第13話 森の異邦人
朝の森は、まるで別の世界そのものだった。
無数の木々が天へと伸び、枝葉が重なりあって薄緑の天井をつくっている。
鳥の鳴き声が遠くで響き、足元では湿った土が柔らかく沈んだ。
小さな光が木漏れ日となって差し込み、空気の中で細い金の筋になって揺れている。
蓮は、汗を拭うように額をぬぐいながら、前を歩く心優の背中を見つめた。
彼女の髪が揺れるたびに、陽光が反射してきらめく。
異世界に来てからどれだけ経ったのか。日付の感覚ももう曖昧だった。
けれど、彼女が隣にいる。それだけが、現実と呼べる唯一の証のように思えた。
「ねえ、蓮……」
振り返った心優の声は、風に溶けるようにやわらかい。
「この森、ずっと同じ景色に見えない? なんだか、ぐるぐる回ってる気がする……」
蓮は足を止め、辺りを見回した。確かに、見覚えのある形の倒木がまた目に入る。
「……かもな。方角を間違えたかもしれない。」
焦りが胸の奥にじわりと広がる。
けれど、それを顔に出すわけにはいかなかった。彼女の表情を曇らせたくなかった。
「大丈夫。太陽の位置を見れば、東はわかる。多分、あっちが出口だよ。」
蓮は笑ってみせる。
心優も小さくうなずいたが、その笑みは少しだけ不安げだった。
二人は再び歩き出す。
草の匂い。遠くで流れる水音。
風が葉を揺らし、その合間に鳥の影が走った。
静かな森のはずなのに、どこかに“見られている”気配がある。
やがて、乾いた枝を踏む音が背後で響いた。
「……っ?」
振り向いた瞬間、矢の先端が喉元にぴたりと突きつけられた。
「止まれ。」
鋭く低い声。
目の前には、深緑のマントを纏った青年が立っていた。
銀色の髪が風に流れ、瞳は琥珀色に光っている。
背は高く、動作に一分の隙もない。
心優が息をのんだ。蓮は思わず彼女の前に出る。
「待ってくれ! 俺たちは敵じゃない!」
両手を上げながら叫ぶと、青年は少しだけ矢を下ろした。
「……この辺りで人間を見るのは久しい。名を名乗れ。」
「俺は天城蓮。こっちは心優。……俺たちは、この世界の人間じゃない。」
青年の眉がわずかに動いた。
「異界の者、か。」
静かな呟きとともに、彼は弓を背中に収めた。
「ついてこい。ここで立ち話をするには、森が騒がしい。」
◇
焚き火の炎がぱちぱちと弾け、オレンジ色の光が森を染めた。
青年――リオスと名乗った男が、獣の皮を敷いた岩の上に座り、慎重に肉を焼いている。
香ばしい匂いが漂い、空腹だった蓮の胃が小さく鳴った。
「食え。毒はない。」
短く言われ、蓮と心優は顔を見合わせてから受け取る。
口に入れた瞬間、驚くほど旨かった。
この世界に来て初めて“まともな食事”を口にした気がした。
「お前たちは、どうしてこの森に?」
リオスの問いに、蓮は少し考え込む。
「……気づいたら、この世界にいた。城の近くで襲われて、逃げてきて……。帰りたいんです。元の世界に。」
リオスはしばらく沈黙したあと、ゆっくりと口を開いた。
「その願いを叶える方法は、一つだけある。」
蓮と心優は同時に顔を上げた。
「“魔王”を倒すことだ。」
その名を聞いた瞬間、焚き火の音が一段と大きく響いた気がした。
心優の手が、わずかに震えた。
「魔王……?」
リオスはうなずく。
「この世界の混乱と異界召喚のすべての根源。奴が生きている限り、世界の境は歪んだままだ。
だが、もし奴を討てば——異界の門が開き、お前たちは帰ることができるだろう。」
帰れる——。
その言葉が蓮の胸の奥で何度も反響した。
帰れるんだ。元の教室に、日常に、サッカーの練習に。
でも……その隣に、彼女はいるだろうか。
もし帰る道が見つかったとしても、彼女が傷ついたら?
彼女が、いなくなったら?
炎を見つめる心優の横顔は静かで、少し悲しそうだった。
「……帰れるんだね。よかったね、蓮。」
そう言って笑うその表情が、なぜか胸を締めつける。
蓮は拳を握りしめ、強く言った。
「心優も一緒に帰る。絶対に。」
「……蓮。」
彼女が小さく名前を呼んだ。
その声は、風よりもやさしく、けれど確かに震えていた。
「うん。約束だよ。」
心優の瞳が、焚き火の光を受けてきらめいた。
二人の間を、柔らかな風が通り抜ける。
リオスが視線を遠くに向けた。
「……静かにしろ。」
その瞬間、森の奥から黒い霧が立ち上るのが見えた。
空気が一変する。冷たく、重く、息苦しい。
「魔王の眷属だ。追跡が早い。」
リオスが立ち上がり、剣を抜いた。刃が月光を反射して白く光る。
蓮も反射的に腰の短剣を握る。
「俺も戦う。」
「お前に戦えるのか?」
「わからない。でも、守りたい人がいる。」
言葉が自然と口を突いた。
リオスが一瞬だけ笑った。
「いい目をしている。なら、ついてこい。」
黒い霧の中、異形の影が姿を現す。
赤い目を光らせ、低い唸り声をあげながら森を這う。
心優が後ろで息を呑むのがわかる。
蓮は振り返り、真っすぐに言った。
「大丈夫。俺が守る。」
その言葉に、心優は静かにうなずいた。
風が吹き、焚き火の火が消える。
闇の中、三人の影が揺れる。
——この夜から、蓮の戦いが始まった。
そして、彼の中で“誰かを守りたい”という想いが、“恋”という名に変わるのは、もうすぐのことだった。