⑨ 日常の終焉、忍び寄る影
朝の光が差し込む。
森の静寂に包まれた廃村の拠点で、俺たちは久しぶりにゆっくりとした朝を迎えた。
焚き火の灰から立ちのぼる煙が柔らかく揺れ、昨日の温もりを思い出させる。
「おはよう!」
美咲が勢いよく声をあげる。元気な笑顔に場が明るくなる。
「おはよう、美咲。今日も早いね」
俺が返すと、彼女は胸を張って笑った。
「だって、昨日の水汲み、蓮くんと一緒だったから楽しかったんだもん!」
何気ない一言に、俺の心臓は跳ねる。
「……ふーん」
小さく鼻を鳴らしたのは心優だった。
昨日から彼女の態度は、ほんの少し冷たい。目が合ってもすぐに逸らされる。
(まだ怒ってるのか……? いや、嫉妬?)
その微妙な距離感に、胸がざわめく。
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午前中は拠点の補強をした。
「ここ、崩れそうだから直した方がいい」
山下が梁を支え、渡辺が縄を結ぶ。
美咲と日野は笑いながら雑巾を絞り、床を掃除している。
「蓮くん、こっち持って!」
美咲が両手で木材を抱え、助けを求める。
「おう、任せろ」
手が触れそうになる距離で木材を受け取ると、彼女はにっこり笑った。
「ありがと! やっぱり頼りになるね」
その言葉に顔が熱くなる。
視線の端で、心優が腕を組んでこちらを見ていた。
「……作業に集中してください」
低い声で言い残し、背を向ける。
その小さな背中に、なぜか胸が痛んだ。
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昼食の時間。
簡単な煮込み料理を囲む。
「やっぱり、こうやって皆で食べるのが一番だよね!」
美咲が笑い、日野も静かに頷く。
「そうだな。なんか、修学旅行みたいだ」
俺が言うと、皆がくすっと笑った。
だが心優は、箸を動かしながらも黙っている。
「心優、口に合わなかった?」
思わず尋ねると、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
「……いいえ。ただ、こんな穏やかな時間が長く続くとは思えないだけです」
静かな声が、食卓の空気を冷やした。
誰もが無意識に息を呑む。
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その言葉は正しかった。
午後、周囲の偵察に出た山下が戻ってきた。
顔色は青ざめ、肩で息をしている。
「おい、やばい……。森の奥に、あの“黒い獣”が……」
言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
「数は?」
心優が冷静に尋ねる。
「一体だけど……動きが尋常じゃねぇ。でかいし、速い。あんなの、まともに戦ったら……」
声が震えていた。
空気が一変する。束の間の日常が、音を立てて崩れていく。
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夕暮れ。
俺たちは拠点に身を潜め、焚き火も消して息を潜めていた。
「どうする……? 戦うのか?」
渡辺が囁く。
「無理だ。あんなのに勝てるはずがねぇ」
山下の声は低く重い。
「でも、逃げてもすぐ追いつかれるかもしれない」
日野の言葉に、皆が黙り込む。
その時、美咲が震える声で口を開いた。
「……蓮くんなら、きっと……」
「俺……?」
唐突な指名に息を呑む。
「昨日だって、みんなを助けてくれたじゃん。あの時みたいに……」
彼女の瞳が真っ直ぐに俺を見つめる。
だが、その言葉に重い責任を感じる。俺は英雄じゃない。ただ必死に生き延びてきただけだ。
横で心優が小さく首を振った。
「頼りすぎです。彼一人に背負わせてどうするんですか」
冷たい言葉に、美咲は口を噤んだ。
俺は二人の間で言葉を失う。
だが心の奥では、決意が芽生えていた。
(守る。俺は誰よりも、心優を守るために……!)
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夜。
交代で見張りをすることになった。
俺と心優は同じ番を任された。
「さっきは……ありがとな」
囁くように言うと、彼女は首を横に振った。
「私はただ、皆のために言っただけです」
冷たい声。でも、その奥にある優しさを知っている。
沈黙が続く。虫の声と、遠くから聞こえる不気味な咆哮が夜を震わせる。
「……怖いですか?」
心優がふと口にした。
「正直、怖い。でも……心優がいるなら、俺は大丈夫だ」
思わず本心が漏れる。
彼女は驚いたように目を瞬き、わずかに頬を赤らめた。
だがすぐに視線を逸らし、冷静を装う。
「……軽い言葉ですね」
「違う。一途に思ってる」
短く、だが真剣に言った。
一瞬の沈黙。
やがて彼女は、小さく息を吐いた。
「……今は、それを信じることにします」
その声に、胸が熱くなる。
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だが――。
深夜、地響きが拠点を揺らした。
「っ、来た……!」
山下が叫ぶ。
闇の中、木々をなぎ倒す巨影が現れる。
黒い毛並み、赤く光る双眸。息を吐くたびに腐臭が漂う。
「黒い獣……!」
誰かが叫んだ。
日常は、ついに完全に終わりを告げた。
恐怖と絶望が押し寄せる中、俺は剣を握りしめる。
(守る。絶対に、心優を守る……!)