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1−5記憶

 コツンッと木製の欠片が幼い少女の頭に当たり、その体がぴくりと動いた。

 意識が緩く浮上していく過程で少女が1番に感じたのは匂いだ。泥と草木と、なんとも形容し難い生臭さ。

 ぽたぽたと降る雨が少女を濡らし、馬のいななきが響き、遠ざかってゆく。

 瞼を開けると雨水を吸った濃い褐色の地面が視界いっぱいに映った。

 何故こんな所で倒れているのか、ここはどこなのか分からないまま、ふと、体の上に何かが乗っているような重さを感じる。

 少女は安心する。大好きなあの人は一緒に寝る時、少女が寝付くまで、よくこうしてくれるのだ。

 優しく微笑むあの人を想像して少女は飛びつこうとするけれど、その勢いは萎む。


 誰もいなかった。そこにあるのは馬車の残骸だけだ。それなら、あの重みはなんだったのか。

彼女が動いた拍子で不自然に体から落っこちたあの重みは。


 少女は不安そうに桃色がかった薄紫の瞳で周りを見回す。

 木々が立ち並ぶ少々開けた空間だった。

馬車の残骸があちこちに飛び散っている中、雑草に隠れたそれを見つけた。

 フラフラと向かって、それを見下ろす。


雨に濡れる、それをーー




 ハッとしてレーリアは体を起こす。

今を確かめるように左右を見回せば、ここはジルが用意してくれた部屋で、まだ夜なのだと分かる。

 喉はカラカラだ。心臓の音が全身に響き、汗で額に髪が張り付いていた。


(最近は夢を見ることなく熟睡できていたのに…)


 レーリアはベッドから降りると、部屋に備えつけられたシャワー室へ足を運んだ。



***



 ジルの屋敷に暮らし始めて30日ほど経った。

 ここで働くメイドや執事、そしてララはレーリアに、とても良くしてくれる。


 まずは衛生面。

毎日お風呂に浸かれる。それだけでもレーリアにとっては贅沢な話だが、ガサガサな肌と薄汚れた赤髪にララお手製の草花を使った保湿水を塗り込まれる。

曰く、人間の皆にも評判がいいんです!とのこと。

実際、たった30日で肌はしっとりとしてきたし髪は艶が増した。体に残った傷も目立たなくなってきている。

さらに身につける衣装は全て一級品。かなりの量が予め用意されていた。

ララが「もう少し買いに行きますか?」と提案してきたけれど丁重にお断りした。レーリアとしては多すぎるくらいだ。


 次に睡眠。

ベッドやネグリジェが高品質なので飛躍的に睡眠の質も高まったが、それだけではなく。

 寝つきが良くなるアロマが焚かれ、寝る前に飲むと、深く眠れるとされるハーブティーも用意してくれた。

 体が内側からポカポカと温かくなり、ここ数日間は、ずっと熟睡できていたのだ。


 日中は外で過ごしてもいいし、部屋で寛いでいても誰も咎めない。ただそこに存在するだけでいい。

 甘すぎる。落ち着かない。本当にいいの?と何度、問いかけたくなったことか。

いや、一度だけは聞いたが「これくらい(貴族では)普通ですよ?」とキョトンとされてしまった。なんだったらレーリアが遠慮しないように普通程度で抑えてくれていたのだとか。もう黙るしかない。


 今日もララに身支度を整えてもらい、レーリアは美しいローズピンクのドレスに身を包む。

パフスリープの膨らんだ袖と真っ直ぐな線のスクエアネックは女性的なデザインをしているがスカート部分のフリルは控えめ。

華美すぎない普段使いできるドレスだった。


「お似合いです!レーリア様!」

「ありがとう」


 コンコンっとタイミングよく、扉をノックする音が聞こえる。

 ララはレーリアに目配せして了承を取ってからピョコピョコと歩き、扉を開けた。


「おはよう、お嬢さん」


 この屋敷の主人であるジルだ。

初日から欠かさず、レーリアの身支度が整った頃合いに部屋に訪れて朝食を運んでくる。

 疎かにさせないと宣言していた通り、毎朝、本人の見守り(監視)付きだ。夜は居ないときが多いが。

 美味しい料理を圧を感じながら食べるというのは新手の嫌がらせのような気もするけれど、ジルは常に真剣だった。

 そんな彼をレーリアが無碍にできるわけがないのだ。


 おはようを返したレーリアは、今日は彼が何も持っていないと気づく。

即座に"朝食抜き"の言葉が浮かんだが…


(ジルは、しないわ)


 自分のマイナスの考えを、彼の熱意が吹き飛ばす。30日間、熱心に毎日見守られ(監視され)れば、嫌でも信じられることが増えた。希望を持ちたくないレーリアとしては複雑だけれど。

 

「今日は少し違うのね」

「ええ。外で朝食を取りましょう。料理長から気分転換に場所を変えてみてはと提案がありましたので」


 ああ、とレーリアは先日の出来事を思い出す。

 ジルがいない夜、ダイニングルームで夕食を食べ終えたときに、料理長が感激した様子で訪れた。

 曰く、やっとやり甲斐を感じられます!と。


 屋敷の主人であるジルは吸血鬼。人間の食べ物は基本口にしない。食べようと思えば食べられるらしいが砂を食すのと同じこと。

 だからシェフ達が作る料理は同僚相手のみ。手は抜かなかったが、どこか虚しさがあったらしい。

俺は何の為に仕えているのか…と黄昏る料理長の姿が、よく発見されていたとか。


 大袈裟なくらいに感謝され、レーリアは反応に困ったが「いつも美味しいの。ありがとう」と素直な気持ちを口にした。

 そうしたら豪快に泣かれてしまい、周りのメイドやシェフ、ララと一緒に、彼を宥めるのに苦労したのだ。


「外で食事…というと東屋で?」

「ええ。まさかこのような形で使うときが来るとは思いませんでした。私には無用の長物なので」


 主人が訪れない東屋。けれど景観を維持する為に管理だけはされていた。

なるほど、料理長の憂いはこんな場所にも及んでいたみたいだ。


「良い気分転換になりそうです。行きましょうか」



***



 円形の白い屋根に囲われたそこは6人分の椅子と、丸いテーブルが中央に設置されていた。ここから花壇に咲いた花々も眺められる。

 すでに準備は整っているらしく、数人のメイドと執事が折り目正しく控えていた。


 ジルのエスコートでここまで来たレーリアが椅子に座ったあとに彼は正面に腰掛け、執事に食事を持ってくるよう促した。


 前菜のサラダから始まり、次はジャガイモのポタージュスープ。レーリアが食べ終わったタイミングで一品ずつ運ばれてくる。


 柔らかな風が吹いて花の匂いを届けてくれる。外でなければ味わえない開放感のある朝食だ。

 ジルは相変わらずレーリアを見守って(監視して)いるが。


 メインディッシュとして肉料理が運ばれてきた。

周りにブロッコリーとニンジンが添えてあり、レアで焼かれたステーキがひと口サイズで4切れ、お皿の真ん中に盛り付けらている。


「あ…」


 レーリアの頭によぎったのは夢の光景。

雨に濡れた、それ……


 心臓が全身に響き、血の気が引く。喉がカラカラして体が震える。

 せっかく作ってくれたのだから食べなくては…と強く握ったフォークで肉を刺そうとしたとき、優しく手首を掴まれた。


「ジル?」


 止めてくれたのは真面目な表情の彼だった。

やんわりとフォークを取り上げられ、お皿に乗せる。

 膝をついたジルはレーリアの右手を両手で包み込み、悲しそうに声のトーンを落とす。


「申し訳ございません。食べたくないものを食べさせてしまうなど。私の熱意があなたを追い詰めてしまったのですね…」

「ち、違うの…これは…」


 なんと説明したらいいのかレーリアは悩む。

詳しく話す気がないのに夢のせいで受け付けないなどと伝えて、もし内容を聞かれてしまったら?上手く誤魔化せる自信がないのだ。


「気を遣われなくていいのですよ。今日はあまり寝つきも良くなったのではないですか?」


 ジルの親指がレーリアの瞼に、そっと触れる。

連日の熟睡で少しずつ改善していた隈は元の濃さに戻っていた。ララが化粧で隠してくれたのだけど彼は気づいていたんだ。


「ごめんなさい…」


 たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん寝る。この環境ならレーリアであっても可能なのに、できないなんて。


 俯くレーリアにしばらくジルは考える素振りを見せ、空を見上げた。

 今日は晴天。雲ひとつない青空だ。


「お嬢さんに今1番必要なのは安らぎでしょうか。少々驚かせてしまうかもしれませんが、ご容赦くださいね」

「え?」


 彼の指先が宙で円を描く。すると世界は闇に包まれた。

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