第3話 嫌だな
翌朝、目が覚めたとき、最初に聞こえたのは波の音だった。
岩壁の陰に背中を預けて眠っていた。砂の上だ。石が肋骨に当たっていたのか、脇腹が痛い。それでも、眠れた。昨日あれだけ死んで、あれだけ疲弊して、それでも眠れたのだから、体は正直だ。
空が明るくなっていた。雲が少ない。風は穏やかだった。
昨日倒した魔物の肉が残っていた。夜のうちに虫が来ていたが、火で炙ればどうにかなる。少しずつ食べた。味はない。いや、正確には、塩気が足りない。海の魔物なのに不思議だと思いながら食べた。腹が膨れたら、それでよかった。
食べながら、今日やることを考えた。
昨日は海岸で一日が終わった。スキルの把握と戦闘、それで手一杯だった。でも今日はちゃんと動く必要がある。食料の確保。水の確保。寝る場所。それと、この島がどんな場所なのかを知ること。
「案内人、今の《死に戻り》のエネルギー残量は」
『昨日の討伐によるエネルギー回復を確認しています。残量、中』
「回復したのか」
『戦闘終了時に自動回復します』
「なるほど」
つまり、戦闘に勝ち続ける限り、死に戻りは使い続けられる。ただし負けたら消耗する。負け続ければ残量がなくなる。そうなったとき、次の死が本当の死になる。
シンプルなルールだった。
「行きましょうか」
誰もいなかった。案内人に言ったのか、自分に言ったのか、どちらでもよかった。
*
森は、入った瞬間から雰囲気が変わった。
海岸の開けた空気が消えて、緑の濃い匂いが鼻に入ってくる。木々の根が地面を這っていた。蛇のように絡み合い、足場を複雑にしている。一歩踏み出すたびに、どこに足を置くか確認しないといけなかった。
《波長理解》を薄く流した。
昨日学んだことがある。このスキルは便利だが、強く使えばそれだけ疲れる。精度を上げようとすると、頭に靄がかかったような感覚が残る。だから今日は薄く、広く流す。異常があれば拾える程度に。
揺らぎが広がった。
木々の間に、複数の魔力反応がある。大きくはない。移動している。生きているものの動きだ。
でも、近づいてこない。
森の魔物は、こちらを見ていた。でも警戒しているだけで、敵意はなかった。縄張りを侵されたわけでも、餌として認識されたわけでもない。ただ、見知らぬ存在が入ってきた、という反応だった。
「……静かだな」
声が、思ったより大きく響いた。木々に吸い込まれていく。
静かだった。波の音も、風の音も、ここまでは届かない。木の葉が擦れる音と、遠くで鳥のような声がするだけだ。
この静けさは、悪くなかった。
港町は五月蝿かった。朝から商人の声が響いて、酔っ払いが夜中まで騒いで、ギルドはいつも誰かと誰かが言い合いをしていた。それが普通だと思っていたが、こうして静かな場所に来てみると、ずっとどこかで音に疲れていたのかもしれないと思った。
森の奥へ進んだ。
木々の種類が変わっていった。入口付近は細い木が多かったが、奥に行くほど太くなる。幹の周りを両腕で抱えても届かないような木が、何本もあった。根元に苔が生えていて、古い木だと分かる。
この島はいつからあるのだろう。
『不明です』
声に出していなかった。《波長理解》が案内人に伝わったのか、それとも案内人が先読みしたのか。
「……読んだのか」
『疑問符を持った波長を感知しました。回答可能な内容であれば補助します』
「それ、少し怖いな」
『必要であれば機能を制限できます』
「いや、いい。便利だから」
少し変な気分だった。一人で歩いているのに、一人じゃない。声は無機質で感情がない。でも、こちらが何かを考えれば反応が来る。
嫌いじゃなかった。
*
茂みの奥に、揺らぎを感じた。
《波長理解》が拾ったのは、怯えの波長だった。複数。小さい。動いていない。身を固めているような気配だ。
足を止めた。
慎重に近づく。枯れ枝を踏まないように、足の置き場を選びながら。
木陰の向こうに、兎に似た小型の魔物が数匹、身を寄せ合っていた。
耳が長く、目が大きい。体は丸く、ふわふわした毛並みをしていた。魔力はほぼなかった。《波長理解》で見ると、揺らぎがとても小さい。魔物というより、ただの小動物に近い。
身を寄せ合って、じっとしていた。
何かを警戒している。でも、僕の存在には気づいていないようだった。
「……可愛いもんだな」
声に出したのは失敗だった。
その瞬間、草むらが割れた。
爪。牙。鱗に覆われた細長い胴体。蛇型の魔物が、兎の群れに飛び込んだ。
悲鳴が上がった。
逃げ惑う。小さな体が弾けるように散った。でも間に合わなかった。一匹が捕まった。他は散り散りに消えた。
蛇型の魔物は、静かに獲物を飲み込み始めた。
急いでいなかった。じっくりと、確実に。それだけだった。
僕は、ただ見ていた。
助けに行く理由がなかった。手段もなかった。あの蛇型の魔物を今の自分が倒せるかどうかも分からない。そもそも、これは自然だ。弱いものが食われる。強いものが生き残る。森の中ではそれが当たり前で、誰も変だと思わない。
……分かっている。
頭では分かっている。
「……嫌だな」
声に出すつもりはなかった。
ただ、出た。
喉の奥から、勝手に出てきた言葉だった。
蛇型の魔物が、ゆっくりと草むらの中へ消えていった。さっきまで兎たちがいた場所だけが残った。踏み荒らされた草と、小さな毛が数本。
それだけだった。
踵を返した。
足が、少し重かった。なぜかは分からなかった。論理的に考えれば、何も間違っていない場面だった。でも足が重かった。
「案内人、一つ聞いていいか」
『はい』
「さっきの兎みたいな魔物。あいつら、名前はあるのか」
『観測範囲に名称記録はありません。命名されていない可能性があります』
「名前もないのか」
『弱小種は記録が残りにくい傾向があります』
弱小種は記録が残りにくい。
淡々とした言葉だったが、なぜか胸に引っかかった。記録が残らない、ということは、誰にも認識されないということだ。名前もなく、存在を知られることもなく、食われて消える。
「……嫌だな、やっぱり」
今度は声に出すつもりで言った。
*
丘の上に出た。
木が途切れて、急に視界が開けた。風が来た。森の中より涼しくて、潮の匂いが混じっていた。
見渡した。
森が広がっていた。昨日見た浜とは反対方向だ。遠くに山が見える。頂が霞んでいて、上の方が見えなかった。この島がどのくらいの大きさなのかも、まだ分からない。
あちこちに、魔力の揺らぎがある。
《波長理解》を少し強めると、島の地形に沿って魔力の流れが見えた。川のように、一定の方向に流れている場所がある。淀んでいる場所がある。強い個体はその流れの要所に陣取って、縄張りにしていた。弱い個体は流れの端や、魔力が薄い隙間で生きていた。
強いものが場所を占め、弱いものがその残りで生きている。
島全体がそういう構造になっていた。
「案内人」
『はい』
「この島の弱い魔物たち、ずっとこのまま怯えながら生きるのかな」
少し間があった。
『現状の生態系では、そうなります。強者が縄張りを持ち続ける限り、弱者の生存域は固定されます』
「誰も変えようとしたことはないの?」
『記録にはありません』
記録にない。
つまり、誰も試みなかったか。試みて、失敗したか。どちらかだ。
昨日の狼の言葉が頭をよぎった。
——落ちた者の島。選ばれ、捨てられ、流れ着く場所。
流れ着く場所。選ばれた者が来る場所。
「……僕が来たのは、偶然じゃないのかもな」
独り言のつもりだった。口に出してから、少し恥ずかしくなった。才能のない底辺冒険者が、何を言っているんだという話だ。
でも、口に出した瞬間、何かが固まった気がした。
強いものだけが生き残る島。弱いものが怯えながら死んでいく島。それを変える奴がいない島。
荒唐無稽だ。分かっている。一人の、何の取り柄もない人間が言うことじゃない。パーティーも組めなくて、討伐依頼を三回連続で失敗して、薬草採取で食いつないでいた人間が。
でも——仕方ない、で諦めるのは、もう飽きた。
ギルドで受付嬢に「仕方ないわ」と言われるたびに、そうですねと言ってきた。それが現実だと思っていた。才能がない自分には、仕方ないことばかりだと。
でも今は、地図にない島にいる。死に戻りのスキルを持っている。誰もいない。誰の目もない。仕方ない、と言ってくれる受付嬢もいない。
やれるかどうかじゃない。やるかどうかだ。
「案内人、目標を設定するって機能はあるか」
『あります』
「強いも弱いも関係なく、生きていける場所を作る。この島で。それを目標にする」
しばらく間があった。
案内人はいつも即答する。それが少し遅れた。
『……了解しました』
感情があるのかないのか、よく分からない声だった。でも、その一拍が少しだけ引っかかった。驚いたのか、考えたのか、それとも別の何かなのか。
聞いてもきっと「不明です」と言われる。
「よろしく」
丘の上から、もう一度島を見渡した。
まだ、何も始まっていない。でも、決めた。それで今日は十分だと思った。
風が、また来た。今度は少し強かった。




