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漂流した冒険者  作者: 三幸奨励
絶海孤島編
3/33

第3話 嫌だな

翌朝、目が覚めたとき、最初に聞こえたのは波の音だった。


岩壁の陰に背中を預けて眠っていた。砂の上だ。石が肋骨に当たっていたのか、脇腹が痛い。それでも、眠れた。昨日あれだけ死んで、あれだけ疲弊して、それでも眠れたのだから、体は正直だ。


空が明るくなっていた。雲が少ない。風は穏やかだった。


昨日倒した魔物の肉が残っていた。夜のうちに虫が来ていたが、火で炙ればどうにかなる。少しずつ食べた。味はない。いや、正確には、塩気が足りない。海の魔物なのに不思議だと思いながら食べた。腹が膨れたら、それでよかった。


食べながら、今日やることを考えた。


昨日は海岸で一日が終わった。スキルの把握と戦闘、それで手一杯だった。でも今日はちゃんと動く必要がある。食料の確保。水の確保。寝る場所。それと、この島がどんな場所なのかを知ること。


「案内人、今の《死に戻り》のエネルギー残量は」


『昨日の討伐によるエネルギー回復を確認しています。残量、中』


「回復したのか」


『戦闘終了時に自動回復します』


「なるほど」


つまり、戦闘に勝ち続ける限り、死に戻りは使い続けられる。ただし負けたら消耗する。負け続ければ残量がなくなる。そうなったとき、次の死が本当の死になる。


シンプルなルールだった。


「行きましょうか」


誰もいなかった。案内人に言ったのか、自分に言ったのか、どちらでもよかった。



森は、入った瞬間から雰囲気が変わった。


海岸の開けた空気が消えて、緑の濃い匂いが鼻に入ってくる。木々の根が地面を這っていた。蛇のように絡み合い、足場を複雑にしている。一歩踏み出すたびに、どこに足を置くか確認しないといけなかった。


《波長理解》を薄く流した。


昨日学んだことがある。このスキルは便利だが、強く使えばそれだけ疲れる。精度を上げようとすると、頭に靄がかかったような感覚が残る。だから今日は薄く、広く流す。異常があれば拾える程度に。


揺らぎが広がった。


木々の間に、複数の魔力反応がある。大きくはない。移動している。生きているものの動きだ。


でも、近づいてこない。


森の魔物は、こちらを見ていた。でも警戒しているだけで、敵意はなかった。縄張りを侵されたわけでも、餌として認識されたわけでもない。ただ、見知らぬ存在が入ってきた、という反応だった。


「……静かだな」


声が、思ったより大きく響いた。木々に吸い込まれていく。


静かだった。波の音も、風の音も、ここまでは届かない。木の葉が擦れる音と、遠くで鳥のような声がするだけだ。


この静けさは、悪くなかった。


港町は五月蝿かった。朝から商人の声が響いて、酔っ払いが夜中まで騒いで、ギルドはいつも誰かと誰かが言い合いをしていた。それが普通だと思っていたが、こうして静かな場所に来てみると、ずっとどこかで音に疲れていたのかもしれないと思った。


森の奥へ進んだ。


木々の種類が変わっていった。入口付近は細い木が多かったが、奥に行くほど太くなる。幹の周りを両腕で抱えても届かないような木が、何本もあった。根元に苔が生えていて、古い木だと分かる。


この島はいつからあるのだろう。


『不明です』


声に出していなかった。《波長理解》が案内人に伝わったのか、それとも案内人が先読みしたのか。


「……読んだのか」


『疑問符を持った波長を感知しました。回答可能な内容であれば補助します』


「それ、少し怖いな」


『必要であれば機能を制限できます』


「いや、いい。便利だから」


少し変な気分だった。一人で歩いているのに、一人じゃない。声は無機質で感情がない。でも、こちらが何かを考えれば反応が来る。


嫌いじゃなかった。



茂みの奥に、揺らぎを感じた。


《波長理解》が拾ったのは、怯えの波長だった。複数。小さい。動いていない。身を固めているような気配だ。


足を止めた。


慎重に近づく。枯れ枝を踏まないように、足の置き場を選びながら。


木陰の向こうに、兎に似た小型の魔物が数匹、身を寄せ合っていた。


耳が長く、目が大きい。体は丸く、ふわふわした毛並みをしていた。魔力はほぼなかった。《波長理解》で見ると、揺らぎがとても小さい。魔物というより、ただの小動物に近い。


身を寄せ合って、じっとしていた。


何かを警戒している。でも、僕の存在には気づいていないようだった。


「……可愛いもんだな」


声に出したのは失敗だった。


その瞬間、草むらが割れた。


爪。牙。鱗に覆われた細長い胴体。蛇型の魔物が、兎の群れに飛び込んだ。


悲鳴が上がった。


逃げ惑う。小さな体が弾けるように散った。でも間に合わなかった。一匹が捕まった。他は散り散りに消えた。


蛇型の魔物は、静かに獲物を飲み込み始めた。


急いでいなかった。じっくりと、確実に。それだけだった。


僕は、ただ見ていた。


助けに行く理由がなかった。手段もなかった。あの蛇型の魔物を今の自分が倒せるかどうかも分からない。そもそも、これは自然だ。弱いものが食われる。強いものが生き残る。森の中ではそれが当たり前で、誰も変だと思わない。


……分かっている。


頭では分かっている。


「……嫌だな」


声に出すつもりはなかった。


ただ、出た。


喉の奥から、勝手に出てきた言葉だった。


蛇型の魔物が、ゆっくりと草むらの中へ消えていった。さっきまで兎たちがいた場所だけが残った。踏み荒らされた草と、小さな毛が数本。


それだけだった。


踵を返した。


足が、少し重かった。なぜかは分からなかった。論理的に考えれば、何も間違っていない場面だった。でも足が重かった。


「案内人、一つ聞いていいか」


『はい』


「さっきの兎みたいな魔物。あいつら、名前はあるのか」


『観測範囲に名称記録はありません。命名されていない可能性があります』


「名前もないのか」


『弱小種は記録が残りにくい傾向があります』


弱小種は記録が残りにくい。


淡々とした言葉だったが、なぜか胸に引っかかった。記録が残らない、ということは、誰にも認識されないということだ。名前もなく、存在を知られることもなく、食われて消える。


「……嫌だな、やっぱり」


今度は声に出すつもりで言った。



丘の上に出た。


木が途切れて、急に視界が開けた。風が来た。森の中より涼しくて、潮の匂いが混じっていた。


見渡した。


森が広がっていた。昨日見た浜とは反対方向だ。遠くに山が見える。頂が霞んでいて、上の方が見えなかった。この島がどのくらいの大きさなのかも、まだ分からない。


あちこちに、魔力の揺らぎがある。


《波長理解》を少し強めると、島の地形に沿って魔力の流れが見えた。川のように、一定の方向に流れている場所がある。淀んでいる場所がある。強い個体はその流れの要所に陣取って、縄張りにしていた。弱い個体は流れの端や、魔力が薄い隙間で生きていた。


強いものが場所を占め、弱いものがその残りで生きている。


島全体がそういう構造になっていた。


「案内人」


『はい』


「この島の弱い魔物たち、ずっとこのまま怯えながら生きるのかな」


少し間があった。


『現状の生態系では、そうなります。強者が縄張りを持ち続ける限り、弱者の生存域は固定されます』


「誰も変えようとしたことはないの?」


『記録にはありません』


記録にない。


つまり、誰も試みなかったか。試みて、失敗したか。どちらかだ。


昨日の狼の言葉が頭をよぎった。


——落ちた者の島。選ばれ、捨てられ、流れ着く場所。


流れ着く場所。選ばれた者が来る場所。


「……僕が来たのは、偶然じゃないのかもな」


独り言のつもりだった。口に出してから、少し恥ずかしくなった。才能のない底辺冒険者が、何を言っているんだという話だ。


でも、口に出した瞬間、何かが固まった気がした。


強いものだけが生き残る島。弱いものが怯えながら死んでいく島。それを変える奴がいない島。


荒唐無稽だ。分かっている。一人の、何の取り柄もない人間が言うことじゃない。パーティーも組めなくて、討伐依頼を三回連続で失敗して、薬草採取で食いつないでいた人間が。


でも——仕方ない、で諦めるのは、もう飽きた。


ギルドで受付嬢に「仕方ないわ」と言われるたびに、そうですねと言ってきた。それが現実だと思っていた。才能がない自分には、仕方ないことばかりだと。


でも今は、地図にない島にいる。死に戻りのスキルを持っている。誰もいない。誰の目もない。仕方ない、と言ってくれる受付嬢もいない。


やれるかどうかじゃない。やるかどうかだ。


「案内人、目標を設定するって機能はあるか」


『あります』


「強いも弱いも関係なく、生きていける場所を作る。この島で。それを目標にする」


しばらく間があった。


案内人はいつも即答する。それが少し遅れた。


『……了解しました』


感情があるのかないのか、よく分からない声だった。でも、その一拍が少しだけ引っかかった。驚いたのか、考えたのか、それとも別の何かなのか。


聞いてもきっと「不明です」と言われる。


「よろしく」


丘の上から、もう一度島を見渡した。


まだ、何も始まっていない。でも、決めた。それで今日は十分だと思った。


風が、また来た。今度は少し強かった。

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