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1−8猛毒の花嫁

 レーリアはずっと戸惑いの中にいた。


 ソファに押し倒され、吸血鬼のジルに至近距離で見つめられている。

 何故、こんな体勢になってしまったのか。

 『猛毒の花嫁』とは一体…


 薄暗い空間で欲にまみれた赤黒い瞳が鈍く光る。

 今に至るまでも何度も向けられてきた獲物を捕らえようとする視線だ。

 硬く鋭い牙と柔らかな唇が剥き出しの首に当たり、ああ、食べられるのだと悟った。


(やっと終わるのね…)


 安堵と共に胸が締め付けられるのを感じながらレーリアは瞼を閉じ、体から力を抜く。

 そうすると楽になった。最早、心残りなど有りはしない。


 しばらく甘噛みだけに留めていたジル。その牙で容赦なく彼女の肌を突き破る。


「っ…」


 鋭い痛みだ。自ら唇に傷をつけたときと感覚が似ているが、その比ではない。

 知らず体が震え、涙がこぼれ落ちそうになる。

それでも耐えられる痛みのはず。ノールベルツ公爵家の機嫌に左右される折檻に比べたら、これは彼が生きる上で必要な、吸血鬼の食事なのだから。


(いつも通り、やり過ごさなきゃ…)


 心を殺して粛々と。数十年間続けてきた変わらないやり方で。

簡単にできると思っていたのに。


「いっ…う…」


 ついに涙がこぼれ落ちる。

彼にとって意味のある行為だと自覚したのが仇になった。無感情でいられるわけがない。

 呼吸が浅くなり、何かに縋りたくて堪らなくなったレーリアはジルの肩に腕を回す。

 少しだけ痛みが引いた気がした。

 ただ甘やかされるだけよりも、こうして彼に自分自身を捧げていると酷く安らげる。

 私はここに居ていいのではないかと。


 ふ…と吐息を吐き出したジルは彼女の肌から牙を抜き取る。濃い跡から血が流れそうになり、惜しむように舌先で舐めとった。


 その刺激にレーリアは歯を食いしばり、彼を抱く力を強めたことで、なんとか耐えた。


(あれ…わたし…)


急激に血を吸い取られたせいなのか、あまり頭が回らないが、自分は確かに生きている。

ずっと痛いままだ。


「レーリア…」


 蕩けそうな低い声で名を呼ばれる。

 レーリアが緩く彼と目を合わせれば、赤黒い瞳はまるで夢うつつにいるかのように、熱い眼差しを向けてきた。


「これほど甘いだなんて…想像以上です、レーリア」


 恍惚としたため息をこぼして、彼女の髪を撫でる。優しい手つきは相変わらず。

 だからこそレーリアは、この状況が信じられない。

喜んでくれている彼には悪いが確かめなくては…


「血を吸われたら死ぬのではないの?」


 ジルは笑みを深めた。彼女の疑問の出所に直ぐ思い当たったらしい。

 「お話はこちらでしましょう」とレーリアを抱き上げてベッドに運んだあと、指先を少し動かしただけで椅子をベッドサイドに出現させた。

 そこに腰かけて足を組む。

吸血鬼としての姿を晒し、獰猛な獣のような雰囲気のせいか、上品さよりも荒々しさが感じられた。特別、乱暴な仕草はしていないというのに。


 レーリアは体を起こす。寝ながら聞くほど体調が悪いわけではなかったから。

 ジルは「寝ていても構いませんのに…」と心配するような声を控えめに洩らした。

自分が原因だからか、それ以上は何も言わず、彼女の疑問に答える。


「吸血における生死についてですが私の加減次第で、どちらにも転びます。必ずしも死ぬわけではありません。ちなみにアレリィ・ノールベルツも生きてはいますよ。貴方に無礼な行いをしてきた人間だったので少々懲らしめてやりましたが」

「そう、なのね…」

「私が吸血で貴方を殺すなど、あり得ません。言ったでしょう?その命を弄ぶような真似はしないと」


 そうだ。空の上で彼は言っていた。本心だと感じられるくらい誠実な声色で。

あの宣言はレーリアが想像していたよりも、ずっと重いものだったようだ。


(私は死なない?これからもこの島で生きていける…?)


 いずれ非常食としてジルに食べられ殺されるのだと、それが自分の役目なんだと言い聞かせて、スティンツ島で平和な日々を送ってきた。

 けれど、その役目を果たすには、この島はあまりにもレーリアにとって都合のいい場所だった。幸福を、自由を、願ってしまいそうになったのだ。

 取り返しがつかなくなるその前に決意を固めて、ジルの部屋まで押しかけたというのに…

 嬉しいとも悲しいとも違う複雑な感情が、レーリアの内側で渦巻き、桃色がかった薄紫の瞳を揺らす。


「あなたは、私をどうしたいの…?」


 攫われる前にも紡いだ言葉を、もう一度繰り返す。もう誤魔化さないでほしいと、彼の魔性の瞳を懸命に見つめる。


 真剣な表情に変わったジル。両手で彼女の手を包み込むように握った。


「レーリアが生きている間、その血の提供をお願いしたい」


 簡潔に答えられた。食に対して熱弁していた、あの時と重なる。


「あなたの、自分と向き合う尊い時間は私の命が尽きるまでなのね」

「ふふ、覚えていて下さるなんて光栄です。もちろん女性の人生を拘束するのですから無責任なことはいたしません。不自由のない生活を約束しますよ」


 これまでのスティンツ島での暮らしを思えば嘘はないのだろう。本気でレーリアを花嫁にしようとしている。

 ただ、不穏な単語を見過ごすわけにもいかず、レーリアは深く息を吐いた。

 赤黒い瞳が妖しさを漂わせながらも凝視してくるから落ち着くことはできなかったが。


「猛毒っていうのは、どういう意味?」


 ただの花嫁ではない。猛毒の花嫁なのだ。

わざわざその名を口にしたのだから彼にとってレーリアの血は美味しいばかりでは無いのだろう。

 

 ジルは緩く口角を上げる。

"食事"に関する話だからか、随分と楽しそうだ。


「簡単に言えば貴方は、その気になれば私を殺せるということですよ」

「ころせる?」


 脳裏によぎったのは大切なあの人の死だ。

 じわっと背中に嫌な汗をかいた。

心臓が警笛を鳴らすようにドクドクと早鐘を打つ。


「私は…あなたを殺そうなんて、思ってないわ…」

「それはよかった。ですが事実なのです。本来はスティンツ島の暮らしがレーリアに根付いてから話す予定だったのですが、つい誘惑に負けてしまいました」


 はぁ、とジルは自分のやらかしにため息をこぼした。

少しだけ落ち込んでいるように見えたが、ちゃんと説明を続けてくれるらしく、気を取り直して笑みを作る。


「まず大前提の話になりますが、どんな人間でも血液と共に身体中を流れる魔力がありますよね。質や量などの差はあれど」

「……そうね。例え魔法を扱えなくても皆、魔力は持っていると幼少の頃、私も教えてもらったわ」


 魔力が空になれば、最悪、命を落とすと言われている。

魔力量の少ない人間が扱うには危険すぎるので、相当才能に恵まれていないと、一般的な魔法使いになることも難しい。


「魔力は血液と共に身体中を巡っている。そのせいで魔法で吸血するときは半ば強制的に魔力も流れ込んでくるのです。私が望む望まないに限らず」

「じゃあ、お嬢様……いえ、アレリィの魔力も?」

「吸いました。あの者が死なない程度に量の調節をして腹は満たされましたが、血がとにかくクソ不味かったですね。貴方と同じ血筋の者でなければ頼まれても喰おうとは思いませんでしたよ」


 味を思い出したのか、ジルはウッと唇を手のひらで覆う。心なしか顔が青い。


「あの、大丈夫?」

「私としたことが、せっかく貴方で口直しをしたというのに。いえ、極上の味を知ったからこそ、あの不味さが際立ったと考えていいのかもしれません。喰った直後は今ほど不快は覚えなかったので」


 こんなに参ってるジルは初めてだった。

背中を摩ってあげると彼は「すみません、取り乱しました」と脱線していた話を戻す。

 

「私は光属性の魔力を持った人間とは相性が悪いのですよ。それが何代と続いているのですから体への刺激も受けました。例えるなら軽度な毒といったところでしょうか。時間が経てば何も残らない程の」

「……だけど私の魔力はジルにとって猛毒になる?」

「ええ。ほんの少しでも取り込めば死に至る猛毒ですね。肌を直接噛んでの吸血では魔力を吸わないようにしておりますが、もし加減を間違えたり、レーリアが私の死を望めばあっさりと事切れます」


 だから猛毒で、だから首を噛まれたのかとレーリアは納得する。

それでもモヤモヤとした気持ちが消えなかった。命の話をしているのにジルは平然としすぎているのだ。


「危険なことよ。いくらなんでも」

「危険だからと手をこまねいていたら極上の味を堪能できないではないですか。しかも食事の度に自分の生死がかかるなど…なかなか無い事態です。面白い」


 クツクツとジルは笑う。

明らかに常軌を逸していた。まるで遊戯のように、その状況を楽しんでいる。

長く生きる魔族としての価値観なのか、それとも彼特有のものなのか。

 いずれにせよレーリアは許容できそうにない。


「ジルにとっては面白くても私は面白くないわ」

「そうなのですか?貴方なら理解していただけると思ったのですが……私を尋ねに来たのも死ぬ為だったでしょう?」

「っ…」


 ああ、ジルに見抜かれていた。レーリアの浅ましい考えを。

 自分は良くて相手はダメなんて虫が良すぎるのだ。


 レーリアが俯くとジルは「意地の悪いことを言ってしまいました」と彼女の髪を撫でる。

 この手はいつだって優しい。

彼にとってレーリアは食べ物。ご馳走。だからこそ丁重に扱ってくれる。


「私とて、レーリアに死なれては困りますから。お互い様ということで、私から貴方の魔力を吸うようなことはしないでおきましょう。それで了承していただけませんか?」

「……わかったわ」

「嬉しいです、レーリア」


 うっとりと、ジルはレーリアの唇を親指の腹で撫でる。

 自分自身で噛んでできた傷と、ジルの牙でできた傷が同時に痛んだ。


 また食べられるのではと身構えたレーリアだったが、ジルの指は離れてゆき、それに付いた赤を舐めとる。

 ニッコリと微笑んだ。


「一つだけ忠告を。私の前で血を流すのは辞めておいたほうがいい。吸血鬼の本能を刺激して挑発しているようなものなのですよ?」

「!!」


 意味深に、やたらと凝視してきたのは、これのせいだったのかとレーリアはジルから隠すように唇を引き結ぶ。


「分かっていただけたようで良かった。今後、私の牙以外で傷を作るのは、どうか気をつけてほしいのです。私自身、理性を失ったらどう行動に出るか想像ができないので。お願いします」

「き、気をつけるわ…」


 怖いことを平然と語るジルにレーリアはたじろぎながらも了承する。

 傷つけてしまった唇を意識すれば血の味がしたけど、不思議と以前より不快感を感じなかった。

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