⑤ 紋章の鼓動
廃村に夜の闇が満ちた。
焚き火の炎は頼りなく揺れ、瓦礫の影が不気味に伸びる。
冷たい風が吹き抜け、腐葉土や古木の匂いが混ざった湿った空気が肺を刺す。
――ゴォォォン……。
低く、重い鐘の音が響く。遠くの闇から死者を呼ぶように、地面を震わせながら伝わってくる。
「……来る」
心優が立ち上がり、暗闇を真っ直ぐに見据える。
その声は冷静だが、背筋を走る緊張は隠せなかった。
クラス全員が息を呑む。
誰もが鐘の音に、言葉にならない恐怖を覚えていた。
蓮は心優の隣に立ち、手を握る。
掌に刻まれた紋章が微かに脈動する。
(大丈夫……いや、大丈夫じゃない。でも、離れない)
鐘の音が止むと同時に――廃村の奥からそれは現れた。
――巨大な影。
崩れかけた教会の入口を突き破り、獣の咆哮が夜を裂いた。
四つ足の巨体、漆黒の毛並み。
目は赤く光り、牙は人間の腕ほどの長さ。
「小型の魔物」とは比べ物にならない。存在感だけで全員の呼吸を止める。
「バケモンだ……こんなの、勝てるわけない!」
誰かの叫びが、瞬く間に恐怖の波紋となって広がった。
恐怖に駆られた二人組が背を向け、逃げ出そうとする。
「待って! 離れたら――」
心優の声が届く前に、雷鳴のような轟音――
バチィィィッ――!
二人の身体が同時に痙攣し、黒煙を上げて倒れ込む。
即死。
村に絶望の声が広がった。
「いや……嫌だ、もう嫌だ……!」
「死にたくない!」
だが怪物は待たない。
咆哮とともに突進し、近くの生徒を弾き飛ばす。
骨の砕ける音、血の匂い、悲鳴……すべてが混ざり合い、夜の闇に刻まれた。
蓮は反射的に心優の手を引き、瓦礫の影に飛び込む。
「……落ち着いて!」
心優の声は冷たく響くが、指先に微かに震えが残る。
二人は視線を交わす。
「僕たちで時間を稼ぐしかない」
「……分かった。一緒に頑張ろう!」
その一言に、蓮の胸が激しく鳴った。
⸻
怪物が広場の中央に立ち、赤い瞳で周囲を見渡す。
散り散りに隠れた生徒たちは、誰も反撃できない。
「心優……行くぞ!」
蓮は彼女の手を強く握り、暗闇の中に飛び出した。
「こっちだッ!」
叫びながら、怪物の前に立ちはだかる。
巨体が振りかぶる。
紋章が掌で熱を帯び、心優の瞳がわずかに揺れた。二人の手に光が宿る。
ゴッ――!
凄まじい衝撃。爪が地面を抉り、砂利が飛び散る。
蓮と心優は咄嗟に紋章を合わせて衝撃を受け止めた。
光の膜が一瞬だけ生まれ、爪を弾いた。
「今の……バリア?」
「わからない。でも……力が出た……!」
だが光は弱まり、二人は吹き飛ばされる。
背中を地面に叩きつけられ、肺が痛みで悲鳴を上げる。
「ぐっ……!」
「蓮くん!」
心優の声が近くで響く。泥まみれになりながらも、彼女は必死に立ち上がる。
蓮も唇の血を拭い、立ち上がる。
「まだ……終わってない」
怪物は咆哮を上げ、別の生徒に狙いを定める。
必死に逃げる間に、また誰かが犠牲になる――。
「やめろおおおっ!」
蓮が飛び出す。
その瞬間、心優が叫んだ。
「……行かないで!」
彼女の手が蓮の手を強く掴む。
紋章が一際強く輝いた。
ドンッ――!
爆発のような光が広場を照らし、怪物の動きが止まる。
光は短く、力も完全ではない。だが確実に怪物を怯ませた。
「今の……僕らの、力……」
「……親密度が高まれば、力は強くなるって言ってた」
心優の瞳が炎に揺れる。
「なら……蓮くん。信じるわ」
その言葉は、彼女には珍しい温度を帯びていた。
蓮の胸が熱くなる。
(信じる……委員長が、僕を……?)
怪物が咆哮し、再び突進する。
二人は恐怖に震えながらも、互いの手を離さない。
「行くぞ!」
「ええ!」
紋章が同時に鼓動する。光は先ほどより濃く、刃のように広がった。
突進してきた怪物の胸に、光が叩き込まれる。
ズガァァンッ!
衝撃波が走り、怪物は後方へ弾き飛ばされる。
地面に深い爪痕を残し、怪物は体勢を崩す。
初めて――明確に傷を与えた。
「倒せたのか……!」
誰かの声が夜の闇を破り、広場には微かな希望の光が差し込んだ。