第23話 サラマンダー
朝、東の方向から風が来た。
いつもの風とは違った。乾いている。少し焦げた匂いが混じっている。
シロが鼻を上げた。「焦げている」
《波長理解》を向けた。魔物の反応はない。ただ、空気の流れに違和感がある。魔力の残滓が混じっていた。
「火事ではない」シロが言った。「何かが燃えた跡ですね。でも、今は燃えていない」
「どこだ」
「北東。昨日まで反応がなかった場所です」
「少し見てきます。すぐ戻ります」と拠点に向かって声をかけた。
「一人か」ファルが振り返った。
「偵察だけです」
ファルは少し間を置いた。「……十五分で戻れ。過ぎたら行く」
「分かりました」
シロが「俺も行く」と言った。「頼みます」
二人で北東へ向かった。
*
五分ほど歩いたところで、足が止まった。
草原の一角が、円形に焼けていた。
直径は十メートルほど。地面が黒い。でも、その円の外側は何も焼けていない。縁の草がそのまま立っている。
自然じゃない。
円の縁に膝をついた。内側は炭化している。外側の草は露をつけたまま揺れている。境界が、定規で引いたように鮮明だった。
「焼け方がおかしい」シロが言った。「火は広がる。でもここは広がっていない」
「制御されている。炎が。必要な場所だけ、必要なだけ燃やした」
《波長理解》で地面を読んだ。魔力の痕跡がある。密度が高い。均一だ。ムラがない。一点から広がって、円の縁でぴたりと止まっている。
自分の《炎舞剣》を思い浮かべた。昨日の訓練で、ようやく形が安定してきた。でも刃の形を保つのとは話が違う。円形に、均一に、必要な範囲だけを焼く。考えたことすらなかった。
「僕にはできない」
声に出ていた。シロが横で「そうだな」と言った。否定も肯定もしない。ただ聞いていた。
円の中央に、何かがある。
近づいた。拳ほどの塊が、地面に転がっていた。手に取った。
魔物の核だった。焦げてもいない。ただ魔力だけが抜けていた。体だけが消えた。核は残った。
「昨夜、ここに小型の群れがいた」シロが言った。「拠点から遠いので放置していた」
もう一度円の縁を見た。「草は燃やさず、体だけを燃やして、核は残した。この精度で」
シロが鼻を鳴らした。「何者だ」
「分からないですが——まだいますね」《波長理解》の先に、痕跡が北東へ続いている。
「拠点に戻りましょう。一度みんなに話します」
*
全員が集まった。
見てきたことを話した。
レイスが「精霊か」と言った。
全員がレイスを見た。
「昔、文献で読んだことがある。四大精霊という存在がいると。実在するかどうかは分からなかったが——その焼け方は、人間や魔物の仕業ではない」
「害意はあるか」《波長理解》の感覚を思い返した。「敵対的な波長はなかったです。ただ——格が、違う」
誰も笑わなかった。
ドナンが「格、か」と言った。「素材を見るとき、同じ鉄でも、叩き方次第で別物になる。お前が感じたのはそういうことか」
「……そうかもしれないです」
ファルが「今日は全員で動くか」と聞いた。
「もう少し様子見たいです。今日は訓練を続けてほしい。僕は観察だけしてきます」
「一人でか」
「接触はしないです」
ファルは少し間を置いた。目が何かを言いたそうだった。でも何も言わなかった。
シロが「俺も行く」と言った。
「シロには拠点を頼みたいです。一人の方が気配を消しやすいですし」
シロは少し間を置いた。耳が動いた。
「ちゃんと戻ります」
*
《気配遮断》を発動して、北東へ向かった。
焦げた匂いが、歩くほどに濃くなる。魔力の痕跡を辿る。《波長理解》で残滓を拾いながら進む。一時間ほど歩いたところで、地形が変わった。岩が増えた。地面が乾いている。空気が薄く熱い。日差しが強いわけではないのに、肌が乾いていく感じがした。
また焼け跡があった。小さい。一メートルほどの円。縁が鮮明だ。
その先に、また焼け跡。点々と続いている。
足跡だ。
追った。
空気がさらに熱くなってきた。岩の表面が温かい。触れると、昼前なのに日焼けした石の温度がした。
岩陰の先に、それがいた。
一歩引いた。
炎だった。
*
猫くらいの大きさだった。四本足。体の輪郭が揺れている。炎のように揺らいでいるが、消えない。
目だけが、やけに静かだった。黄金色の、細長い瞳。
その瞳が、こちらを見ていた。《気配遮断》を使っているのに。
「……見えているのか」
声が出てしまった。
炎の存在がゆっくりとこちらを向いた。
「気配を遮断しても、熱は残る。お前が生きている限り、炎には映る」
低く、乾いた声だった。人間の言葉だった。
《気配遮断》を解いた。
「あなたが、昨夜の焼け跡を」
存在は答えなかった。ただ、瞳でこちらを見ていた。
「あれはどうやって」
「お前の炎と同じ種類のものだ」
「同じ?僕の炎は、あの精度では使えない」
存在がゆっくりと首を傾げた。炎の首が、静かに傾いた。
「否定しても仕方ない」
存在の尾が揺れた。それから、突然視線を外した。そばにあった岩の一点を、じっと見始めた。
何も起きなかった。五秒ほど、ただ岩を見ていた。
それから、何事もなかったようにこちらへ視線を戻した。
「お前の炎を見ていた。昨日、一昨日も」
「見ていたのですか」
「見ていた。まだ暴れている」
「暴れている……とは」
「制御が甘い炎は、形になる前に膨らもうとする。お前の炎はまだそうだ。ただ——」存在が右手を見た。「歪んではいない。暴れているが、方向は間違っていない」
炎の比喩だと分かった。褒め言葉ではない。ただの観察だった。だからこそ、重かった。
「……あなたは何者ですか」
「サラマンダー。炎の精霊だ」
短く、それだけだった。
「精霊が、なぜこの島に」
「この島は俺たちの場所だ。お前たちが来る前から、ずっと」
「知りませんでした。すみません」
「謝るな。面白くない」サラマンダーが立ち上がった。炎の体が揺れた。「お前に聞きたいことがある」
「聞いてください」
間があった。
サラマンダーの瞳がこちらを正面から見た。黄金色の瞳は動かない。炎の体だけが、静かに揺れている。
「負けたことがあるか」
「……あります」
「負けた相手を、憎んだか」
想定していない問いだった。
「……憎みました」
「今は」
「今は、違います」
「なぜ変わった」
少し間を置いた。簡単に答えられる問いではなかった。
「憎しみで強くなれると思っていた。でも、憎しみで手に入れた力は、向ける相手がいなくなったとき、自分に向かう気がした。そうなりたくなかった」
サラマンダーは動かなかった。
「完成した答えではないと分かっています。体で完全に分かっているなら、もっと別の言い方ができるはずだから」
「なぜ足りないと思う」
「言葉になりすぎているから……ですかね。まだ頭で言っている感じがあります」
沈黙があった。
岩の表面が、じりじりと温かい。サラマンダーの体から熱が滲んでいる。炎の音がした。小さく、絶えず、揺れている音だ。
炎の尾がゆっくりと揺れた。
それから、サラマンダーは突然横を向いた。近くの草を、じっと見始めた。炎の先端が草に近づいた。草が一枚、静かに燃えた。燃えた草だけが消えた。隣の草は無傷のまま揺れている。
また視線を戻した。何の説明もなかった。
——面倒な精霊だ。
「仲間は何人だ」
「人間が四人、魔物が三十一人います」
「その者たちも、問いに答えられるか」
「……どういう意味ですか」
サラマンダーは答えなかった。代わりに立ち上がった。炎の体が少し大きくなった。
「飽きた」
「え」
「今日はここまでだ」サラマンダーが歩き出した。岩の向こうへ向かう。「次に来るなら、炎を持ってこい」
「待ってください。まだ——」
サラマンダーが止まった。振り返らずに言った。
「届けば、次の段階へ進ませてやる。届かなければ、ここで終わりだ」
「届く、とは」
「お前の炎で、俺に触れてみろ。ただし、俺の炎が消えないように」
それだけだった。
サラマンダーは岩の向こうに消えた。炎の気配が薄れていった。《波長理解》が追おうとしたが、すぐに読めなくなった。
一人で岩の前に立っていた。
「触れる。ただし、消えないように」
右手を見た。《炎舞剣》を出してみた。刃の形が出てきた。安定している。
でも、あのサラマンダーの炎と触れたとき、自分の炎が相手を消してしまわないか。あるいは、自分の炎が呑み込まれてしまわないか。
どちらも、十分にあり得る気がした。
*
拠点に戻ったのは、夕方に差し掛かる頃だった。
全員に話した。サラマンダーという名。気配遮断が通じなかったこと。問いを受けたこと。そして条件を言われたこと。
ファルが「届かなければ終わり、か」と腕を組んだ。
「何が終わるかは言わなかったのか」
「そこまでは」
ドナンが「見せろ」と言った。《炎舞剣》を出した。刃の形が安定して出てきた。
ドナンがじっと見た。「揺れている」
「分かっています」
「鍛冶でいう、焼き入れが甘い状態だ。形は出来ているが、密度が足りない。冷やす前に、もっと叩く必要がある」
ファルが「制御の話だ」と言った。「威力ではなく、精度を上げる。小さく絞る練習から始める。明日から切り替える」
「……その者たちも問いに答えられるか、と言っていました」シロが静かに言った。「俺たちのことを指していたのか」
「そう思います」
シロは少し間を置いた。「……つまり、一人の話ではないということか」
誰も余計なことを言わなかった。火が静かに燃えていた。
デルタが「精霊は古い存在だ。この島のことを、俺たちより知っているはずだ」と言った。それだけで黙った。それで十分だった。
*
夜、火を囲んだ。
炎を見ていた。普通の炎だった。風が来れば傾く。
でも今日見たサラマンダーの炎を思い出すと、同じ炎がまったく別のものに見えた。あの瞳が、この炎を見たら何と言うだろうと、ふと思った。
ネグルが隣に来た。
「難しい顔をしている」
「考えごとをしています。届かなければ終わり、と言われた。何が終わるのか分からない」
ネグルが火を見た。「分からないなら、届かせるしかない」
「そうですね」
「簡単な話だ」ネグルはそれだけ言って丸まった。
ファルが隣に来た。
「今日の問いに、お前はちゃんと答えた」ファルは火を見たまま言った。「憎んだと言った。今は違うとも言った。どちらも本当だったか」
「本当です」
「……そうか」ファルは少し間を置いた。「私はまだ答えられない。同じ問いを自分に向けると、止まる」
「ファルが答えられるようになったとき、聞かせてください」
「……いつになるか分からないが」
「待ちます」
ファルが短く息を吐いた。それだけで、自分の場所に戻った。
シロが「寝ろ」と言った。
「もう少し」
「今日は特にそれを言うな」
「……そうですね」
地図を広げた。北東の岩場の近くに小さく印をつけた。「サラマンダーの痕跡」と書いた。それから、余白に一行だけ記した。
「届かなければ、終わりだ——」
火が燃えている。川の音が続いている。
《炎舞剣》を右手に出してみた。形が出た。安定している。
でも、触れられる気が、しなかった。




