第28話 私はノーム
眠れたのか眠れなかったのかが、よくわからないまま朝になった。
体は重かった。腕に昨日の戦闘の記憶が残っていて、起き上がるときに少し時間がかかった。服を確認すると、土の匂いがまだ残っていた。
外に出ると空が白かった。東の方向がうっすらと明るくなっていて、鳥の声がどこかから来ている。拠点はいつもより静かだった。昨日疲れた者が多いのか、ゴブリンたちの動き出しが遅い。
シロが入口の近くに座っていた。
「おはようございます」
「遅い」
「そうですか」
シロは何も言わなかった。耳が少し後ろに傾いて、また戻った。一晩中外にいたのかどうか、聞かなかった。
水を汲んで戻ってくると、ファルがすでに訓練場にいた。一人で素振りをしていた。腕に昨日の傷がある。動きを見ると、そこをかばっている気配はなかった。かばっていないように見せているのかもしれない。
「おはようございます」
「ああ」
「腕は」
「動く」
「動くと大丈夫は違います」
「大丈夫だ」
素振りが続いた。それ以上聞かなかった。
*
朝食の時間に、全員が集まった。
昨日の疲れが顔に残っている者が多かった。テオが椀を両手で持ったまま少し目を細めていた。ウルジが肩を回しており、ガンズは単語帳を持っていなかった。
ドナンが石の欠片を手の中で転がしていた。昨日、ゴーレムの残骸から拾ったものだ。食事をしながら、ずっとそれを見ていた。
「どうですか」
ドナンが顔を上げた。「変な岩だ」
「まだそれを」
「気になる」
「どのあたりが」
「硬さが一定じゃないんだ。場所によって全然違う。でも、割れ方は均一だった。砕けるときに筋がある。普通の岩にはない筋だ」
「精霊が作ったもの、だからですかね」
「そうかもしれん。でも、作り方に法則がある気がする」
ドナンはそれ以上言わなかった。また石を見始めた。
*
昼を少し過ぎたころ、地面が沈んだ。
僕が拠点の中央近くにいたとき、足の裏にあの感触が来た。ゆっくりと受け取られるような、昨日までと同じ沈み方。でも、昨日より近い。
また沈んだ。
今度は少し違う沈み方だった。昨日までの「確かめるような」感触ではなく、もっと真っすぐな感じがした。向かってくる、という感触。
ネグルが走ってきた。
「カルド。中央、見てくれ」
拠点の中央の地面が、盛り上がっていた。
ゆっくりと、静かに。平らだった土が中心に向かって少しずつ隆起して、形を作ろうとしている。
「全員、少し下がってください」
『高濃度魔力を探知しました。』
ゴブリンたちが後退し、ファルが横に来て、腕を組んで地面を見た。剣には手をかけていない。
盛り上がりが続いた。高さが増すのと同時に、輪郭が生まれてくる。
人の形だった。
子供くらいの大きさ。ゴブリンより少し小さい。細い腕と足があって、短い髪が顔の横に垂れていた。目だけが橙色に光っていた。熾火のような、温かみのある色だった。
子供が、地面から生まれて、そこに立っていた。
止まった。
そして言った。
「どうもみなさん、私はノーム。土を司る精霊。よろしくね」
声は昨日と同じだった。幼い女の子のような高さで、軽い。ただ、昨日は部屋の全体から来る声だった。今は、目の前にいる小さな体から来ている。それだけで、全然違う感じがした。
「カルドです」
手を差し出し、言った。
一瞬だけ手を見て「知ってる」とだけ言った。
――無視。
「昨日の声は、あなたでしたか」
「そうだよ」
「姿は初めて見ます」
「うん。昨日は見せなかったからね」
「なぜ今日は」
「うーん」と少し沈黙が続いたのち
「なんとなくだよ。それに少し分かった気がしたからね。」
「 どういう事が?」
ノームは少し首を傾けた。目の光がこちらに向いた。
「きみたちがどういうやつらか」
「昨日の戦闘を見ていたということですか」
「見てたよ。全部」
ノームは少し間を置いた。
「面白かった」
それから、もう少し間を置いて言った。
「誰かが死んだら、もっと面白かったかも」ノームの口角が少し上がっているような気がした。
誰も動かなかった。
ファルの手が剣に向かった。
ノームが続けた。
「でも、死ななかったね」
声のトーンは変わっていなかった。軽い。子供が虫の動きを観察しているような、そういう軽さだった。
空気が、少し時間をかけて戻ってきた。
「……それが感想ですか」
「そう」
「死んだ方が面白かった、物騒な感想ですね。悪魔かなんかですか」
「精霊だよ」少し怒りながらノームは言った。
「ただ、死んでも死ななくても、私的にはどうでも良い。」
どうでも良い。その言葉が深く刺さった。
シロの耳が後ろに傾いたままだった。
*
ノームの目が、ゆっくりと全員を見渡した。一人一人を確かめるように。シロ、ファル、ドナン、レイス、テオ、ガンズ、ウルジ、ネグル。最後に、コトで止まった。
「きみが気づいた子かな」
「そうです」
「よく気づいたね」
「くすぐったくない場所があったからだと、この子は言っています」
「そっか」
それだけだった。説明も解説もなかった。ただ、コトを見ていた。
ノームはコトに向かって言った。
「ねえ、こっちに来て」
コトが少し間を置いてから、前に出た。
ノームとコトが向き合った。ノームの方がわずかに背が高い。コトがノームを見上げるような形になった。
「きみ、地面の脈を感じられる?」
コトは少し考えてから答えた。「くすぐったい、という感じがある」
「それは何だと思う?」
「地面が動いてるのが、足の裏に来てる。そういう感じだと思ってた」
「それだけ?」
コトは黙った。
しばらく間があった。コトが下を向いた。足元を見た。それからまたノームを見た。
「……わからない。でも、くすぐったいだけじゃない気がする」
「そっか」
ノームはただ、コトを見ていた。
その間、コトの足元が、一瞬だけ沈んだ。
深くではない。ほんのわずかだった。でも、誰かの目には届いた。テオが小さく息を飲んだ。ファルの視線が鋭くなった。
コト自身は、動かなかった。下を向いた。足元を見た。
何も言わなかった。
ノームも、目の光だけが、静かに揺れていた。
「炎のやつは、きみのことを変だと思ったんじゃないかな」
コトが顔を上げた。「……ほうと言ってた」
「そう」
それだけだった。
コトはしばらくノームを見ていた。
「何が言いたいんだ」
ノームは首を傾けた。
「何も」
「なんで来た」
「さっきも言ったでしょ。なんとなくだよ。」
コトは少し黙った。「それだけか」
「それだけだよ」
コトはそれ以上何も言わなかった。ノームも、何も付け加えなかった。
「きみ、名前は」
「コト」
「コト」
繰り返した。短い間があった。
「覚えた」
それだけ言って、ノームの視線が全体に戻った。
*
「それで試練は合格ですか」
しばらくしてから、僕は聞いた。
ノームが僕を見た。
「どう思う?」
答えなかった。こちらに問いを返した。
「……分かった、という気はしています。でも確信がない」
「うん」
「それが答えですか」
「どう思うかが答えだよ」
それ以上は言わなかった。
「何を見ていたんですか。昨日の試練で」
ノームは少し間を置いてから言った。
「変えられるかどうか」
「何を」
「当たり前だと思ってたものを」
「それだけですか」
「それだけ」
答えが来ないまま、時間が過ぎた。
「もう少しお話ししていきますか?」
「関係ない」
「関係ない、というのは」
「私がいたいからいる。きみたちが許可するものじゃないし、きみたちが否定できるものでもない。」
――それはその通りだが、こうもズバッと言われるとな
*
ノームがいる間、拠点は普段と違う空気だった。
ゴブリンたちが少し離れたところからノームを見ていた。デルタが集団の前に立ったまま、じっとしている。キズラが「あれは何か」と誰かに聞いていた。モルダが「精霊だ」と答えていた。
グラッグがドナンの横に来て、ノームが持っている石の欠片と同じものを地面で探していた。ドナンが横目で見て、何も言わなかった。
ファルが僕の隣に来た。
「先ほどの発言」と小さく言った。
「聞こえていました」
「どう思った」
「……怖かったですよ」
「そうだな」ファルは腕を組んだ。「サラマンダーとは違う怖さだ」
「サラマンダーは思いやりがあった。でもノームにはそれがない」
「怖くて不気味な精霊だな」
それだけ言って、ファルは離れた。
シロが来た。一言だけ言った。
「目を離すな」
「そうします」
シロは戻らなかった。ノームの方を向いたまま、離れた場所に立っていた。
ノームが少し離れた場所で、地面に手を当てていた。何かを調べているのか、ただ触れているのか、わからなかった。子供が土遊びをしているように見えた。
その背中を見ていると、さっきの言葉が嘘のように思えた。
嘘ではない、とわかっていても。
ネグルがカルドの隣に来た。
「さっき、コトの足元が沈んだ」
「見えていましたか」
「見えた。コトは気にしていないように見えた」
「そうですね」
「あれはノームがやったのか、それとも自然に起きたのか」
「わかりません」
ネグルは少し考えた。「ノームに聞けるか」
「聞けるかどうかわからない。答えてくれるかどうかも」
「そうか」ネグルは地面を一度見た。「でも、コトが動かなかったのは本当だ。それだけは確かだ」
それだけ言って、戻っていった。
*
「飽きた。帰る」
唐突にノームが言った。
特に誰かに向けた言葉でもなかった。ただ、そう言って、地面に向かって歩き始めた。
「また来ますか」
「面白そうならね」
それだけだった。
ノームは足元から沈み始めた。足首まで、膝まで、腰まで。人型の体が地面に吸い込まれていく。
肩のあたりで、止まった。
「私で終わりじゃない。試練はまだあるよ」
「知っています」
「次のは違う感じだよ」
それだけだった。どう違うかは言わなかった。
また沈んだ。首まで。
「あと、山の主人のことは——」
地面が、一瞬冷えた。
気のせいではなかった。足の裏から、冷たさが上がってきた。真夏の地面が、一瞬だけ真冬になったような感触だった。
ノームが止まった。
「……忘れて」
それだけ言って、沈んでいった。
頭が消えた。地面が元の平らさに戻った。
足の裏の冷たさだけが、少しだけ残っていた。
静寂があった。
誰も動かなかった。
最初に動いたのはシロだった。地面を一度だけ見て、それから前を向いた。
レイスが記録帳を開こうとして、止めた。閉じた。
デルタが小さく息を吐いた。
ゴブリンたちの間から、誰かが「……終わったか」とごく小さく言った。
*
コトが一番最後まで、ノームが沈んだ場所を見ていた。
全員が動き始めても、コトだけが動かなかった。ただ、地面を見ていた。
「コト」
振り返らなかった。
しゃがんだ。地面に手のひらを当てた。
何もなかった。地面はただの地面だった。
コトはそのまま少しの間、手を当てたままでいた。
それから何も言わず立ち上がって、歩き始めた。
遠くから、聞こえた気がした。
地面の下から来るような、小さな声だった。
「……聞こえてるよ」
聞こえたのか、そう思っただけなのか、わからなかった。
コトは振り返らなかった。でも、少しだけ歩みが遅くなった。
*
夜、地図を広げた。
拠点の中央に印をつけた。ノームが出てきた場所だ。小さく「ノーム」と書いた。
暗闇の中で、土の匂いは今日もまだ残っていた。でも昨日より薄い。少しずつ、外の空気に戻っていっている。
足の裏の感触は、まだそこにあった。




