⑥亀裂
戦いの後、小さな廃屋を見つけ、そこで休むことにした。壁は崩れ、屋根からは冷たい夜風が吹き込んでいたが、背を寄せ合うには十分な場所だった。
その夜、焚き火の火を囲んだクラスメイトたちの顔には、誰一人として安らぎはなかった。
犠牲者が出てから、空気は明らかに変わっていた。
笑う者はなく、泣き声すらも息を潜めるように抑えられている。
火がぱちりと弾ける。
その音が合図のように、クラスの中心に立つ男子、佐伯が口を開いた。
「このままじゃまずい。俺たちは強くならなきゃいけない。逃げてばかりじゃ、次は全滅だ」
低い声が響く。
佐伯はサッカー部のキャプテンで、蓮とは立場も性格も対照的だった。もともとクラスでもまとめ役で、今も自然とみんなの目が彼に向いている。
だが、その言葉にすぐ反論が飛んだ。
冷静な口調で、女子の一人、橘が前に出る。学年でも成績トップの才女であり、感情より理性を優先するタイプだ。
「強くなる? どうやって? 能力も出ない私たちが魔物と戦っても、死ぬだけです。今は隠れて、食料を確保して、様子を見るべきです」
「でもよ、それじゃ永遠に逃げ続けるだけだろ」
佐伯は食い下がる。
「この世界は俺たちを試してる。戦わなきゃ前に進めないんだ」
「戦うことが正しいとは限らない。無駄死にをするぐらいなら、逃げた方が合理的よ」
橘の瞳は強く光っていた。
火を挟んで、二人の視線がぶつかる。
周囲のクラスメイトは息を呑み、誰も口を出せない。
その緊張を見ながら、蓮は心臓がきゅっと締め付けられるのを感じていた。
(……ついに、分かれ始めた)
これまでかろうじて保っていた「生き延びるための団結」が、少しずつ音を立てて崩れていくのがわかった。
心優が、静かに口を開いた。
「どちらの言い分も一理あります」
その声は冷たくも温かくもなく、ただ均整のとれた響きだった。
「私たちは戦う準備も、逃げ続ける体力も不足しています。だから……選択肢を分けるのは危険です」
そう告げると、場の空気が少し和らいだ。だが一瞬だけだ。
「委員長はいつも中立だな」
佐伯が鼻で笑う。
「でも、俺はもう決めた。次に出てきた魔物とは戦う。逃げるだけじゃ何も変わらない」
「それでまた誰か死んだら、あなたは責任を取れるの?」
橘の声が鋭くなる。
再び、焚き火を挟んで火花が散った。
⸻
夜が更け、眠りについた者たちの間で、小さなささやきが飛び交っていた。
「私は橘の方が正しいと思う……」
「でも佐伯の言うこともわかるよ。いつかは戦わなきゃいけないんじゃ……」
囁きは焚き火の煙のように広がり、クラスの中にじわじわと亀裂を生んでいく。
蓮は外で見張りをしていた。背中に冷たい風を受けながら、剣の代わりに持った木の枝を握りしめている。
そこへ、心優が音もなく隣に座った。
「眠らないの?」
彼女の声は低く、しかしどこか優しい響きがあった。
「……なんか、怖くて」
蓮は苦笑した。
「みんな、バラバラになっちゃいそうでさ」
「仕方がないことです」
心優は星空を見上げながら言う。
「人は追い詰められると、本音を隠せなくなる。今がその時なのでしょう」
その横顔は、炎の光で照らされ、彫刻のように硬かった。
けれど蓮には、ほんのわずかに影が揺れているように見えた。
「でも……僕は委員長と一緒に戦いたい」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
心優はわずかに目を細める。
「戦う理由は?」
「……守りたいから」
蓮は俯き、拳を握る。
「このまま何もできずにみんなが死んでいくのは嫌だ。逃げるだけじゃ、きっと……守れない」
沈黙が落ちた。
風が吹き、木の葉がざわめく。
やがて心優が、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……あなたは、愚直ですね」
「え?」
「でも、その愚直さが……時に力になるのかもしれません」
彼女は小さく吐息を漏らし、夜空から目を逸らした。
胸が熱くなる。
ほんのわずかだが、彼女との距離が縮まった気がした。
⸻
翌朝。
食料を探しに行くか、それとも森を抜けて町を探すか。
話し合いの場はすぐに険悪な雰囲気に包まれた。
「動けば危険に遭う。隠れるべきだ」橘派。
「動かなきゃ飢えて死ぬ。戦って道を開く」佐伯派。
議論は平行線を辿り、声は次第に怒号へと変わっていく。
「お前は臆病なだけだろ!」
「無謀な英雄気取りはやめろ!」
押し殺していた不安と恐怖が、罵声として飛び交った。
そして、ついに橘が言い放つ。
「なら、分かれましょう。戦いたい人は佐伯と行けばいい。私は残る」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
だが、すぐに数人が橘の隣に立ち、また数人が佐伯の後ろに集まった。
二つの陣営。
たった一夜で、クラスは裂けた。
⸻
蓮は心優に視線を送った。
彼女は黙って腕を組み、全体を見渡している。
「委員長は……どうする?」
思わず問いかける。
心優は少しだけ考え、そして答えた。
「……私は蓮くんと一緒に行きます」
静かな声だった。だが蓮の胸を強く打つ。
その瞬間、彼の紋章がわずかに光を放った。
まだ力は顕現しない。けれど、確かに新しい鼓動を感じた。
(離れたくない。この人と一緒に、生き残る)
蓮はそう強く誓った。
だが、その背後でクラスメイトたちの足並みは、確実に乱れていた。
逃げる者と、戦う者。
仲間は信用しなければならないのに、もう誰も完全には信じられなくなっていた。