覗き込んだ。
「底が見える。浅い。でも——」少し間を置いた。「砂が動いてる」
「波がないのに?」
「渦を巻いてる。どこかから流れが来てるみたいな動き方だ」
――《波長理解》を使おう。
魔力を広げた。
海の中に、何かがあった。波長ではない。気配でもない。水全体が一つの意志を持っているような感触だった。
「……うーん、これは」
言い終わる前に、海面が動いた。
波ではなかった。壁のように、静かに、しかし確実に、こちらへ向かって盛り上がってきた。
「後退」とファルが言った。
全員が下がった。砂浜を駆けた。
壁のような水が、砂浜の際で止まった。そして、形を変えた。
人の形だった。髪が水の色で、長く肩から背中へ流れている。肌は青みがかっていて、水そのものが皮膚になっているような質感だった。深い色の目が、こちらを見ていた。緑にも青にも見えた。海の底の色だった。
「こんにちは、私はウンディーネ。」
きょろきょろと見渡している。
「それにしてもここは浅いわね」
声は静かだった。サラマンダーのような熱もなく、ノームのような軽さもなかった。深いところから来るような声だった。
「あなたたちを測るには」
「測る、というのは」
「試練のことよ」
「ノームから聞きました。水のやつは静かだと」
ウンディーネは少しだけ表情を動かした。笑ったのかどうか、わからなかった。
「ノームらしいわ。静かかどうかなんて、関係ないのに」
「水が静かだと思う?」
答えなかった。
「水は静かじゃない。ただ、形がないだけよ」
言い終わる前に、足元の砂浜が変わった。砂と砂の隙間を満たしていたものが一気に広がって、足場が消えた。
落ちた。
抵抗する間がなかった。ファルが剣に手をかけたが意味がなかった。ドナンが踏ん張ろうとしたが踏ん張る地面がなかった。シロが跳ぼうとしたが空中で水に引かれた。
息ができないはずなのに、苦しくはなかった。
水の中を落ちていった。上には海面の光が見えたが、落ちるほど遠ざかっていった。
暗くなった。冷たくなった。
それから——石の床に、叩きつけられた。
*
痛かった。
溺れてはいなかった。呼吸ができた。全員が倒れていた。
「生きてるか」
ファルの声だった。
「生きています」
「シロ」
「問題ない」シロが立ち上がった。身体を一度振るった。水が飛んだ。
「ドナン」「生きてる」「デルタ」「……生きている。ここはどこだ」
起き上がって、周囲を見た。
石造りの部屋だった。天井が高く、壁に苔が生えている。古い建物だった。前方の壁に出口が一つある。
ネグルが壁を触った。「石だ。でも、いつものダンジョンとは違う。もっと古い」
「背後を見ろ」とレイスが言った。
後ろの壁の下から、水が染み出し始めていた。細い筋が何本も、石の隙間から出てきていた。
水位がゆっくりと上がり始めていた。
ウンディーネの声だけが、どこからか響いた。
「死にたくなければ頑張りなさい。」
「前に進むしかない」とファルが言った。
「待て」レイスが水面を見た。「水がどこから来てどこへ向かうか把握してから動く」
「時間がない」
「間違った方向に進んで行き止まりになる方が時間を失う」
レイスが水面を見続けた。後ろの壁と左の壁から水が染み出している。前方の出口の方向から来ている水は——なかった。
「前に進む。少なくとも今は水が来ていない方向だ」
「行こう」とファルが言った。
*
出口をくぐると、狭い通路があった。一人ずつ通れる幅。天井も低い。シロが少し屈んで歩いた。
通路の先に光があった。外からの光のような、白い光だった。
自然と足が速くなった。コトが先に走り出した。ネグルが続いた。
「待て」
カルドが言った。
「水の向きがおかしい」
足元を見た。通路の床に薄く水が流れていた。向きを確認した。
前から、来ていた。
光の方向から、水が流れてきていた。
「出口に近づくほど水流が強くなるはず」
「……逆だ」とレイスが言った。
通路の先の光を見た。出口に見える。でも、そこから水が来ている。
「どうする」とファルが聞いた。
「戻っても水が来る。あの部屋はもう水位が上がってしまっている」とレイスが言った。
意見が割れた。時間が過ぎた。足元の水が増えた。膝に届いた。
「前に進みましょう」とカルドが言った。
全員が動き出した。水流が強まり、足場が滑った。光が近くなった。
「違う」
立ち止まった。
「何だ」とファルが言った。
「ここじゃない」
――出口に向かうほど水流が強い。水源に向かって泳いでいる。では、水はどこへ向かうのか。低いところへ。
「下だ」
カルドは壁を触った。石の下の方を触った。足元の水流を感じた。
「床に穴があるはずだ。水が抜けている場所がある。そこに向かいます」
「見えないぞ」とドナンが言った。
――案内人
『《波長理解》を使用します』
水の中で魔力を広げた。水そのものが波長を持っていて、読みにくかった。それでも集中した。前からの強い流れと、別の弱い流れ。弱い流れは——下へ向かっている。
「後ろに戻る。最初の部屋の手前、左の壁の下に穴があります」
「絶対か」
「絶対です」自信のある声であったが、どこか焦りのあるような声でもあった。
来た道を戻り、水流に逆らって歩いた。
最初の部屋の手前まで戻り、左の壁を見た。水面下に石の隙間があった。人が通れる大きさではなかった。
「ここ壊せるな」とドナンが言った。壁を叩いた。「古い石だ。組んであるだけで接着していない」
「ドナン、お願いします」
ドナンが壁に取りかかった。シロが横に来て、石を噛んで引き剥がした。ウルジとドナンで石を引いた。穴が広がった。
人が通れる大きさになった。向こうは暗かった。でも、空気があった。
「行きます」
*
穴を抜けると、下へ続く階段があった。
崩れかけていた。踏みしめるたびに石が軋んだ。
「下層だ」とレイスが言った。「この下にもう一つの階がある。助かった。水が少ない」
降りた。
最下層は広かった。天井が高く、柱が何本も立っていた。その奥に、巨大な石の構造物があった。
水路。石が積み重なって水の流れを一方向に向ける構造だったが、どこかで詰まって溢れていた。それが上の階を浸水させていた。
「水路を切り替える仕組みだ」とレイスが言った。「石が三つずれている。戻せば水路が通る」
「やりましょう」
「やっと辿り着いたのね。でも、止めようとしたら負けよ」
ウンディーネの声が響いた。
姿が見えた。水面に立っていた。最下層の中心に、濡れずにいた。
「水路を直して、向きを変えるだけです」
ウンディーネは少し間を置いて「そう」だけ残した。
全員で石の構造物に取りかかった。
一つ目はドナンとウルジが二人がかりで動かした。石が正しい位置に収まった。上への溢れが少し減った。
二つ目は四人がかりだった。カルドが《岩礫生成》で周囲の堆積を砕いた。石が滑り、収まった。水圧が弱まった。
三つ目は小さかった。でも、水面下の深い場所にあった。
「あとは任せてください」
息を吸って潜った。暗い。石の隙間からかすかな光が漏れていた。手探りで石を探した。あった。両手で押した。動かなかった。角度を変えた。動いた。収まった。
水流が変わった。
浮かび上がった。
水位が下がり始めていた。床の水が薄くなった。足が石の床に着いた。
「終わりました」
ウンディーネがこちらを見ていた。
「柔らかくなったわね」
「柔らかく、というのは」
「流れに逆らうだけでは沈むの。一度前に進もうとして、止まった。修正した。それが水の動き方よ」
「逆らわないということですか」
「逆らわないんじゃない」ウンディーネは少し首を傾けた。「逆らう必要のない方向を探すの。同じ場所で押し続けても、水は動かない。少し別の場所に力を入れると、流れが変わる」
「それを自分の判断で修正できた。それが答えよ」
「試練は、終わりですか」
「そう」
「合格ということですか」
ウンディーネは少しだけ笑った。余裕のある、深い笑い方だった。「あなたが合格だと思うなら、そうでしょう」
気づけば、全員が砂浜にいた。
どうやって戻ったのかわからなかった。
砂浜は普通だった。波の音があった。空が青かった。ネグルが自分の手を見ていた。「濡れていない」「服も濡れていない」
「精霊だから」とデルタが言った。短く、それだけだった。
消え際にウンディーネの声だけが残っていた。
「次は、もっと深いところで会いましょう」
*
帰り道は静かだった。水の中で判断を続けた後の感覚が、全員にあった。
ネグルが隣に来た。
「下に行くと言ったとき、どうして分かった」
「《波長理解》で水の流れを読みました。正確ではなかったですが」
「絶対と言っていたが」
「あれは、その時は間違いないと思ってましたが、今思えば焦りからくるものでしたね」
「危険で傲慢でした」
ネグルが少し間を置いた。「おかげで助かった」
シロが横に来た。
「疲れているか」
「少し。シロは」
「水が嫌いだ」
「初めて聞きました」
「言う機会がなかった」
シロは答えなかった。耳が後ろに傾いた。
拠点に戻ったのは夕方だった。夕焼けが森の端を橙に染めていた。




