第29話 拠点拡大
レイスが地図を広げたのは、朝食が終わってすぐだった。
テーブルに広げた地図は、この数か月で随分と書き込みが増えていた。拠点の位置、村の位置、森の輪郭、ダンジョンの入口、サラマンダーのいた岩場。ノームが出てきた場所には小さく「ノーム」と書いてある。
「見てほしいものがある」
全員が地図を覗き込んだ。
「村と拠点の距離だ」
指先で二か所を示した。直線で結べばそれほど遠くはない。しかし実際に歩くと、森を迂回する必要があり、時間がかかる。
「統合した方がいい。二か所に分かれている意味が薄くなってきた」
デルタが腕を組んだ。「村の者共も、移ることへの抵抗は少ないと思う。最初から仮の場所だ」
「拠点側に統合する方が現実的だ」とレイスが続けた。「壁がある。設備がある。村の方を移した方が手間が少ない」
ドナンが「同意する」と短く言った。
「何日かかりますか」
「家の建設込みで一か月から二か月。材木の確保が鍵だ。ドナン、どう見る」
ドナンは地図を一度見て、また顔を上げた。「一か月でいける。材木は北の林で十分足りる」
「その間、剣の修行をするぞ」ファルが言った。
「はい……」
「決まりだな」
レイスが地図を折り始めた。
*
翌朝から、動き始めた。
ドナンが日の出前に起きていた。グラッグが隣にいた。二人とも無言で、道具の確認をしていた。グラッグはもうドナンの動きを見なくても何が必要かが分かるらしく、ドナンが手を出す前に道具を渡していた。
「おはようございます」
ドナンが顎で北の方向を示した。「木を切る」
「手伝えますか」
「木を切れるか」
「できます」
「なら来い。根を砕く」
根を砕く。聞かないでおこう。
北の林へ向かいながら、ドナンが歩幅を縮めた。普段より少しだけゆっくり歩いている。グラッグに合わせているのかもしれない。グラッグはドナンの横をぴったりくっついて歩いていた。
林に着くと、ドナンは一度全体を見渡した。目が木を一本一本確かめていく。しばらく経ってから、一本の木を指で示した。
「この列から倒す。根元から三本先まで」
「順番がありますか」
「ある。奥から手前に倒す。そうしないと後が詰まる」
作業が始まった。ドナンの斧が木に入るたびに、林の静けさが崩れた。グラッグが切り屑を素早く脇に寄せた。僕は根の周囲の岩盤を《岩礫生成》で砕いて、倒れるときに根が引っかからないようにした。
「岩の範囲を広げられるか」
「少しなら。どのくらいですか」
「木の根は思ったより広がっている。半径二歩分くらいは砕いておかないと、倒れたときに跳ねる」
魔力を広げた。地面の下で岩盤が砕ける感触が足の裏に来た。昨日まではなかった感触だった。
気のせいではない、と思った。ノームと会ってから、地面の感触に少し敏感になっている気がした。
「できました」
「よし」
木が倒れた。音が林に響いた。グラッグが小さく声を上げた。ドナンが横目で見た。グラッグはすぐに表情を戻して切り屑を集め始めた。ドナンは何も言わなかった。
その横顔を見ていると、ドナンが弟子を持ったのだと思った。グラッグはドナンから技術を学んでいるが、ドナンもグラッグから何か受け取っている気がした。何かというのが何なのか、うまく言えなかった。
午前中で十五本倒した。
ドナンが「少し休む」と言った。グラッグがすぐに水を渡した。
「グラッグは最初から建設が好きだったんですか」
ドナンは水を飲みながら少し考えた。「最初は怖かったと思う」
「斧がですか」
「音が。最初に斧を振ったとき、固まっていた」
「今は全然そんな感じがしない」
「慣れた。慣れると、次が見えるようになる」
グラッグがドナンの顔を見た。ドナンは前を向いていた。グラッグはまた前を向いた。
*
村の移動は三日かけて行った。
デルタが段取りをした。荷物の多い家から順番に、拠点に近い場所へ移していく。ゴブリンたちは文句を言わなかった。むしろ動いていた。テオが一番重い荷物を持ち、バルチが経路の確認をした。ウルジが全体を見て声を出した。
「左側、道が狭くなる。一列になれ」
モルダが前の者に伝え、前の者がその前の者に伝えた。声が列を伝っていく。
ゴブリンたちが荷物を持って移動する列を見ていると、半年前とは全然違うと思った。半年前は指示が届かなかった。声が届いても、意味が伝わらなかった。今は、テオが声を出すとみんなが動く。
デルタが隣に来た。
「どうした」
「列を見ていました」
「何を考えていた」
「デルタが指揮を取っているのを見ていた」
デルタは少し間を置いた。「半年前と違う、と思っているか」
「そうですね」
デルタは列を見た。「違う。でも、急に変わったわけじゃない。少しずつ。振り返ると全然違うが、毎日は同じだった」
「デルタは、村が拠点に統合されることをどう思っていますか」
「場所が変わるだけだ」
「村がなくなる、という感じはありませんか」
デルタは少し考えた。「村は建物じゃない。みんながいれば村だ」
それだけ言って、デルタは列の方に戻った。
場所が変わるだけ、か。
*
家の建設は、ドナンが設計して進めた。
レイスが間取りを決めた。ゴブリンの体格に合わせた天井の高さ、採光の角度、雨が入りにくい屋根の傾き。紙に書いた図面をドナンに渡し、ドナンが修正を入れ、また戻ってきた。二人はあまり言葉を使わなかった。図面に書き込みを入れることで会話をしていた。
「この二人の会話、文章で読んだ方が速いと思います」
ガンズが隣で聞いていた。単語帳を持っていた。
「書いているのを読んでいたのか」
「勉強になる。建物を作るとき、何を考えるかが分かる」
ガンズが単語帳を開いた。「荷重」「外壁」「間隔」という言葉が書いてあった。
「全部書き取っていたんですか」
「書かないと忘れる。書くと残る。レイスが言っていた」
「レイスは正しいことを言う」
ガンズは単語帳を閉じて、また建設現場の方に向かった。
七日目に最初の家が完成した。
ドナンが完成した家の前に立って、外壁を一度だけ叩いた。コン、と乾いた音がした。
グラッグが隣に立っていた。ドナンの顔を見た。ドナンはまだ外壁を見ていた。
「どうですか」
「問題ない」
それだけだった。でも、グラッグが少し胸を張った。
家の前に、モルダとキズラが来た。二人で中に入り、天井を見て、壁を触って、また出てきた。
「高い」とモルダが言った。
「どこが」
「入口が。うちらより高い」
キズラは少し考えてから「そうか」と言った。それから中に入り直した。
*
会議室が完成したのは、一か月が経った頃だった。
村の移動が完了し、家が四棟建ち、最後に会議室ができた。拠点の中心に近い場所に置いた。
外から見ると、他の建物よりずいぶんと大きかった。天井が高く、入口が広い。内部は簡素だった。壁に地図を貼れる板が一枚。その周りに座れる場所。真ん中に、円形のテーブルが置かれた。
完成した会議室の中に入ると、外とは少し空気が違う感じがした。テーブルが中央にあることで、重心のある場所ができている感じがした。
シロが入口のところで止まった。中を見て、また外に出た。
「入らないんですか」
「会議は人間がやれ」
「シロも参加していいんですよ」
「必要ない」
そう言ってその場から離れてしまった。
*
初めての会議は、夕方に行った。
集まったのは五人だった。カルド、ファル、ドナン、レイス、デルタ。
レイスが地図をテーブル上に広げた。今まで使ってきた地図より大きいものだった。今まで書き込んできた情報が全部移し直してある。
「まず現状を確認する。拠点の統合が完了した。家が四棟。会議室が一棟。人員は人間四名、ゴブリン三十名、シロ。食料の備蓄は三か月分。壁の強度も問題ない」
「次に、探索の話だ」
地図を全員が見た。今まで調べた場所には印がついている。それ以外にも、偵察で確認した範囲が薄く線で引かれている。
「まだ行っていない場所がある。気になるのが海岸線だ。この島に来たとき、漂着した場所以外の海岸を正確に調べていない。島の形を正確に書けていない可能性がある」
「確かに、行っていないですね」
「先に島の大きさを把握するのはどうだ」ファルが提案をした。
「海岸線には別の意味もある」とレイスが続けた。「川だ。川があればどこかで海に出る。川を遡れば水源が分かる。今は小さな水源に頼っているが、人数が増えている今、安定した水源があれば拠点の設計が変わる」
「山の方から流れてくるのか」とドナンが聞いた。
「そうだろう。ただ、山の方はまだ誰も近づいていない」
レイスが少し間を置いた。「……山には精霊の主人がいるらしいし」
誰も何も言わなかった。
ノームが言いかけて止まった言葉だった。あの感触がまだ足の裏に残っている気がした。
「海岸線を先に調べる」とファルが言った。決めるような口調だった。
「俺もそれには賛成だ」とドナンが言った。
デルタが地図を見ていた。「海岸の方向はどこだ」
「北東と南西が未調査だ。最初は北東を調べるのが無難だろう。拠点から近い」
「人数は」とファルが聞いた。
「偵察に近い規模で動く。五人から八人程度。ゴブリンは足の速い者と目のいい者を選ぶ」
「ネグルは確実に連れていきます」
「コトも来ると言うだろうな」とレイスが頷いた。
デルタが「私も行く」と言った。「拠点の防衛はベルガに頼む」
「出発はいつだ」とファルが聞いた。
「三日後が現実的だ」とレイスが言った。
「三日後でいい」とファルが言った。「異議なし」とドナンが言った。
レイスが地図に書き込みを入れた。北東の海岸線の方向に矢印を引き、「次の探索先」と小さく書いた。
会議はそれで終わった。
テーブルの地図を折りながら、レイスが言った。「こういう場所があると、違うな」
「会議室のことですか」
「机のことだ。全員で同じものを見ながら話せる。それだけで会議の質が変わる」
「レイスが設計したんですが」
「設計したからといって、実際に使うまで分からないことはある」
ドナンが出口に向かいながら「次は棚がいる」と言った。「地図や記録帳を置く棚。一日でできる」
「頼む」とレイスが言った。
ドナンが出ていった。グラッグが後ろについていった。
デルタが出口の手前で立ち止まった。
「カルド」
「はい」
「会議室を作ったのは正解だった」
「レイスの案でしたが」
「正解はどこから出ても正解だ」
それだけ言って、デルタも出ていった。
入口のところにシロがいた。
「聞いていましたか」
「聞いていた」
「海岸線に行くことになりました」
「そうか」
「一緒に来ますか」
「行く」
それだけだった。聞く必要がないと思っているのか、聞いても仕方ないと思っているのか。どちらでもある気がした。
*
夜、会議室に一人で入った。
テーブルの上に地図を広げた。拠点の中央に「会議室」と小さく書いた。
レイスが山の主人の話を出したとき、全員が黙った。あの冷たさが、まだ足の裏にある気がする。
会議室を出ると、空気が少し冷えていた。夏の終わりが近づいている感じがした。
広くなった拠点の輪郭を、歩きながら確認した。守るものが増えた。
怖いわけではなかった。ただ、そう思った。




