家路
夜の江戸は暗い。空に浮かぶは半月で、行灯なしに道を歩くには足下に不安が残る。そんな夜道を、一人の武士が歩いていた。
暗色の着物に袴、腰に打刀を差し、左手には行灯。行灯がなければ着物の色も相俟い、夜闇に紛れて、その姿が周りから見えなかった事だろう。
時期は秋に差し掛かり、草陰からは虫たちが鈴を転がすように鳴いている。そんな中を男は一人ぶらぶらと家路を歩いていた。足下がふらついている事から、男が夜遅くまで酒を呑んでいた事が窺える。それだと言うのに伴はいない。男は酒を呑んで気分を良くしているのか、鼻歌など口ずさみながら、夜道を歩いていた。
そんな男の様子を後ろから窺いつつ、男の後を付ける別の男が一人。着流しのその男は、行灯も持たず、息を殺して男の後ろを尾行していた。夜に紛れて確かには見えないが、前を行く男に比べてその姿は薄汚れて見える。それでいてその瞳は男をがっつり捉えていて、目は爛々としている。それだけで前を歩く男と因縁があると、他の誰かが二人の姿を見掛けていれば分かるくらいに、前を歩く男を尾行する男の気勢は殺気立っていた。
しかしこの夜に二人の姿を見掛けた者は誰も居らず、後ろの男がそれを分かって、前の男と距離を詰めていく。それと共に懐に隠していた短刀を鞘から引き抜く。
「おい!」
そのまま前の男を刺すかと思いきや、男は前の男へ後ろから声を掛けた。その両手には短刀が握られ、真っ直ぐ前の男に向けられている。
陽気な気分を邪魔された男は、眉間に皺を寄せながら振り返る。行灯は始めに後ろの男の足下を照らし、そして徐々に上に上げられていくと、自分に向かって短刀を向けた男がおり、前の男はギョッとなって腰の打刀に手を掛ける。
「抜くなよ! 抜こうとしたら、それより先にこいつがお前を刺すからな!」
「…………何者だ?」
誰何する前の男に、後ろの男は声を荒げる。
「何者か、だと? 俺の顔を忘れたと言うのか!」
後ろの男が怒気を孕んだ声で前の男を罵るも、前の男にはまるで見覚えがない。
「……さあて? 見た事がないな」
酒を呑んでいた事もあり、気が大きくなっていた男は、貧相な出で立ちの男を前にして、こいつには自分を殺す事など出来ないだろう。と腰から打刀を抜こうとする。
「刀を抜くなと言っただろ!」
吠えながら男は短刀を持って前の男に突進する。それをひらりと躱そうと、横に足を運ぶも、何分酒をたらふく呑んだ後だ。足下の覚束ない男は、上手く男の短刀を躱す事が出来ず、それでも後ろの男の短刀は、行灯を切り裂くまでで、男には届かなかった。
「クソッ!」
夜空に半月が浮かぶ中、後ろの男は身体を反転させて再度前の男に向かって突進していく。
「莫迦が!」
それに対して前の男は既に打刀を抜いており、上段に振り上げたその打刀を、後ろの男目掛けて振り下ろす。
しかしやはり酒の力と言うのは色々と狂わせる。ふらふらの男が振り下ろした打刀は、後ろの男の左肩に当たるも、その威力は皮を裂く程度のものに留まり、男を殺すには至らなかった。
「くっ!」
「うわあああ!!」
交錯する二人の男。前の男の打刀も致命傷にならなかったが、夜闇の中で夜闇に紛れるような着物を着ていた男の姿を見失った後ろの男の短刀も、同様に男に致命傷を与える事が出来なかった。
夜闇の中でもつれ合う二人の男。倒れ込み、上になったり下になったりを二人は繰り返し、お互いに刃を交わし、それは二人が動かなくなるまで続いたのだった。
✕ ✕ ✕
「これが仏さんか」
朝日が昇り、与力の所へ道で死体が見付かったとの報告が来たので、与力は朝から縁起が悪いと思いながら、その重い腰を上げて、死体が見付かった道まで、同心の案内で赴いた。
死体は二体。一人は下級武士で、生まれは江戸ではなく、地元のお殿様に付き従って、数年ぶりに江戸へとやって来た男である。
もう一人は三代続く江戸っ子で、何年か前から借金で首が回らなくなったと噂のあった男である。
両者は相当な斬り合いをしたらしくその死体は両者共に惨たらしく斬り傷でズタズタだ。
「何でこいつらこんな事になったんだ?」
与力が同心に尋ねると、同心が岡っ引きを動員して集めた情報を与力に話す。
「何でも、何年か前に賭場で金の貸し借りをしたらしく、武士の男は、こっちの着流しの男から金を借りたまま地元に帰っちまったようで、着流しの方はそれで他に借りていた借金の返済の当てがなくなって、家財も女房も、売れるもん全部売って、何とか爪に火を灯すように生きていたらしいッス。そして数年ぶりに武士の方が江戸に戻ってきたって話を耳にして……」
「は〜ん。いつものヤツか。武士の所の大名様には伝えに行ったんだろ?」
「ヘイ」
「じゃ、後はいつも通り、仏さん二人を弔ってやんな」
「ヘイ」
詰まらなそうにそう口にした与力は、同心にそう指示を出すと、まだ朝飯も食べていなかった事を思い出し、腹を擦りながら家路へと引き返す。
「しかし、毎日のようにこんな事ばかり起こりやがる。世も末だねえ」
家路を歩きながら、与力は道の向こうの眩しい朝日に、目を細めるのだった。